光秀の死とともに、ひとつの時代が終わる。戦国と呼ばれ、乱世と呼ばれた時代、一介の油商人山崎屋庄九朗が、美濃一国の主、斉藤道三となりえた時代、尾張のうつけと呼ばれた悪童が、天下の権を握りえた時代、人が力と知恵の限りを尽くし、国盗りの夢と野望を色鮮やかに織り成した時代は、ここに終わりをつげる。そして歴史は中世の破壊から近世の建設へと、新しき秩序を作る人々を迎え入れようとしていた。
大河「国盗り物語」、最後のナレーション
「光秀の死とともに一つの時代が終わる」という言葉に「感動」したのは、総集編のVHSビデオを見た時です。特に感動したのは「人が力と知恵の限りを尽くし、国盗りの夢と野望を色鮮やかに織りなした」の部分でした。
小説の「国盗り物語」の方は小学6年で初めて読んだと思います。原作には上記のような言葉はでてきません。それでも「光秀以前と光秀以後で時代が変わるのだ」とは思っていました。つまり明智光秀は小学生の私にとって「一つの時代を終わらせた凄い武将」だったのです。だからその後の大河ドラマを見ながら、光秀の扱いがあまりに酷いことをずっと悔しく思っていました。ブログにも「国盗り物語がリメイクされたら、光秀の評価は一変する」と書いたこともあります。そしてリメイクされ、それは特に後半、国盗り物語とは全く違う作品にはなりましたが、光秀の評価が一変した、ことは間違いないと思います。
それをもってハッピーエンドとは言えませんが、これで未来の大河脚本家は、光秀を軽んじることはできなくなったとは思います。(実際そうなるかはわかりませんが)
私は今も昔も司馬遼太郎さんのファンです。信長のファンで、かつ光秀も好きです。しかし司馬さんファンだからと言って「信長は革命児だ」という気はありません。信長の魅力はそんなところではないのです。ただ小声で「合理主義者だぞ」とは言いたくなります。しかし合理的でない面も信長は多大に持っている気もしてきています。変な人です。
ちなみに司馬さんは信長があまり好きではない。「国盗り物語信長編」は出版社の依頼でいやいや書いたものです。だから視点人物が十兵衛になることが多い。ご本人も作中で「気が緩むと光秀の話ばかりになってしまう」と「いう趣旨のこと」を書いています。
信長については随分と学者さんの本を読み、ある程度の史実はわかっている「つもり」です。そして史実が分かればわかるほど、司馬さんの「描こうとした」ことがよく理解できるようになりました。史実を知るほど、小説の魅力もまた高まるのです。蛇足ですが、史実か否かより実は「文章の格調とか韻律」と言ったものに私は惹かれます。あの文体は真似できません。
私は研究家でも学者でもないので「研究に終わりはない」とか言う資格はありません。あえて言うなら「趣味に終わりはない」というところです。光秀はあまりに史料がないため、よく分からない武将ですが、信長も「知れば知るほどわからなくなる武将」です。「何を考えているのだ、そもそも考えているのか」という点が多々あるのです。例えば政権構想です。あのまま信長が生きて、信忠の後見として政権を作ったとして、どんなものになるのかほぼ分かりません。秀吉の方向に行ったかも知れないし、結局は足利幕府と同じ体制になった可能性もあります。歴史は一人の英雄が作るものではないとすれば、民衆の集合意思と商業経済の発展によって、江戸体制に近いものとなった可能性もあるでしょう。この点についてもっとも「踏み込んでいる」のは藤田達生さんで、ご本を読みながら「思考中」ですが、何かを書くほどの段階には私自身はありません。
分からないから考える。それが楽しいわけです。「麒麟がくる」によって、私の中ではますます光秀も信長も「わからなく」なりました。ただ知識だけが多少増えていくだけで、まとまらないのです。だから楽しい。しかも2023年には「どうする家康」があります。また考える時間がある。なんと楽しいことかな、と思います。
豊臣秀吉や徳川家康のように「近世を確立させた」わけでもないのに、あんなに人を殺したのに、信長は日本における大スターです。幸福な武将といえるでしょう。光秀が今後どうなっていくのかは分かりませんが、「光秀の気持ちは分かる」という人間は確実に増えていく気がします。うまくまとまりませんが、光秀も運のいい武将です。
