「鎌倉殿の13人」のオープニング映像。最後は兵馬俑の像のような「武士」が「貴族に挑んでいる、刀を抜こうとしている」シーンで終わります。
明らかに昔ながらの「公武対立史観」を採用しています。「昔ながら」に批判の意識はありません。私は基本的に公武対立史観を支持しているからです。
源実朝は「上皇」と強く協力していこうとしますが、北条義時も三浦義村も「表面上は上皇を敬いながらも」、何度も「西のやつら」の「好きにされてたまるか」という言葉を口にしています。
そもそも北条義時の兄である北条宗時の「遺志」が「源氏も平家のいらない。西のやつらに指示されたくない。俺たちの坂東を作る。そこで北条が頂上に立つ、というもので、その遺志を北条義時は「継いで」いるのです。もっとも三谷さんは「王家の犬になりたくない」とか登場人物に言わせません。上皇をユーモラスに描くことで、政治問題化する危険を回避しています。
これが三谷さんの「史観」だとは思いません。大河は物語です。物語は「対立があったほうが面白い」場合が多いのです。「みんな仲良し」だったり、「上皇が出てきてははーとなって、すべてが丸く収まる」ようでは「時代劇は」成立しません。大河では「戦国もの」と「幕末もの」が好まれますが、それはまさにその時代が「対立の時代」だからでしょう。三谷さんは「物語作家として対立構造の方が面白い」と考えたことは確かです。がそれ以上は分かりません。年代的には「公武対立史観」で育ちましたからより「親しみを持っている」のは確かでしょう。さらにリメイクの元作品である「草燃える」は明確に公武対立です。最後に北条義時はこう言うのです・
「これは謀反ではない。ムホンというなら、上皇こそ謀反を起こされたのだ。謀反者は上皇なのだ」
私は若く「天皇、上皇のムホン」という概念を知りませんでした。しかし歴史を勉強してみると「帝ごムホン」と言う言葉は存在します。特に後醍醐関連ではしばしば登場するようです。
幼い私はこのセリフに驚いたのですが、同時に「興味深い」とも考えました。
「草燃える」が放送された1970年代後半を「革命の時代」みたいに思っている方がいますが、全く違います。日本では高度成長が1960年ごろ始まり、70年代後半には頂点に達します。それから徐々に「低成長」の時代にはいります。バブルというのは「あだ花」です。高度成長で多くの日本人が「浮かれている」のに、「その社会を根本的に壊そう」なんて勢力が広く支持されるわけはありません。自民党は今よりずっと支持されていましたし、共産党は今よりずっと嫌われていました。共産党支持と言っただけで「TV界から追放された大物司会者」もいたのです。
少しも「革命の時代」ではありません。ただし「反権力的な考え」は今より強かった。また知識人の多くがマルクス主義に親和感を持っていました。ただし大学では既に「マルクス経済学」は主流ではなく、「近代経済学」が主流でした。
要するに革命的なものに「多少のあこがれ」を持っていたのは「知識人」であり、それも「資本主義を改善するため必要」と考えただけであり、「革命を起こそう」なんて言っている人間は、極めて少数というか、私自身は東京に住んでいましたが、見たこともありません。
「公武対立史観」は確かに「マルクス史観の影響」を受けていますが、知識人、庶民含めて「基本的にはマルクスなんて原著を読めないし、理解していたわけでもない」ので、「古いマルクス史観の残滓」などという指摘も違います。史学者がきちんと分かっていたかも怪しいもので、せいぜい階級闘争史観を「便利なツール」として使った程度でしょう。
若い(40代ぐらいの)研究者や「西の研究者」が、「公武対立史観は間違いだ。あれはマルクス主義史観の古い残滓だ。公武は協調していたのだ」と叫びたくなる気持ちは理解できます。
しかし「その声があまりに大きすぎて」、なんだが「引いてしまうな」というが実感です。「大いなる間違い」だと思います。20年もたてば大きく修正されるでしょう。「一過性の流行」に過ぎないからです。
あらゆる場面において「公武」が「協調していきましょう」と思って行動していたとは到底思えない。実際は「対立もあったし」「協調もあったし」「妥協もあった」わけです。そういう「具体的な現実を」、公武協調史観という「原理」によって「言葉遊びのように塗り替える」のは、知性的態度とは思えません。
