歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

鎌倉殿の13人、スピンオフ「北条泰時の野望・鶴岡八幡宮の雪」

2022-11-23 | 鎌倉殿の13人
石段に差し掛かると、源実朝は北条義時の目を見てこう言った。
「叔父上、腰を痛めていると聞きました。この寒さはこたえましょう。ここで結構です。もうお帰りください」
それを聞いていた源仲章は得意満面の笑みを浮かべた。
「執権殿、ご老体にはこたえましょう。ささ、その太刀は私が持ちますゆえに」
「おお仲章、気が利くな。叔父上に代わり、太刀持ちをお願いしよう」
それにしてもこの太刀は、と仲章は思った。ずしりと重い。どうやら本身の刀である。
「ここは武家の都、武家には武家の作法があります」と義時は笑った。
実朝は何も言わない。仲章は黙って太刀を受け取った。義時と実朝は目で合図を送りあった。

拝賀は終わった。しばし休息。実朝は雑色頭の重蔵を呼んだ。
「仲章様の様子はしかと見ました。束帯の下に着込みをしておりまする」
「これと同じか」と実朝は、自らの着込みを重蔵に見せた。
「弓を使うでしょう。十分にお気をつけを」と重蔵は言った。
「かねてからの打ち合わせ通りに。お前の配下も命を落とさぬよう、注意せよ」
「われわれの命など、御所の命の代わりとなるなら」
「それはいかん。生きとし生けるもの、みな同じぞ。それに私は今日、一人の男を斬る。殺生はそれだけよい」
「はっ」重蔵は闇に消えた。

実朝たちは石段を下りていく。仲章がふと気が付くと、松明を持つ雑色の数が異常に増えている。篝火もたかれ、鎌倉の漆黒の闇は消え、薄明りに満ちている。
雑色たちは自分たちの行列を二重に取り囲んでいる。実朝の前方は特に厳重で、屈強で背の高い男がまるで壁のように実朝の前を歩いている。
一行は公暁が潜む大銀杏に近づいた。
「気が付かれている」と仲章は悟った。「とすれば自分の命が危ない。逃げなければ」と仲章は思う。
「あっ、足が」と言って仲章が立ち止まった。逃げるつもりである。
「それはいかんな、重蔵、介助さしあげろ」
実朝の命で重蔵が仲章をいだいた。「いだく」というより、羽交い絞めである。
「い、息が」と仲章はうめいた。

同時に、大銀杏の向こうで「おう」とか「うっ」という声が上がった。重蔵の配下が公暁の仲間を襲ったらしい。やがて静まった。
「公暁、出てこい。命はとらん。陸奥がいいか。どこぞの島か」と遠流の場所を尋ねている。
やがて大銀杏の向こうから公暁が現れた。利き手の右腕から血が流れている。これでは弓は使えない。左手に太刀を持っている。片手で使うには重いであろう。
実朝は仲章が手放した剣を、重蔵の配下から受け取った。
「公暁、何がしたい。俺を殺しても鎌倉殿になれるわけがなかろう」
「うるさい、実朝。おれは父の仇が討てればそれでよい。しかしそれだけでないぞ。おれは武家の棟梁になる。こんな田舎の鎌倉ではない。京の都で棟梁となるのだ。」
「ほほう、仲章がそう約束してくれたか」
「仲章などではない。もっともっとずっと尊いお方だ」
「だれだそりゃ、不動明王か誰かか」、実朝は会話を楽しんでいる。
仲章を羽交い絞めしていた重蔵の手が緩んだ。都の公卿はとっくに逃げている。仲章の背後には雑色が満ちている。
仕方なく仲章は公暁のほうへ走り出した。
「仲章」と叫ぶと、実朝はその背を袈裟に斬った。
「親の仇はかく討つぞ」と実朝は大声で叫ぶ。逃げる公卿たちは、背にはっきりその声を聴いた。この言葉は公暁の言葉として、長く日本史に記録されることとなる。

