(もう一つのブログ「知恵比べ」分校時代の記憶の後に投稿すべき記事です。)
かなり昔のことである。私はまだ小学校の分校に通っていたころのことである。弟はまだ就学前の話である。おやつにゆで卵を食べたのだが、当時は冷蔵庫も無く籾殻の中にたまごを保存していたので新鮮な状態ではなかったと考えられる。
ゆでたものを冷やして殻をむいたものを私と弟に一個ずつよこしたのだが、私は自分のやつを食べて、もう一個を弟に渡した。そのたまごは剥き方が悪かったのと、ちょうどへこんだ部分につめの跡がついていて傷が残っている状態であった。今思えば、相当かけた状態であったと判断できる。「母ちゃん、兄貴はオレの卵を引っかいて食べてからよこした。」とけんかになってしまい、母親に泣きながら訴えた。
あの状態ならば、弟が怒り出しても仕方がないかもしれない。私のやつが残っていれば其れと取り替えれば済むことであるが既に胃の中に納まってしまっている。お袋がいくら説明しても頑として受け付けないので母親は剥いた殻を捜すのだが、うまく見つからなかった。其れもそうだ、ふたつ以上のたまごの殻が混ざってしまっていることになる。それ以外のごみも一緒に捨ててしまっている。
仕方がないのでもう一個ゆでて、弟に直接渡して自分で剥かせることで、「ここは、たまごさんが生きていくのに呼吸しなければならないので空気をためておく場所だよ。」と説明しながら解決したと記憶している。現在ならパソコンで検索すればすぐに解決する課題であるし、卵は殻を通して呼吸しているがここでは取り上げないことにする。
この頃、まだ玉を拾う屑篭の知恵は習得していなかったので、記録して置かなかった。かすかな記憶を手繰り寄せている。家庭教育の素晴らしい所はこの行為が愛情に満ちた知恵を教えているということである。
近年、塾通いをしている子供たちが多くなったが、塾は学校教育の延長線上のものであり知識を得るためのものではないだろうか。知識と知恵は基本的には違うのである。どこかで重なっている部分もあるが、どれかのブログで触れているので参考にしていただきたい。この知恵を教えるという行為が、生活しながら考えるという行為がすっかり欠落してしまっているのではないかと考えさせられることが頻繁に起こっているような気がする。
受験競争の中では無理なことなのか知れない。理論上は理解できているが、どう応用するかと言うことは問題の外になってしまっているのではないでしょうか。どこかで学ばなければ成らない事柄であるような気がする。
【知恵深き母の言葉に諭されつ遠き過程や創造の道】【歌創造学より】
【参考文献、佐賀のがばい婆ちゃん 島田洋七著、特に人生の教科書に関する事柄で生きていくうえでの知恵を教えていると思われる。】
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