たとえばこういう極論をいう西の学者がいます。
「承久の乱こそ公武協調の現れだ。幕府は結局朝廷を尊重し温存した。いや朝廷の在り方を正常にし、朝廷を盛り立てるために承久の乱を起こしたのだ」
ここまでくると失礼ながら「頭がどうかしてしまったのだ」というよりありません。
公武対立が「あらゆる場面で当てはまる」ことはないですからそれも「原理としてはいけない」わけですが、「協調」も原理にしてはならないのです。「対立や協力していた」というだけです。「対立」という言葉を使うのが「生理的にいや」らしくて「競合」という人もいます。どうしても「対立」というワードを抹殺したいようです。
公武協調史観のモト原理は黒田俊雄氏の「権門体制論」です。黒田氏は学者にしては「珍しく」、生粋のマルクス主義者で政治的発言も「反権力的」なものが多い。そもそも「権門体制論」自体が、極めて反権力的な原理です。それはつまり「天皇制を支えている権力とは何か。貴族ばかりを見てはいけない。武士も支配者だし、寺社も支配者だ」と訴えているのです。
ところがそれを「読み変えてしまう」わけです。日本は天皇を中心に貴族、武家、寺社が相互補完しながら運営してきた、と。そして権門体制論については「まともな批判をしないまま、便利なツールとして利用」することになります。
こういう「おめでたい」読み替えを誰がしたのか。具体的な学者名を挙げることもできますが、別に「喧嘩するつもり」はないので、挙げません。ただ「もうちょっと冷静に考え、原理的思考を捨ててほしい」と思うのみです。
私は個人的に「権門体制論の検討」をしていますが、日本には「権門体制論」と名のついた本はほぼ皆無です。せいぜい数冊です。しかも「読み替え権門体制論」であることがほとんど。ちなみに権門体制論に批判的な本郷和人さんは時に触れて言及しますが、彼が言及しているのは「読み替えられた権門体制論」であって、黒田氏のオリジナルではありません。
ただ中には「まともな批判」をする学者もいるにはいるのです。ただ非常に少ない。
公武協調史観のモト理論は権門体制論です。しかしその権門体制論をまともに検討している学者は少ない。検討なきまま、便利なツールとしてのみ流布して、多くの学者が「乗っかって」いる。
これは憂慮すべき現状でありましょう。
明らかに昔ながらの「公武対立史観」を採用しています。「昔ながら」に批判の意識はありません。私は基本的に公武対立史観を支持しているからです。
源実朝は「上皇」と強く協力していこうとしますが、北条義時も三浦義村も「表面上は上皇を敬いながらも」、何度も「西のやつら」の「好きにされてたまるか」という言葉を口にしています。
そもそも北条義時の兄である北条宗時の「遺志」が「源氏も平家のいらない。西のやつらに指示されたくない。俺たちの坂東を作る。そこで北条が頂上に立つ、というもので、その遺志を北条義時は「継いで」いるのです。もっとも三谷さんは「王家の犬になりたくない」とか登場人物に言わせません。上皇をユーモラスに描くことで、政治問題化する危険を回避しています。
これが三谷さんの「史観」だとは思いません。大河は物語です。物語は「対立があったほうが面白い」場合が多いのです。「みんな仲良し」だったり、「上皇が出てきてははーとなって、すべてが丸く収まる」ようでは「時代劇は」成立しません。大河では「戦国もの」と「幕末もの」が好まれますが、それはまさにその時代が「対立の時代」だからでしょう。三谷さんは「物語作家として対立構造の方が面白い」と考えたことは確かです。がそれ以上は分かりません。年代的には「公武対立史観」で育ちましたからより「親しみを持っている」のは確かでしょう。さらにリメイクの元作品である「草燃える」は明確に公武対立です。最後に北条義時はこう言うのです・
「これは謀反ではない。ムホンというなら、上皇こそ謀反を起こされたのだ。謀反者は上皇なのだ」
私は若く「天皇、上皇のムホン」という概念を知りませんでした。しかし歴史を勉強してみると「帝ごムホン」と言う言葉は存在します。特に後醍醐関連ではしばしば登場するようです。
幼い私はこのセリフに驚いたのですが、同時に「興味深い」とも考えました。