「な、なにをする実朝。仲章は上皇様の近臣ぞ」
「ほほう、そうか、ならお前はその近臣を斬ったことになる」
「な、なにを言う。お前が斬ったのではないか」
「いや、お前が斬ったのだ。上皇様は怒るであろうな」
雑色たちが実朝に向って走ろうとする公暁の前を幾重にも遮った。
「公暁よ。私はお前がかわいいのだ。哀れでもある。この鎌倉は私たち源氏の物ではない。坂東武者の都だ。われわれは所詮、まろうど(客人)に過ぎぬのだ。」
「うるさい」と剣を振りかざしたその腕を、重蔵がしたたかに棒で打った。剣は石段に落ちる。
「仲章を斬ったお前はもはや京にも居場所がない。俺を殺したのだから、むろん鎌倉にも居場所はない。どこぞの島で20年我慢しろ。呼び返してやる。おれは鎌倉を去るが、それは約束しよう」
「鎌倉を去るのか」公暁の声だけがした。実朝は雑色たちを下がらせる。
「ここは源氏の都ではないからな。実際疲れるのよ。あっちこっちに気を配り、儀式儀式の毎日だ。鎌倉殿なんて、そりゃ疲れるだけで、何のいいこともないんだぞ」
実朝はにっこりと笑った。
公暁は背後に向って逃げ出した。その背に向って実朝は叫んだ。
「三浦には行くな。殺されるぞ」
「実朝、お前が許しても、お前の主人である義時は許すまい。お前は犬だ。所詮は義時の犬だ」叫びながら去っていく。
「止めますか」と重蔵が言う。
「いいさ。死なせてやろう。島で20年、あの男にとっては地獄であろう。それになるほど義時は許すまい。あの男は怖い男だ。」
重蔵の配下が軽口をきく。
「御所様にとって執権様が邪魔なら、執権様をやっちまえばいいの、、、」
と言葉が終わらぬうちに、重蔵は男の顔を張り飛ばした。男はごろごろと石段を落ちていく。
「重蔵、義時に絶対手を出すなと配下に伝えよ。おれが死んでも鎌倉は大丈夫だが、義時が死ねば鎌倉はつぶれる」
「さほどのお方で」
「ああ、あの非情さはまさに父上の継承者にふさわしい。おれは優しいからな。あそこまで非情にはなれん。今はまだ鎌倉は開府したばかり、非情さが必要だ。」
「それに義時が今死ねば」
「執権様が今お亡くなりになると?」
「太郎泰時の時代が来ない。おれは義時死後の太郎の時代を見据えている。しかし太郎にはまだそこまでの覚悟がない。あと数年、そう5年は義時に生きてもらわねば」
「太郎様は御所と同様、お優しい方と存じますが」
「なに、あれはあれで非情になれる男よ。しかも太郎の時代は鎌倉は成熟期に入っていく。非情さと優しさ、二つながら必要だ。」
「それにしても御所は本当に鎌倉を離れるので」
「ああ、京に行く。死んだからな。太郎の為に、京の大掃除をすることにした。それに田舎暮らしは飽き飽きだ。京が好きなのさ。和歌も詠みたい。あの寺にもこの場所にも行きたい。」
とおどけた後、真剣な表情となった。
「京で遊んで、それからあの男にも会う。あの男には会わねばならん。」
「その男に会ってどうなさるので」
「𠮟り飛ばしてやるのよ。下らんハカリゴトはいい加減にしろとな。刀が打てるからといって、武士の心が分かってたまるものか。」
「刀を打つ、刀匠なのですか」重蔵は誰とわかっているが、わざととぼけている。
実朝は笑った。
「いずれ話してやる。とにかく太郎泰時の時代を招きいれるのが、この実朝の大仕事よ。その為に京に行く」
重蔵はそれ以上はきかない。
「金はあるぞ。ついてくるか重蔵。京の酒はうまいらしいぞ。」
「むろんのこと、地獄の果てまで」
「地獄とは、いちいち暗いのだよ、お前は。それに俺は極楽に行くつもりだ。12歳の年から苦労してきた。お釈迦様は見てくれているさ。地獄では俺に会えないぞ」
「ではこの重蔵も極楽に参りまする」
「そうか。いけるさ。人は殺すが民のためだ。それにお前には悪人の、罪人の自覚がある。自分を善人だと思っているやつらさえ極楽に行けるのだ。いわんや悪人が行けないことがあろうか」
あとは自分に言い聞かせるような一人語りになった。
「親父の頼朝には悪人の自覚があったのだろうか。父上は地獄に行ったのか。極楽か。義時は自分の罪が分かっている。叔父上は極楽に行くだろう。そうでなくてはならん。」
重蔵は黙って実朝の傍に控え、口を挟まない。

