日々の便り

男女を問わず中高年者で、暇つぶしに、居住地の四季の移り変わりや、趣味等を語りあえたら・・と。

蒼い陰(1)

2024年02月17日 02時58分03秒 | Weblog

 近年にない豪雪に閉ざされていた飯豊山脈の麓に位置する健太郎の住む街にも、平野部に比べておよそ月遅れの春が漸く訪れ、川原の堤防に並んで植えられた樹齢30年位たつたであろうか、古木の桜並木の蕾もほころびはじめた。
 早春の晴れ渡った日。 
 奥羽連峰の高い峰々の白銀が、青空のもと陽に映えて神々しく輝き、小高い丘陵の麓には、整然と並んで植樹された八珍柿や林檎の畑が広がっている。
 やがて芽吹くであろう林檎の樹を見ながら、曲がりくねった小道を通り抜けると、越後から羽越に通ずる歴史的にも名のある枝折峠へ至る。
 小径は山合いを縫う様に小石混じりの緩急が織りなし、途中所々に先人が通ったであろう昔ながらの石畳みが敷かれた道が連なる。
 永年の風雪に耐えて型良く曲がった幹の太い数本の松の古木の周辺を楢や雑木と若い笹が繁茂する道を時間をかけてゆっくりと辿り、小高い丘の上から周辺を眺望する風景は何時来ても変わりないが、眺め見る追憶の目にはその景観は、その時々の思いと重ね合わせて心の奥に潜む感慨を新たにしてくれ、訪れる度に新鮮な気持ちにしてくる。
 若い餅草の芽もタンポポに混じり、柔らかく吹き流れる風に音も無くそよいでいる。
 山脈の稜線も、透き通るような青空にくっきりと近くに見え、初老を迎えた健太郎には視力が回復したかのように眩しく見えた。

 山上健太郎は、家庭と職業の事情から同年齢人達より遅くれて結婚したが、僅か数年で不幸にも連れ添った妻を病で亡くし、その後は慎ましく独居生活を続け、自身も重病を経たせいか歳に似合わず随分と弱ったと自覚する脚力で、枝折峠の頂上付近に辿りつくと、急坂になった岩石の崖を、先に登っていた、かっての教え子である若井節子さんから
 「先生 大丈夫!」 「手を貸してあげるから頑張ってぇ~!」
と、腕を伸ばして声をかけられ、右手を握られて力強く引き上げられた。
 頂上の中ほどに建てられた、”湯殿山”と彫字された大きな石碑の傍らで、二人は並んで腰を下ろしひと休みした。
 二人は共に、周辺の景観に吸い込まれるかの様に穏やかな気分になり、互いに再会した満足感にしたりながら、健太郎は愛用のマールボローを口にし紫煙を輪にして燻らせた。

 健太郎は、東京出身だが、戦後、父親の故郷である新潟県の北に位置する小さな町で高校を卒業すると、姉が嫁いでいた北海道の大学に進学し、卒業後は就職難でもあり姉の助言と自らの考えで教師の道を天職と選んで高校の教師となった。
 東北地方の各地の高校を転勤した後、40歳半ばとなった今は、生家のある地元で家を継ぐ宿命と健康を考慮して、高校の講師を兼ねる傍ら街の生涯学習の講師をしている。
 彼が教師となった頃は、戦後、日本が経済成長期に入った直後の昭和35年ころで、当時、地方では未だに舗装された道路は少なく、土煙りを上げて走るバスが主要な交通手段であり、自転車の利用が人々の間で漸く流行していた時代であった。
 

 物語は、健太郎が青春を過ごしたころに戻るが
 新任教師として南奥羽の高校に勤務することになったとき、初めて訪れた土地に対する知識は皆無であったが、駅前に降り立ったときに見た落ち着いた町並みや人々の温和な語り口から、この街の雰囲気を一見して自分に適していると直感した。

 駅には大学時代の先輩である田崎教師が思いかけず迎えに来てくれており、その顔を見てそれまで抱いていた仕事に対する緊張感と生活の不安感がほぐれて胸のつかえが薄れ安心感が心に漂った。
 先輩教師の後ろには高校生らしき娘さんが一人たたずんで、緊張気味に先輩に挨拶している健太郎を見ていたが、田崎教師に続いて、にこやかな笑顔で軽く会釈してくれた。
 先輩は挨拶もそこそこに、校長が特別に配慮して手配してくれた下宿先の説明をし終えると、用意された自転車で予め決められていたのか、健太郎の返事を待たずに自転車をこぎだし三人が縦に一列に並んで街外れに向かった。
 
 その家は、奉職する高校から自転車で30分くらい砂利道を進んだところにある、杉木立に囲まれた農家であるが、家の前で降りたつと、先輩は傍らにいる娘さんを指差して
 「この子の家だよ」
と言った後、冗談交じりに
 「可愛い娘さんだろう。成績も良く、若い君も張り合いがあると思うよ。将来、この子の婿さんになってもいいんだぞ」
と、ユーモアにとんだ冗談を言って健太郎の気分をほぐしてくれた。

 案内された家は、周囲を防風雪除けの大きな杉の樹木に囲まれた茅葺の広い家で、部落でも比較的大きな農家らしく、両親と長女の節子と妹の姉妹四人家族で、表札には”若井”と書かれていた。
 宿になる農家の主人夫婦を紹介され、緊張してお世話になる旨挨拶すると、温厚そうな御主人は控えめながらも丁寧に挨拶を返してくれ下宿を快諾してくれた。
 その間にも、先程簡単に紹介された節子さんが甲斐甲斐しく煎餅の茶果とお茶を運んできて、畳に両手を揃えてつき丁寧に挨拶してくれた。
 健太郎は、その姿を見ていて、子女に対する普段の躾が行き届いている家だなぁ。と、感心した。

 下宿先の主人は無口だが表情に優しさが滲み出ており、奥さんが予め用意しておいたのか瓜の蜂蜜漬けを茶菓に出して、茶を注ぎながら自信なそうに
 「見た通りの閑散とした集落で、人様をお世話するなんて初めてのことで不慣れですので、先生に満足していただける食事が用意出来るかどうか心配ですわ」
 「米と野菜は自家製でたっぷりありますが、何しろ蛋白質は池と川の魚に鶏の卵と、たまに主人が用意してくれる廃鶏の鶏肉がメーンですので・・」
と遠慮気味に話だすと、日焼けした顔と首筋の太い中学2年生の妹の紀子がすかさず、父親以外男のいない家庭に男子が加った嬉しさから
 「先生!。心配ないですよ。わたしが放課後街に行き牛肉や馬肉を買ってきますので」
と言い出したので、節子さんは慌てて妹の膝を叩き、「あなたが余計なことを言わないの」と注意すると、紀子は性格が姉と違い、風雪に耐えて家庭を守もってきた母親似か勝気で、姉の注意もそ知らぬ風に、なおも
 「姉さんもやせっぽちだが、先生のお腹も凹んでおり、健康上栄養不良気味に見えるわ」
 「いくら勉強ができても、痩せた女は農作業も苦手で嫁の貰いてがないと、街の若い衆や同級生の皆が噂話をしているわ。ねぇ~。そうでしょう・・」
 「痩せた男の子もなんだか頼りなさそうに見えるわ」
と言って、健康な白い歯を屈託なくのぞかせてフフッと快活に笑ったあと、続けて
 「わたしの家にいる間に、もう少し太ってくださいね」
 「わたしの家の米は父さんが精を込めて作ったので、とても美味しく、母さんの造った南蛮味噌だけでも食欲が進みますよ」
と持論を展開し、皆があっけにとられているのもよそに、案内の田崎先生の顔を意味ありげに見て
 「一生懸命に頑張りますので、少しはおまけして姉の成績に加点してくださいネ」
と付け加えることを忘れなかった。

 節子さんは、当時、彼が初めて担任した男女共学の高校2年生で、理数に興味を持ち、常に成績も上のクラスを占めている、色白で細身だが健康そうで温和な性格の生徒で、彼は直感で強く印象に残る教え子であった。
 彼女は、高校卒業後、自己の強い意思で上京し、大学の看護学科に進み、その後、都内の大学病院に勤め、持ち前の生真面目さと忍耐心にあわせ努力を積み重ねた結果、技術も優秀であり、また、性格的に患者や同僚間でも人気もあったが、最近、両親の老後の話もあり退職し帰郷している。と、健太郎は、早い時期に故郷に帰ったおり、近所で美容院を営んでいる、彼女の先輩である美容師の秋子さんから聞かされていた。
 彼女の卒業式後、転勤で別離した後、健太郎との音信は途絶えていた。
 それは、健太郎が故郷で結婚したことを、彼女は両親から聞かされ、苦悩した末、思いを絶つためであった。

 幾歳月を過ぎた。 春たけなわのころ
 何の前振れもなく、突然、訪ねて来た節子さんと、懐かしい話に花を咲かせているとき、健太郎は
 「君、もう遠い昔のことは忘れ、先生と呼ぶのはよしてくれないか」 
と、常日頃思っていることを口に出したところ、彼女は困ったような顔つきで
 「それでは、なんとお呼びすれば宜しいのかしら・・」
と、とまどっている様に思えたので、彼は
 「本名の山上でも良いし、健太郎の健でもいいよ」
と、にわかに思い浮かんだ、ありきたりの名を告げたところ、彼女は素直に
 「そうね~、10数年も前のことなのに、同じ様にお呼びするのも、なにかおかしいわね~」
 「秋子さんやほかの人様はどの様にお呼びしているのかしら・・」
と、少し思案した後、健太郎の気持ちを察して
 「それでは、親しみを込めて、今後は、健さんとお呼びさせていただくは」と告げると、彼は「うん、それでいいよ」と答え、どちらともなく手を差し伸べて握手した。

 彼は、崖を登るとき特に意識しなかったが、彼女の手に触れた瞬間、当時教師と生徒の間柄であったが、遠い昔、課外授業で崖を登る時に、彼が彼女の手を引っぱってあげた時に感じたときと同様に、彼女の手の柔らかさは年令を思わせない、なんともしなやかで若々しく、直観的に彼女との再会に運命の不思議さを覚え、心が揺らいだ。
 彼は、表情こそ平静を装うっていたが心が騒ぎ、運命の悪戯か、今度は逆に、この同じ場所で、同じ様なことがあるもんだなぁ。と、その当時の懐かしい想い出が走馬灯のように脳裡をよぎった。

 健太郎が初めて就職したころは、日本が高度成長期に入る前のころで、地方では物より心の絆を大切にする時代であり、社会は長幼の順が守られ、現代のように差別や尊属殺、ましてや親が子を自己の欲望のためにあやめるといった風潮は全くなく、ましてや、教師が教え子に手を出すといったことも耳にしなかった。
 時代の変遷とは言え、余りにも激しい世相の流れに、健太郎はニュースを耳にする度に溜め息をつくばかりである。

閑話休題
 この半自伝的な物語は、戦後、人々を取り巻く素朴で必ずしも経済的に恵まれなかった奥羽地方の若い人達。それにもめげず誰もが心に希望を抱いて日々を励み、学園生活・都会への憧れ・就職試験・恋愛等を織り交ぜた、50数年前の昭和を回顧したものである。当時は経済成長の入口前で就職難が唯一の悩みであったが、現代の経済至上主義・格差社会のない良き時代であった。と、老いのせいか懐かしく偲ばれる。

 

 節子さんが突然訪ねて来る少し前、健太郎と同じ街で美容院を営み、日頃、彼の家を子供の理恵子と一緒に訪れては家事をしてくれ、彼と親しく交際している節子さんと同郷で先輩である秋子さんから
 「節子さんは、高校卒業後、本当は貴方に対する思慕の念を絶つため、上京したのよ」
 「貴方、覚えているかしら・・」
と不意に聞かされて当惑したことがあった。

 確かに彼は、2年前、癌に侵されOPをした時は自分でも、また、主治医や周囲の看護師の態度から判断して、これは駄目かなと覚悟したが、医学の世界でもアノマリーがあるらしく、元気でいる(自分ではその様に自覚している)ので、彼女も、彼の姿を見て唖然とし、彼の日常生活・体調・服薬内容などを細かく、それこそ専門的に聞き出したあと
 「ヨシッ! 健さん。 閉じ篭りはよくなく運動も大事だゎ。お天気も良いし、気分が宜しければ、枝折峠に行きましょうょ」
 「私、峠の石碑に刻まれた碑文が、事あるごとに妙に気になり、何時の日か健さんにお聞きしたいと・・」
と、言葉巧みに誘い出され、また、彼女が強く希望するので、彼女の運転で峠の途中まで来て、そこから徒歩で一時間かけて頂上にたどり着くことができた。
 健太郎は、天候に恵まれたこともあり、予想もしなかった彼女との再会に、久し振りに若がえった思いで心が弾む喜びにしたった。 
 

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