「草燃える」が放送された1970年代後半を「革命の時代」みたいに思っている方がいますが、全く違います。日本では高度成長が1960年ごろ始まり、70年代後半には頂点に達します。それから徐々に「低成長」の時代にはいります。バブルというのは「あだ花」です。高度成長で多くの日本人が「浮かれている」のに、「その社会を根本的に壊そう」なんて勢力が広く支持されるわけはありません。自民党は今よりずっと支持されていましたし、共産党は今よりずっと嫌われていました。共産党支持と言っただけで「TV界から追放された大物司会者」もいたのです。
少しも「革命の時代」ではありません。ただし「反権力的な考え」は今より強かった。また知識人の多くがマルクス主義に親和感を持っていました。ただし大学では既に「マルクス経済学」は主流ではなく、「近代経済学」が主流でした。
要するに革命的なものに「多少のあこがれ」を持っていたのは「知識人」であり、それも「資本主義を改善するため必要」と考えただけであり、「革命を起こそう」なんて言っている人間は、極めて少数というか、私自身は東京に住んでいましたが、見たこともありません。
「公武対立史観」は確かに「マルクス史観の影響」を受けていますが、知識人、庶民含めて「基本的にはマルクスなんて原著を読めないし、理解していたわけでもない」ので、「古いマルクス史観の残滓」などという指摘も違います。史学者がきちんと分かっていたかも怪しいもので、せいぜい階級闘争史観を「便利なツール」として使った程度でしょう。
若い(40代ぐらいの)研究者や「西の研究者」が、「公武対立史観は間違いだ。あれはマルクス主義史観の古い残滓だ。公武は協調していたのだ」と叫びたくなる気持ちは理解できます。
しかし「その声があまりに大きすぎて」、なんだが「引いてしまうな」というが実感です。「大いなる間違い」だと思います。20年もたてば大きく修正されるでしょう。「一過性の流行」に過ぎないからです。
あらゆる場面において「公武」が「協調していきましょう」と思って行動していたとは到底思えない。実際は「対立もあったし」「協調もあったし」「妥協もあった」わけです。そういう「具体的な現実を」、公武協調史観という「原理」によって「言葉遊びのように塗り替える」のは、知性的態度とは思えません。
たとえばこういう極論をいう西の学者がいます。
「承久の乱こそ公武協調の現れだ。幕府は結局朝廷を尊重し温存した。いや朝廷の在り方を正常にし、朝廷を盛り立てるために承久の乱を起こしたのだ」
ここまでくると失礼ながら「頭がどうかしてしまったのだ」というよりありません。
公武対立が「あらゆる場面で当てはまる」ことはないですからそれも「原理としてはいけない」わけですが、「協調」も原理にしてはならないのです。「対立や協力していた」というだけです。「対立」という言葉を使うのが「生理的にいや」らしくて「競合」という人もいます。どうしても「対立」というワードを抹殺したいようです。
公武協調史観のモト原理は黒田俊雄氏の「権門体制論」です。黒田氏は学者にしては「珍しく」、生粋のマルクス主義者で政治的発言も「反権力的」なものが多い。そもそも「権門体制論」自体が、極めて反権力的な原理です。それはつまり「天皇制を支えている権力とは何か。貴族ばかりを見てはいけない。武士も支配者だし、寺社も支配者だ」と訴えているのです。
ところがそれを「読み変えてしまう」わけです。日本は天皇を中心に貴族、武家、寺社が相互補完しながら運営してきた、と。そして権門体制論については「まともな批判をしないまま、便利なツールとして利用」することになります。
こういう「おめでたい」読み替えを誰がしたのか。具体的な学者名を挙げることもできますが、別に「喧嘩するつもり」はないので、挙げません。ただ「もうちょっと冷静に考え、原理的思考を捨ててほしい」と思うのみです。
私は個人的に「権門体制論の検討」をしていますが、日本には「権門体制論」と名のついた本はほぼ皆無です。せいぜい数冊です。しかも「読み替え権門体制論」であることがほとんど。ちなみに権門体制論に批判的な本郷和人さんは時に触れて言及しますが、彼が言及しているのは「読み替えられた権門体制論」であって、黒田氏のオリジナルではありません。
ただ中には「まともな批判」をする学者もいるにはいるのです。ただ非常に少ない。
公武協調史観のモト理論は権門体制論です。しかしその権門体制論をまともに検討している学者は少ない。検討なきまま、便利なツールとしてのみ流布して、多くの学者が「乗っかって」いる。
これは憂慮すべき現状でありましょう。