実朝は公暁が去った大銀杏を悲しげに眺めた。

すると「この泰時を少し買いかぶってはおらんか。それに親父は地獄行きだよ。その覚悟がなければ、鎌倉の執権などできぬ。」と雑色の一人が立ち上がった。
「おお太郎泰時か。俺が殺されるのを黙ってみていたのだな。冷たい男だ」
「俺が刀を抜くこともあるまい。公暁にはもう戦う力はなかった」
「公暁にはかわいそうなこととなった。事前に捕まえてやっても良かった。しかし俺は死ななくてはならなかった。それ以外、この鎌倉を離れる術はないからな」
「西国行きか。親父はだいぶ反対したようだな」
「ああ、西国に行くと言ったら義時は無責任だと怒り狂っていたよ。母上には頭をはたかれた。しかしこれでいい。鎌倉に源氏の棟梁はいらない」
「しかし、この太郎泰時。さほどの器であろうか。真面目なだけの男だ」
「子供の頃からマツリゴトの本ばかり読んでいた。民を本気で救いたいと思っている。俺にはそこまでの情熱はない。義時もいつの間にか初心を忘れたと言っていた」
「父上が」
「ああそうさ。叔父上も若い頃は民を救いたかったらしい。正しいことをしたかったらしい。それが気が付いたら修羅道を歩み、抜け出せなくなっていた、と言っていたよ」
泰時は黙った。
「俺に言わせれば、義時はよくやった。鎌倉には今でも秩序がない。今は覇道政治をなすしかない。王道政治はまだ無理だ。それに和田を討ってからは、評定も開いて御家人たちの意見にもよく耳を傾けている」
実朝の一人語りは続く。
「西はまかせろ。朝廷はおれたちが黙らせる。使ってもいない内裏を建てるために、民を餓死させるような真似はさせない。」
「朝廷は、おれたちと同じく田畑と民に支えられて生きている。本来は同じ船に乗っているのにな。争っている場合ではない。」と泰時がつぶやく。
「それを分からせてやるのさ。本当の意味で、朝廷と鎌倉は協力していく。それが民を救う道だ。そのためには、かのお方には退いていただくほかない。」
「撫民」
「そう、撫民。おれたち武士にとっても、それが良いことなのだと、地頭たちにも分からせねばならん。朝廷ばかりを悪党だと言うわけにもいかんだろう。鎌倉だって朝廷に劣らぬほどの悪党だ。次の執権、北条泰時、やることは山ほどあるぞ」
「千幡、お前が鎌倉に残ってそれをやったらどうだ」
「源氏の棟梁だから無理だ。坂東武者にとっては永久によそものだからな。まあ実際、できねえんだよ。人には得手不得手があるのだ。おれは趣味人だ。趣味が多い。お前は趣味もなんにもないつまらない男だ。だからマツリゴトに向いている。」
「千幡、てめー、結構人を傷つける男だな」
と実朝を見ると、実朝は泣いている。なぜ泣いているのか分からない。そして、
「太郎よ、聖君になってくれ」とつぶやいた。
泰時は無言でうなづいた。

つづく。

秋篠宮邸のリフォームと礼の思想

2022-11-23 | 権門体制論
このブログは、「露骨に政治的なこと」は書かないし、他にブログもやっていないので、政治的意見の表明は「面倒なので避けている」わけです。ただ私は歴史学者と同じように、「後鳥羽上皇」を基本「後鳥羽」と書きます。「冷静な分析の対象」として「実朝」「後鳥羽」であるべきだと思っているのです。信長は信長です。「信長公」とは書きません。信長は多少好きですが、それでも分析の対象であることには変わりありません。実際、熱烈なファンでもありません。信長関係の本をよく読むというだけです。

「秋篠宮」は「秋篠宮さま」と書くべきなんでしょうか。よく分かりません。「宮」は敬称でしょうか。これは「辞書的問題」ではなく、「今の日本人が秋篠宮の宮を敬称ととらえるか」ということです。本当は秋篠宮さんと書きたいのです。「宮さん」という言葉は、時代劇によく出てきます。でも「秋篠宮さん」では「馬鹿にしている」と怒る人もいそうなので、「秋篠宮」と書きます。あーめんどくさい。

ちなみに「天皇」は明確な敬称なので、「昭和天皇」「現上皇」「今上天皇」です。

本音を書くと、30億のリフォーム代は実はどうでもいい。「警護のための仕組み」が必要ですから、それぐらいかかるでしょう。

私にとって不可解なのは「一体、日本人は天皇や皇族を敬っているのか、いないのか」です。これ「本音を言う人」めったにいません。ヤフコメの「暗黙のルール」では、天皇の悪口は言わない。天皇一家の悪口は言わない。その代わり秋篠宮一家のの悪口はクソみそに言っても構わない、ようです。秋篠宮という尊厳ある個人に対し、実に「失礼」だと思います。悪口言ってもいいのは、政治家だけ、または政治的影響力を持つインフルエンサー(TVコメンテーターとか、学者とか)だけ、が個人的感覚です。秋篠宮は政治的発言は「できない」ので、私は悪口は言いません。そもそも彼の孤高感が好きです。

私の現天皇、皇族観としては、「天皇は象徴として憲法に規定されているから、その規定通りに扱うべきだ」というところでしょうか。人間に貴賤なし、と結構本気で思っているので、貴賤は考えません。人間は基本的にみんな敬うべきだから、人としての天皇、皇族を、他のすべての人間と同じように敬うということです。

生臭い問題はこれぐらいにします。

歴史学者の桃崎有一郎さんが「天皇の敵は社会の敵となる。平清盛や木曽義仲はそれに気が付かなった。源頼朝は気が付いていたので、社交的辞令を散りばめながら、上手にふるまった」というようなことを書いていて、それが気になっているのです。

そこで私は「北条泰時の野望」という「小説みたいな駄文」で、「後鳥羽上皇をうまくあしらう、社交辞令ができる源実朝」を描いてみました。「頼朝と同じように、本音を隠して、うまく上皇を懐柔できるか」を考えてみたかったのです。

桃崎さんは「皇国史観の徒」じゃないですよ。京都学の教授です。たまにTVに出ます。「天皇みんないい人である神話を解体せずに京都の明日はない」と書いていますが、TVでは「天皇陛下さま」と言いそうな勢いで、敬称を使います。「天皇の敵は社会の敵」なので、炎上に気を付けているようです(笑)。著作では後鳥羽も後醍醐も「ぼろくそ」です。

桃崎さんの文章はちょっと「過激に過ぎる」ところがありますし、独断も甚だしいのですが、「礼思想の専門家」であるので、「読まずにはいられない」のです。

朝廷は「儒教の礼の思想に基づいて設計され、礼の思想に基づいて運営されてきた」、これ私にとっては目からウロコです。いろんなことが「すんなりわかる」のです。

人々が飢えて死んでいるのに何もしない後白河法皇を見ると、「なんで何もしないのだ」と腹が立ちます。しかし「やってる」のです。「儀礼と儀礼のための内裏の修築」をやっているのです。「和歌の会」だって開いているのです。人々を救うには儀礼を高め、天皇の徳を高め、徳治を徹底する。そして文章経国の思想に基づいて「和歌、もしくは漢文の隆盛」をはかり、言葉の力で天を動かし、そして人を救うのです。

