最近、後鳥羽上皇は討幕を企てていない。北条義時を排除しようとしただけだ。と偉い学者さんがよく言います。これは妥当でしょうか。
まず結論から書くと「妥当ではないが、成り立つ可能性も残されてはいる」と思います。以下少し詳しく。
なお大河は物語ですから「史実じゃない」という「物語のあげ足取り」ではありません。基本「鎌倉殿の13人」とは関係がない「ただの史実論議」です。
1,討幕なんて言葉は当時なかった。追討宣旨は「個人宛」である。
当時、幕府という言葉は禅僧ぐらいしか使いません。京都政権が幕府と呼んだことはない。鎌倉も自らを幕府と呼んだことはありません。
京都政権は鎌倉幕府を「関東」とか「武家」とか言っていました。六波羅探題ができてからは探題が「武家」、幕府は「関東」と呼ぶことが多かったようです。
幕府という言葉を使用しないのだから、当然「倒幕」という言葉はありませんし、使いません。
さらに追討宣旨は個人宛が先例で、後醍醐天皇すら「討幕という言葉は使っていない」わけです。「北条高時とその仲間」を追討せよ、です。
後鳥羽上皇の追討院宣(仲恭天皇の宣旨も)は「北条義時個人宛であり、鎌倉幕府追討とはなっていないから、討幕ではない」は「成立するわけがない論理」です。討幕という言葉がないのです。これが成り立つなら同じく「北条高時を討て」と命じた後醍醐帝の宣旨も「討幕目的ではない」と言わないと学説として一貫性がありません。
「義時追討だから倒幕でない」は「形式的論理、言葉遊び」です。しかも史実の探求というより、ある「理論=原理」によって生み出された「党派性を伴った歴史の見方」です。(後述)
・北条義時を倒して、その代わりに執権に三浦胤義か三浦義村を据え、摂家将軍は残して鎌倉幕府は温存する。
その場合のみ「討幕ではない」と言えるわけですが、その可能性はあったでしょうか。ないでしょう。武家の統治機構は京に移管される可能性の方が強く、鎌倉に残る可能性は極めて低かった。だから「鎌倉幕府は倒れる」のです。「義時追討だから討幕でない説」は成立することはないでしょう。武士の府は京に移り、鎌倉の幕府は単なる出張所扱いとなります。
2,では後鳥羽上皇は何がしたかったのか。
武家の存在は王家(上皇家)にとっても必要でした。都の治安を守っていたのは武士です。内裏修理などの金を出すのも武士です。荘園から税をとるには武家の存在は不可欠でした。農民には自立的傾向も強く、もはや「本所の権威」だけでは税をとれない場合も多かったのです。だからこそ白河院も鳥羽院も御白河院も平家など武家を重用したのです。
後鳥羽上皇としては武家をコントロール下に置く。地頭の任免権を獲得する。といった狙いがありました。そもそも承久の乱のきっかけは「上皇による地頭罷免要求の拒否」なのです。
武家はかつては王家に比して弱い権門でしたが、今や王家と対等な存在となりつつある。後鳥羽上皇としては武家権門は残しながらも、王家の圧倒的優位を獲得したかったわけです。
幕府を解体して、武士を自分が支配下に置く。つまり自分が「源頼朝になる」というのが後鳥羽の狙いでした。封建王政と言います。「鎌倉の幕府は解体するが、武士は温存して支配する」、これが狙いです。「解体」ですから「倒幕」です。
3,なぜ「討幕ではない」と一部学者は過度に強調するのか。
それは学者自身が折に触れて書いていますが「公武協調史観」という原理=イデオロギーを信じているか、信じているふりをしているからです。「公武対立史観に代わって、公武協調史観を」ということが一部で言われ、西の研究者を中心に賛同者が少なからずいます。その原理は現代風権門体制論です。多数派を形成しているようです。
私は黒田俊雄氏の「オリジナル権門体制論」を読み進めた結果、公武協調史観は「強調し過ぎるべきではない」という結論に達しています。
公家と武家は相互補完している「そう」です。
「相互補完」とは「足りないところを補いあう」という意味ですが、「対立が生じること」は黒田氏も認めており、対立のみが強調された時代の雰囲気に抗して「対立ばかりじゃないだろう。その対立だって本質的か分からない」と言うわけです。
黒田氏はあまりに対立がクローズアップされるので、「対立だけじゃない」と言っているだけです。したがって協調のみを偏重するのは間違っています。公と武は「協調したり、対立したり、妥協したり」していたのです。あまりに当然過ぎますが、原理があって現実があるのではありません。ありふれた普通の現実が先にあるのです。
なお「対立しても最後は協調した」も私見では間違いです。それについてはこのブログの他の文章で書いているので詳述はしません。
「権門体制論」の「正しい理解と批判」のための序論をお読みください。
公と武が「決定的に対立してはまずい」「決定的対立を認めたら権門体制論が崩れる(実は崩れないので杞憂ですが)」という「原理的とも言える思考」が「討幕ではない」の過度な強調につながっています。それに付き合う必要を私自身は感じません。相互補完という言葉の濫用はやめてほしい、と願うのみです。これは現代の一部に存在する「悪弊」だと思います。
「相互補完」と言い出したら疑ってみることが大切でしょう。提唱者の黒田俊雄の「原著」を読むことをお勧めします。
ちなみに「非権門体制論」系の近藤成一さんも、桃崎有一郎さんも「倒幕ではない」と書いています。しかし「解体である」と少なくとも桃崎さんは書いている。解体なら倒幕です。論理的にそうなるはずです。
もっとも史実に照らせば「頼朝は何度も追討されている」わけです。それでも頼朝は後白河法皇を遠流になぞせず、最後は条件闘争となっていきました。
後鳥羽上皇はそれを見ていますから、「義時追討」ぐらいで自分が遠流されるわけはないと思っていた可能性はあります。そうなると「三浦胤義などに乗せられてつい軽い気持ちで、後白河院の先例を真似て出した」という可能性があるわけで、その場合は「討幕なんてたいそうな狙いはない」とも言えるかも知れません。が、これは成立しそうもない論理です。
蛇足
「武家と公家の相互補完」とかすぐ言う人。「天皇権威はまだ強かった」と言うだけで、その理由を分析しようとしない人。つまり「安直な耳触りがいい言葉で歴史を説明しようとする学者は疑え」。今、私はそう思っています。ただの日本史のド素人として。
まず結論から書くと「妥当ではないが、成り立つ可能性も残されてはいる」と思います。以下少し詳しく。
なお大河は物語ですから「史実じゃない」という「物語のあげ足取り」ではありません。基本「鎌倉殿の13人」とは関係がない「ただの史実論議」です。
1,討幕なんて言葉は当時なかった。追討宣旨は「個人宛」である。
当時、幕府という言葉は禅僧ぐらいしか使いません。京都政権が幕府と呼んだことはない。鎌倉も自らを幕府と呼んだことはありません。
京都政権は鎌倉幕府を「関東」とか「武家」とか言っていました。六波羅探題ができてからは探題が「武家」、幕府は「関東」と呼ぶことが多かったようです。
幕府という言葉を使用しないのだから、当然「倒幕」という言葉はありませんし、使いません。
さらに追討宣旨は個人宛が先例で、後醍醐天皇すら「討幕という言葉は使っていない」わけです。「北条高時とその仲間」を追討せよ、です。
後鳥羽上皇の追討院宣(仲恭天皇の宣旨も)は「北条義時個人宛であり、鎌倉幕府追討とはなっていないから、討幕ではない」は「成立するわけがない論理」です。討幕という言葉がないのです。これが成り立つなら同じく「北条高時を討て」と命じた後醍醐帝の宣旨も「討幕目的ではない」と言わないと学説として一貫性がありません。
「義時追討だから倒幕でない」は「形式的論理、言葉遊び」です。しかも史実の探求というより、ある「理論=原理」によって生み出された「党派性を伴った歴史の見方」です。(後述)
・北条義時を倒して、その代わりに執権に三浦胤義か三浦義村を据え、摂家将軍は残して鎌倉幕府は温存する。
その場合のみ「討幕ではない」と言えるわけですが、その可能性はあったでしょうか。ないでしょう。武家の統治機構は京に移管される可能性の方が強く、鎌倉に残る可能性は極めて低かった。だから「鎌倉幕府は倒れる」のです。「義時追討だから討幕でない説」は成立することはないでしょう。武士の府は京に移り、鎌倉の幕府は単なる出張所扱いとなります。
2,では後鳥羽上皇は何がしたかったのか。
武家の存在は王家(上皇家)にとっても必要でした。都の治安を守っていたのは武士です。内裏修理などの金を出すのも武士です。荘園から税をとるには武家の存在は不可欠でした。農民には自立的傾向も強く、もはや「本所の権威」だけでは税をとれない場合も多かったのです。だからこそ白河院も鳥羽院も御白河院も平家など武家を重用したのです。
後鳥羽上皇としては武家をコントロール下に置く。地頭の任免権を獲得する。といった狙いがありました。そもそも承久の乱のきっかけは「上皇による地頭罷免要求の拒否」なのです。
武家はかつては王家に比して弱い権門でしたが、今や王家と対等な存在となりつつある。後鳥羽上皇としては武家権門は残しながらも、王家の圧倒的優位を獲得したかったわけです。
幕府を解体して、武士を自分が支配下に置く。つまり自分が「源頼朝になる」というのが後鳥羽の狙いでした。封建王政と言います。「鎌倉の幕府は解体するが、武士は温存して支配する」、これが狙いです。「解体」ですから「倒幕」です。
3,なぜ「討幕ではない」と一部学者は過度に強調するのか。
それは学者自身が折に触れて書いていますが「公武協調史観」という原理=イデオロギーを信じているか、信じているふりをしているからです。「公武対立史観に代わって、公武協調史観を」ということが一部で言われ、西の研究者を中心に賛同者が少なからずいます。その原理は現代風権門体制論です。多数派を形成しているようです。
私は黒田俊雄氏の「オリジナル権門体制論」を読み進めた結果、公武協調史観は「強調し過ぎるべきではない」という結論に達しています。
公家と武家は相互補完している「そう」です。
「相互補完」とは「足りないところを補いあう」という意味ですが、「対立が生じること」は黒田氏も認めており、対立のみが強調された時代の雰囲気に抗して「対立ばかりじゃないだろう。その対立だって本質的か分からない」と言うわけです。
黒田氏はあまりに対立がクローズアップされるので、「対立だけじゃない」と言っているだけです。したがって協調のみを偏重するのは間違っています。公と武は「協調したり、対立したり、妥協したり」していたのです。あまりに当然過ぎますが、原理があって現実があるのではありません。ありふれた普通の現実が先にあるのです。
なお「対立しても最後は協調した」も私見では間違いです。それについてはこのブログの他の文章で書いているので詳述はしません。
「権門体制論」の「正しい理解と批判」のための序論をお読みください。
公と武が「決定的に対立してはまずい」「決定的対立を認めたら権門体制論が崩れる(実は崩れないので杞憂ですが)」という「原理的とも言える思考」が「討幕ではない」の過度な強調につながっています。それに付き合う必要を私自身は感じません。相互補完という言葉の濫用はやめてほしい、と願うのみです。これは現代の一部に存在する「悪弊」だと思います。
「相互補完」と言い出したら疑ってみることが大切でしょう。提唱者の黒田俊雄の「原著」を読むことをお勧めします。
ちなみに「非権門体制論」系の近藤成一さんも、桃崎有一郎さんも「倒幕ではない」と書いています。しかし「解体である」と少なくとも桃崎さんは書いている。解体なら倒幕です。論理的にそうなるはずです。
もっとも史実に照らせば「頼朝は何度も追討されている」わけです。それでも頼朝は後白河法皇を遠流になぞせず、最後は条件闘争となっていきました。
後鳥羽上皇はそれを見ていますから、「義時追討」ぐらいで自分が遠流されるわけはないと思っていた可能性はあります。そうなると「三浦胤義などに乗せられてつい軽い気持ちで、後白河院の先例を真似て出した」という可能性があるわけで、その場合は「討幕なんてたいそうな狙いはない」とも言えるかも知れません。が、これは成立しそうもない論理です。
蛇足
「武家と公家の相互補完」とかすぐ言う人。「天皇権威はまだ強かった」と言うだけで、その理由を分析しようとしない人。つまり「安直な耳触りがいい言葉で歴史を説明しようとする学者は疑え」。今、私はそう思っています。ただの日本史のド素人として。
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