少し前に書いた「義時の死」ですが、「少しかすっていた気が」します。もっともこの「駄文」の最後の部分はある歴史ドラマのパクリです。
悪人・北条義時に捧ぐ
承久の乱の後、北条太郎泰時と北条時房は「六波羅探題」の長官として京に「出張」ということになった。「京で修行してこい」、これが親父である義時の言葉である。
公家は噂が好きだ。嘘と分かってもその嘘を楽しんでいる。時には嘘と分かりつつ、日記に「さも本当のように」書くことも多い。正確な歴史を記述するという観念自体が存在していない。ただし儀礼に関しては違う。日記とは子孫に伝える儀礼の記録である。時事情報はあくまで「おまけ」であった。時事情報は正確でなくても、いいのである。
その公家の間では鎌倉に関するいくつも噂が飛び交っている。「鎌倉がこうなってしまえばいい」という悪意に満ちた願望であることも多い。
「義時の妻の伊賀の方が、実子の政村を執権にするため、義時に少しずつ毒を盛っているらしい」
「北条は怨霊によって、この後、だれが執権になっても短命で終わる」
「北条時房が次の執権を狙っている。泰時と時房は口もきかぬ仲らしい」
江戸期の「かわら版」のようなものも、すでに存在して「ないことないこと」を書いている。
泰時も時房も洒落は分かるので、目くじらはさほど立てない。だがこの噂は泰時にとってはちと頭が痛かった。「鎌倉犬追物の残虐さ」についてである。
犬追物とは、犬を放ちそれを「馬場」という空間で、馬から弓で射る競技である。一応神事と言っていたが、要するにスポーツである。単に射るだけではだめで、打つ時の姿勢、打ち方の珍しさ、美しさ、射た場所の位置などが審判によって点数化される。室町時代は「武家文化に染まった京都」でも行われたが、鎌倉期ではまだ「野蛮な東夷の行為」とされていた。現代の動物愛護協会にあたる
一切衆生悉有仏性の会・いっさいしゅじゅう・しつ・う・ぶっしょうのかい
というのがあって、そこの会員が匿名だが「許せない」と言っている、と噂文に書いてある。
泰時は鎌倉に下って、義時にそれを伝えようと思った。鎌倉の名誉に関わる事案である。
鎌倉に下った泰時は馬場に平然と足を踏み込んだ。騎射は止まったが、手負いの獰猛な犬が2匹残って駆け回っている。「危ない」と見物している御家人の誰もが思ったが、泰時は意に介さない。自分は死なないという絶対の自信があった。子供の頃から、危険な場面にはいくらでも遭遇したが、なぜか傷一つ負わない。
義時もそれが分かっているので、泰時を止めなかった。ただ神事の場の無礼だけは叱った。泰時は京の「動物愛護について」また「毒を盛られているという噂」を伝えた。
義時は宣言する。「犬追物は神事とは言え、京では評判が悪いようだ。今後、犬追物では先の丸い矢を使い、犬を殺さぬこととする。なお、今の泰時を見たであろう。天の加護があるのだ。次期執権は泰時である。」
泰時の弟、朝時、重時、政村たちは神妙な面持ちでそれを聞いている。伊賀の方も同様である。
泰時が京に戻って半年もたった頃、義時倒れるの一報が京に届いた。泰時は急ぎ関東に下った。泰時は伊豆で鎌倉の様子を探っていると京で噂されたが、実際はすぐに鎌倉に入っている。
しかし肝心の義時が床にいない。聞くと出家し、病躯をおして雨ごいをしているという。鎌倉は少雨による凶作が起こりかけている。天に祈り雨を降らせる、中世においてはそれが為政者の「徳」であった。義時はすでに死を覚悟している。
「雨ごいの場」には誰も出入りを許されなかったが、声だけは聞こえてくる。
義時は言う。
「天の神よ、雨を降らせたまへ。私は悪行を積んだが、それすなわち民のためである。それが分からぬ神なら、そんな神はいらない。悪行は全て私が地獄に背負って逝く。恨みも憎しみも全部私が引き受ける。私はここで死ぬが、鎌倉の悪行は全て消え、ただ息子泰時の徳だけが世に残る。悪行は全てこの義時が一身に背負う。雨を降らせたまへ。泰時を聖君になしたまへ。」
すると雨が降り出した。鎌倉の人々はこの奇跡を長く「義時の涙」と呼んで言い伝えた。
義時は死んだ。泰時が次の執権となる。泰時の時代、北条と他の一族の殺し合いは、起きなかった。義時は泰時の世を作ることで、悲願であった「撫民」を遂に成し遂げた。
悪人・北条義時に捧ぐ
承久の乱の後、北条太郎泰時と北条時房は「六波羅探題」の長官として京に「出張」ということになった。「京で修行してこい」、これが親父である義時の言葉である。
公家は噂が好きだ。嘘と分かってもその嘘を楽しんでいる。時には嘘と分かりつつ、日記に「さも本当のように」書くことも多い。正確な歴史を記述するという観念自体が存在していない。ただし儀礼に関しては違う。日記とは子孫に伝える儀礼の記録である。時事情報はあくまで「おまけ」であった。時事情報は正確でなくても、いいのである。
その公家の間では鎌倉に関するいくつも噂が飛び交っている。「鎌倉がこうなってしまえばいい」という悪意に満ちた願望であることも多い。
「義時の妻の伊賀の方が、実子の政村を執権にするため、義時に少しずつ毒を盛っているらしい」
「北条は怨霊によって、この後、だれが執権になっても短命で終わる」
「北条時房が次の執権を狙っている。泰時と時房は口もきかぬ仲らしい」
江戸期の「かわら版」のようなものも、すでに存在して「ないことないこと」を書いている。
泰時も時房も洒落は分かるので、目くじらはさほど立てない。だがこの噂は泰時にとってはちと頭が痛かった。「鎌倉犬追物の残虐さ」についてである。
犬追物とは、犬を放ちそれを「馬場」という空間で、馬から弓で射る競技である。一応神事と言っていたが、要するにスポーツである。単に射るだけではだめで、打つ時の姿勢、打ち方の珍しさ、美しさ、射た場所の位置などが審判によって点数化される。室町時代は「武家文化に染まった京都」でも行われたが、鎌倉期ではまだ「野蛮な東夷の行為」とされていた。現代の動物愛護協会にあたる
一切衆生悉有仏性の会・いっさいしゅじゅう・しつ・う・ぶっしょうのかい
というのがあって、そこの会員が匿名だが「許せない」と言っている、と噂文に書いてある。
泰時は鎌倉に下って、義時にそれを伝えようと思った。鎌倉の名誉に関わる事案である。
鎌倉に下った泰時は馬場に平然と足を踏み込んだ。騎射は止まったが、手負いの獰猛な犬が2匹残って駆け回っている。「危ない」と見物している御家人の誰もが思ったが、泰時は意に介さない。自分は死なないという絶対の自信があった。子供の頃から、危険な場面にはいくらでも遭遇したが、なぜか傷一つ負わない。
義時もそれが分かっているので、泰時を止めなかった。ただ神事の場の無礼だけは叱った。泰時は京の「動物愛護について」また「毒を盛られているという噂」を伝えた。
義時は宣言する。「犬追物は神事とは言え、京では評判が悪いようだ。今後、犬追物では先の丸い矢を使い、犬を殺さぬこととする。なお、今の泰時を見たであろう。天の加護があるのだ。次期執権は泰時である。」
泰時の弟、朝時、重時、政村たちは神妙な面持ちでそれを聞いている。伊賀の方も同様である。
泰時が京に戻って半年もたった頃、義時倒れるの一報が京に届いた。泰時は急ぎ関東に下った。泰時は伊豆で鎌倉の様子を探っていると京で噂されたが、実際はすぐに鎌倉に入っている。
しかし肝心の義時が床にいない。聞くと出家し、病躯をおして雨ごいをしているという。鎌倉は少雨による凶作が起こりかけている。天に祈り雨を降らせる、中世においてはそれが為政者の「徳」であった。義時はすでに死を覚悟している。
「雨ごいの場」には誰も出入りを許されなかったが、声だけは聞こえてくる。
義時は言う。
「天の神よ、雨を降らせたまへ。私は悪行を積んだが、それすなわち民のためである。それが分からぬ神なら、そんな神はいらない。悪行は全て私が地獄に背負って逝く。恨みも憎しみも全部私が引き受ける。私はここで死ぬが、鎌倉の悪行は全て消え、ただ息子泰時の徳だけが世に残る。悪行は全てこの義時が一身に背負う。雨を降らせたまへ。泰時を聖君になしたまへ。」
すると雨が降り出した。鎌倉の人々はこの奇跡を長く「義時の涙」と呼んで言い伝えた。
義時は死んだ。泰時が次の執権となる。泰時の時代、北条と他の一族の殺し合いは、起きなかった。義時は泰時の世を作ることで、悲願であった「撫民」を遂に成し遂げた。
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