そのためにはお金が必要ですから、税をとります。ただでさえ飢饉なのですから、人々はばたばた死んでいきますが、儀礼と文章経国の(宴会)の方が大事なので、やっぱり税金が必要なわけです。そして飢饉で人が死にます。

北条泰時が「立ち向かった」のはこういう「異常な現実」です。それを「撫民」と今日ではいいます。私が北条や鎌倉幕府を高く評価するのは、この「礼思想の悪害と戦う姿勢があったからだ」と、実は最近になって認識しています。前から好きだったのですが、好きな理由がよく分からなかったのです。なんとなく「泰時が民を救ったから」というだけでした。しかし朝廷が儒教の礼の思想に基づいて動いている、とわかると、いろんな疑問が解けていきました。思えば、悪左府頼長も、信西も、みんな「儒教の学者」です。

もっとも私の中ではまだ「仮説」です。礼の思想をそんなに学んだわけでもなく、消化しきれていないからです。「秋篠宮のリフォーム」は実はどうでもいいのですが、彼らが「あまり必要もない儀式を毎日やって疲れている」のは確かでしょう。私なぞ結婚式だって疲れるのでなるべく行きません。儀礼、大嫌いです。諸事、儀礼的空間は疲れます。秋篠宮さん、お疲れ様です。

「それでも実朝の右大臣昇進は官打ちである」説

2022-11-23 | 鎌倉殿の13人
身にそぐわない出世をした人間が、その為に不幸になる「状態」を「官打ち」という。

と辞書にありました。「状態をいう」ということは「実朝が死んだという状態」が「官打ち」なわけです。後鳥羽院が「殺してやろう」と思っていなくても、実際死んでしまえば「官打ち」「位打ち」なのです。まずこれが「日本語の字義にこだわった場合」、そうなるということです。しかし「辞書の説明は絶対」なわけはないので、誰かが誰かを「陥れるために位を上げること」とするなら、話は変わってきます。

承久記は「実朝の死は後鳥羽院による官打ち」であるとしています。後鳥羽院が実朝の不幸の為に、官打ちをしたのか。これを肯定する学者はほぼいません。なぜならオカルトめいた迷信だからです。
しかしそれでもずっと「官打ちじゃないのかな、官打ちは合理的説明になるな」と日本人は思ってきました。

日常でも出世した人間が「仕事の重圧に耐え切れず」、過労死したりうつになったするのは「よくあること」です。社長に「官打ち」をしようという意図はないでしょうが、「重要な位置につかせて自覚をうながそう」ぐらいの社長はいると思います。「出世したくない」という人もいます。私自身、仕事で「役職について」、健康を害したことがあるので、気持ちは分かります。

つまり「官打ち」「位打ち」(出世して重圧を背負って不幸になる状態)は「よくあること」であり、「合理的説明も明瞭につき」、別にオカルトでも迷信でもないのです。「打ち」が人間の意図を感じさせるので違和感があるだけで、「出世不幸」とでもすれば、すんなり理解できる考え方です。

しかし「誰かが目的をもって行うのが官打ちである」という方の定義を採用した場合は、「後鳥羽と実朝の関係」が問題となります。

最近は官打ちではないが通説である、というような叙述の場合、これは簡単に言えば「多数決の結果はそう」ということです。「通説」とは「今支持が多い説」です。

佐藤進一さんという中世史の偉人がいて、官打ちは別に主張してないでしょうが(調べてません)、「公武の対立と協力」を主張しました。どっちかというと「対立」に重きを置きました。
親王将軍問題については、幕府が公武融和の名のもとで、実は東西の分裂を狙っていることを「後鳥羽は鋭く看破した」と書いています。つまり「対立基調でとらえる」のです。

公武対立という立場からすると「官打ち」は「迷信であるが、やっていてもおかしくない」となり、公武協調という立場をとれば「やっていない」となります。
多数決の問題に過ぎません。今多数派は「やっていない」派です。蛇足ですが、佐藤進一さんの岩波文庫「日本の中世国家」、これは「しびれ」ます。美しい日本語です。非常に論理的であるのに、まるで「文学のよう」に私の言語中枢を刺激します。「知性とはこういうものか」と思ったりします。といって書かれている内容が全て正確か、はまた別問題です。

佐藤進一さんは「マルクス主義者ではないが、戦後の知識人としてマルクスの階級闘争の理論に影響を受けていた。だからだめだ。ソビエトが崩壊したんだから、階級闘争なんてないのだ、マルクス史観なんて終わっているのだ」てな感じで、マルクス史観憎しの一点から、否定的に捉える人が多くいます。特に「佐藤さんは東大なので京都大学系」や「40代以下の若手」はそういう傾向があります。大先生なのになー、否定だけじゃもったいない。全くマルクス主義者じゃないし。

佐藤さんの「孫弟子」である本郷和人さんは、それは違うという意図からなのか「京都大学系の古い先生ってマルクス主義者が多いのですよね」とか、チクリと皮肉を書いています。
「権門体制論の教祖である黒田俊雄さんは京大出身で大阪大学名誉教授の、バリバリのマルクス主義者じゃないか」とは言いません。さすがに露骨な学閥闘争をする気はない、のだと思います。黒田さんは象徴天皇制にすら牙をむくほどの「戦士」です。1973年の文章ですが、当時の世相も分かって、実に興味深い。権門体制論提唱の「意図」も明白に分かります。

さて私、本郷さんは少数派なので、結構好きです。本の内容はだいたい同じです。この間は「俺の先生の石井進が、中世には国家はなかったでしょの一言否定で権門体制論を放置したから、いけないのだ」とか書いてました。なんとか本郷さんに頑張ってほしい。権門体制論をこの半年ずっと読んでいる私としては、権門体制論の「あら」がよく見えてきましたので、そう願うばかりです。実際は本郷さんにそんな気はないから、東の40代の学者ですね。桃崎さんなども否定派ですから頑張ってほしい。ただ黒田俊雄さんの著作は読み物としては実に面白い。あれは歴史書というより思想書です。これまた私の言語中枢を刺激します。知識もあふれんばかりで、やっぱり大先生、巨匠でしょう。

とにかくアメリカのレッド・パージじゃあるまいし、マルクスに近いか遠いかでものを論じるとは、「児戯に等しい」と私は怒りを覚えます。そんなの学問ではない。いい加減にしろ、ってとこです。
私自身は「マルクス的進歩的知識人」に影響は受けたものの、マルクスなんて共産党宣言ぐらいしか読んだことがない。しかも日本語です。

「マルクス史観」は一度冷静に考えるべき問題ですね。「闘争」や「対立」が現実にあって、それが歴史を動かすのは歴然としています。ただし「階級闘争」でない場合が多い。武士も公家も「支配者という意味では同じ階級」です。でも階級闘争も全くないわけじゃない。。そして同じ経済的階層間の闘争もある。「資本家と労働者の区別」は今ははっきりしない。でも「貧乏人と富裕層、格差」は歴然としてあります。「闘争と協調」「対立と調和」が歴史を動かす以上、「マルクス史観だからダメ」という非論理的態度は捨て、何がダメなのか、どこを継承するべきか。「政治的立場にとらわれず」とかいう「ごたく」を言っている暇があったら、どうやっても政治性を帯びるのが言語の宿命なのだから、政治的中立という自分の立場に疑義を向け、真剣に考えるべきだと思います。ただしマルクスの名でものを語るのは個人的にはやめてほしい。「マルクスはこう書いている」とか。あれ、はもううんざりです。ちなみに黒田さんは一切そういう「マルクス引用」はしません。

今は「政治性がない感じにソフトに改変した権門体制論」が主流なので、「官打ちはない」とされていますが、それこそ歴史学は弁証法的に展開して「あーいえばこういう」ですから、「ない」が主流となれば「若手はあったとやがて主張する」ことになるはずです。20年後はどうなっているか分かりません。

20年後じゃなくても「あまりに公武協調を主張しすぎることは偏見」「権門体制論史観にとらわれてはならない、原理的思考に陥る」という態度も、すでに若い研究者の「研究の最前線」とかいう本を読むと出てきています。人間が二人よれば対立だって生じるわけで、「対立は基本的にない」なんて「調和した世界」が中世に(現代にも)存在するわけないのです。黒田さんのオリジナル権門体制論は、対立がないなどと全く言っていません。「あまりに対立がクローズアップされている。それはおかしい。公家と武家は一つの「機構」を通じて人民を支配したではないか。つまり対立しながらも相互に補完することも多かったのである。全支配階級の支配機構の総体を考えないといけない」と主張します。支配階級という点では公家も武家も同じということか。ちょっと何言ってるか分からない、のは、私の引用の仕方が粗雑だからです。読めば分かります。いや、私はまだちょっとわかっていない点もあります。でも世の中私より優れた読解力を持った方は多いでしょうし、難しい文章ですが、読めば(たぶん)分かります。「中世の国家と天皇」という比較的短い文章です。この文章が所収されている原著「日本中世の国家と宗教」は入手しにくいですが、岩波講座のどれかに転載されているので、そっちは図書館にあります。たぶん。

「実朝の右大臣昇進は官打ちじゃないかも知れないが(どっちでもいいが)、後鳥羽と実朝、後鳥羽と幕府に対立がない、なんてありえない。組織と組織の間には対立があって当然というか自然,
相互補完とは対立も包括する概念で、協調のことではない。また対立を競合と言い換えるのは姑息である」が私の立場です。

北条義時ファンの私は非暴力主義者

2022-11-23 | 鎌倉殿の13人
「主義」とか「イデオロギー」というのは怖いものなので、なるべく持たないようにしていますが、非暴力だけはどうも「私の主義」のようです。

そもそも子供のころから、暴力が嫌いでしたし、人に振るった記憶がありません。「ブス」とかは言いました。自分が不細工であることに気づきもせず、女子に言いました。そういう言葉の暴力は、あると思いますが、人を殴ったことは人生で一度もありません。

兄貴は私より多少暴力的です。兄貴は私をよくいじめましたので、私の母は優しい人でしたが、小学校入学以前は「兄貴の頭をはたく」ぐらいはしたようです。つくづく教育に暴力は必要ないと思います。暴力で教育すると、だいたい子供も暴力的になってしまう。虐待と同じで、連鎖するのです。まあ兄の暴力も私が中学生になる頃にはだいぶ収まりました。殴りはしません。押さえつけて「参ったと言え」というのが兄の暴力の定番でした。

高校教師を10年ほどしたことがありますが、体罰をしたことは一度もありません。それが周りの先生方に「威圧」を与えていたようです。暴力的な教師は私を避けるか、疎ましく扱うことが多かったと思います。後輩の教師から「この学校の男性教師で体罰をしないのは貴方だけだ」と言われたこともあります。それが平成10年頃です。今、状況は多少改善したでしょうか。もう教育に関わっていないので、分かりません。

「体罰を振るわない」ためには、実は修行が必要です。私の場合、大学時代にガンジーを多少研究したり、体罰問題を考えたりしていたので、「体罰はだめだ」という「絶対の確信」がありました。しかし他の先生は、そういう修行をしないまま、ただ教員免許だけとって教師になるということが多かったようです。

「体罰はダメだ」を一番言っていたのは、体育科教育学の教師です。体育教師も捨てたもんじゃないと思いました。「競争スポーツは一部のエリートのものであり、そのエリートすら過度なトレーニングにより身体に障害を負うことが多い。体育の基本は楽しく健康、レクリエーションだ」とも教授は言いました。こりゃ立派な人だ、と感心しました。

ということで「北条義時ファン」であっても「人に暴力を振るうことはありませんし、まして殺人なんか一ミリも肯定しません」。大河は物語です。「物語と日常の現実」、「物語と史実」は違います。