大河「国盗り物語」、最後のナレーション
「光秀の死とともに一つの時代が終わる」という言葉に「感動」したのは、総集編のVHSビデオを見た時です。特に感動したのは「人が力と知恵の限りを尽くし、国盗りの夢と野望を色鮮やかに織りなした」の部分でした。
小説の「国盗り物語」の方は小学6年で初めて読んだと思います。原作には上記のような言葉はでてきません。それでも「光秀以前と光秀以後で時代が変わるのだ」とは思っていました。つまり明智光秀は小学生の私にとって「一つの時代を終わらせた凄い武将」だったのです。だからその後の大河ドラマを見ながら、光秀の扱いがあまりに酷いことをずっと悔しく思っていました。ブログにも「国盗り物語がリメイクされたら、光秀の評価は一変する」と書いたこともあります。そしてリメイクされ、それは特に後半、国盗り物語とは全く違う作品にはなりましたが、光秀の評価が一変した、ことは間違いないと思います。
それをもってハッピーエンドとは言えませんが、これで未来の大河脚本家は、光秀を軽んじることはできなくなったとは思います。(実際そうなるかはわかりませんが)
私は今も昔も司馬遼太郎さんのファンです。信長のファンで、かつ光秀も好きです。しかし司馬さんファンだからと言って「信長は革命児だ」という気はありません。信長の魅力はそんなところではないのです。ただ小声で「合理主義者だぞ」とは言いたくなります。しかし合理的でない面も信長は多大に持っている気もしてきています。変な人です。
ちなみに司馬さんは信長があまり好きではない。「国盗り物語信長編」は出版社の依頼でいやいや書いたものです。だから視点人物が十兵衛になることが多い。ご本人も作中で「気が緩むと光秀の話ばかりになってしまう」と「いう趣旨のこと」を書いています。
信長については随分と学者さんの本を読み、ある程度の史実はわかっている「つもり」です。そして史実が分かればわかるほど、司馬さんの「描こうとした」ことがよく理解できるようになりました。史実を知るほど、小説の魅力もまた高まるのです。蛇足ですが、史実か否かより実は「文章の格調とか韻律」と言ったものに私は惹かれます。あの文体は真似できません。
私は研究家でも学者でもないので「研究に終わりはない」とか言う資格はありません。あえて言うなら「趣味に終わりはない」というところです。光秀はあまりに史料がないため、よく分からない武将ですが、信長も「知れば知るほどわからなくなる武将」です。「何を考えているのだ、そもそも考えているのか」という点が多々あるのです。例えば政権構想です。あのまま信長が生きて、信忠の後見として政権を作ったとして、どんなものになるのかほぼ分かりません。秀吉の方向に行ったかも知れないし、結局は足利幕府と同じ体制になった可能性もあります。歴史は一人の英雄が作るものではないとすれば、民衆の集合意思と商業経済の発展によって、江戸体制に近いものとなった可能性もあるでしょう。この点についてもっとも「踏み込んでいる」のは藤田達生さんで、ご本を読みながら「思考中」ですが、何かを書くほどの段階には私自身はありません。
分からないから考える。それが楽しいわけです。「麒麟がくる」によって、私の中ではますます光秀も信長も「わからなく」なりました。ただ知識だけが多少増えていくだけで、まとまらないのです。だから楽しい。しかも2023年には「どうする家康」があります。また考える時間がある。なんと楽しいことかな、と思います。
豊臣秀吉や徳川家康のように「近世を確立させた」わけでもないのに、あんなに人を殺したのに、信長は日本における大スターです。幸福な武将といえるでしょう。光秀が今後どうなっていくのかは分かりませんが、「光秀の気持ちは分かる」という人間は確実に増えていく気がします。うまくまとまりませんが、光秀も運のいい武将です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます