老医師は、玄関口で挨拶もそこそこに済ました大助を、満面の笑顔で手を引いて居間に連れて行ってしまった。
やがて、お茶では物足りなくなったのか、老医師が大声でキャサリンに愛飲のウイスキキーと氷を持って来る様に催促し,機嫌のよい声にキャサリンも心が和らいだ。何を話しあっているのか二人の愉快そうな明るい笑い声が、病院の入り口にいる美代子と朋子にも廊下の空気を揺るがすように聞こえて来た。
気が抜けた様に入り口の廊下に座り込んでいた美代子は、看護師の朋子さんから
「美代ちゃん。恋人が訪ねて来たとゆうのに、なによ、そんな青ざめた顔でしゃがみ込んで・・」
と、声をかけられ受付の部屋に連れて行かれた。
親しい朋子の説得に少し落ち着きを取り戻した美代子は朋子に対し、今日の出来事を涙混じりに愚痴を零していたところ、今度は老医師が大助を連れて二人揃って風呂場に行く姿が目にはいった。
美代子は、その様子を見て思わず立ちあがり
「お爺ちゃん!わたしが流してあげるから、余計なことをしないでょ」
と声をかけると、お爺さんは
「男同士で裸で話しあうんだ」
「大泣きして大助君を口説いたオナゴは口出しするな。情けないヤツだ!」
「お前の仕事は、下着と浴衣それに晩酌のつまみをきちんと用意することだ!」
と言って、彼女の言うことを無視して、さっさと二人で風呂場に向かって何やら愉快そうに話あいながら、大助は美代子を振りかえって、バイバイと手首を振ってにこやかに笑って嬉しそうにお爺さんの後について行ってしまった。
美代子は、朋子さんに一部始終話し、続けて恨めしげに
「それなのに、今度は、お爺ちゃんが、私から大助君を奪い取り、大助君も何を考えているのか・・、さっぱり判らなくなったゎ」
「あのねぇ。大助君には恋人がいるらしいのょ」
と愚痴ったあと
「今晩こそ、お爺さんやママに、わたしの思いを話して、例え叱られ反対されたら、家を飛び出しても、わたしの考え通りに、大助君と二人で生活するゎ」
と、涙を流して同情を求める様な表情で心のうちを話したところ、朋子さんは
「う~ん、美代ちゃんの気持ちは良く判るが、いざ現実となると難しいわねぇ~」
「けれども、偶然とはいえ、大助君に巡り合えたので、良かったでない」
「恋の道のりは平坦ではないゎ」
「彼に恋人が居るなんて、美代ちゃんの思いすごしょ。大助君はそんな人には見えないゎ」
と、溜め息混じりに答えて慰めた。
彼女が、着替えの下着類を脱衣場に持ってゆくと、浴場内では大助が事情を話しているのか、お爺さんが「そうか、そうか」と満足そうに返事をしているのが聞こえてきた。
彼女は耳を澄ませて扉越しに、二人の話し声を聞いていて、自分が身を焦がすほど心配していることをよそに、男の人達の神経はどうなっているんだろう。と、益々、これから、どのように話したらよいのか、頭の中が混乱して、その場に暫く佇んでしまった。
キャサリンが、忍び足で脱衣場に様子を見に来て
「美代ちゃん、おつまみの料理を用意したので、座敷に運んで」
と声をかけたので、美代子は浮かぬ顔で、居間のテーブルにイワナの焼き物や山菜のサラダ等を並べ終えた頃、二人はシャツ姿で部屋に戻ってきて、大助が額の汗を拭いながら
「わぁ~ 珍しく凄いご馳走だなぁ。イワナなんて久し振りだわぁ」
と言いながら座ると、美代子は大助の左側に長い脛を横崩しにして、わざと彼の胡坐に脛が接する様に座り、オンザロックを作ってあげたが、お爺さんが
「俺にも作ってくれ」
と言ってコップを彼女の前に出すと、素っ気無く
「ご自分でお作りになったら」
と澄ました顔でコップを押し返し、大助の顔を横目でツラット見て「イワナの頭を取りましょうか」と言いながら皿を引き寄せた。
お爺さんは
「オイオイ イワナは頭が一番美味しいんだ」
「この我儘娘が!普段、小遣いをせびるときは猫なで声で言い寄るのに、大助君が来るとワシを無視して、これだから・・」
とブツブツ言いながら自分でオンザロックを作っていた。
川蟹の味噌汁やご飯を運び終えて席に座ったキャサリンが、この様子を目に見て
「美代子。なによ、その態度は。大学生でしょう、母さんも恥ずかしくて情けなくなるゎ」
「お爺様にも、お作りになってあげなさいょ」
「大助君がお出でになると、途端に甘えて・・」「そんなことだから、お爺様や母さんが心配するのょ」
と注意すると、彼女は
「何時もママがしてあげてるでしょ」「お爺様は、ママのお造りになったのが一番すきなのよ」
と冷たく言い放って全く取りあわなかった。
大助と老医師は、そんな母娘の話に構わず話を続けていた。
美代子は、美味しそうに食べている大助の横顔を覗き、彼の胡坐の膝にわざと手を当てて、早く話を切り出しなさいよと言わんばかりに促すと、大助は箸を休めてお絞りで口を拭き
「お爺さんには、先程、お風呂の中で僕の近況を大体お話しましたが、小母さんと美代ちゃんには初めてなので、改めてお話致しますが」
と、言葉を選びながら簡潔に話し出した。
『実は、防衛大の指導教官から、君の勉強目的から医大の編入試験を受けてみろ。と、の話があり、僕も好きな化学を将来にわたり深く勉強したいと思っていたので、家族とも相談のうえ、防衛医大や新潟大の編入試験を受験し、幸いどちらも合格しましたが、経済的には厳しいが、新大医学部に将来専攻したい科目があり、秋に新大に編入しました』
『母親も、高校卒業時、経済的理由で京大の理学部に合格しながら進学できなかったが、今では、珠子姉も結婚して、少しはゆとりも出来たので、お前の好きな大学に進みなさいと言ってくれ、義兄の昭二さんも、出来る限りの応援するからと薦めてくれ、多額の入学金も用意してくれたので、幸い奨学金も受けられ、生活の保障された寮と違い最低限の生活ですが、何より自分が自由に使える勉強の時間が多く取れて、精神的には充実した勉強をしております』
『美代ちゃんには、お爺さんの言つけを守り連絡をせず、それに、イギリスにいるもんだと思っていたから・・』
と説明したところ、キャサリンは大助の話しを聞いて、納得して
「そうでしたの、若いのに目的意識をちゃんとお持ちになっていらして立派ですゎ」
と一言漏らして感心していたが、初めて事情を知った美代子は、彼の行動力の激しさにビックリし、お絞りをいじりながら、昼間見た部屋の状態を思い浮かべ、現実の生活と考えていることの乖離の大きさに、言葉もなく目を潤ませ俯いて聞き入っていた。
お爺さんは、浴場で聞いていたためか納得した平静な顔で聞いていたが、大助の話が終わるや
「大助君、男のロマンやな」 「あらゆる困難を克服して、自分の信念を貫く考えは、若者の特権だよ。素晴らしいことだ」
「若いうちは、理想に燃えて頑張るんだね」 「為せば成るもんだよ」
と、益々、大助が自分の孫の様に思え、目を細め喜色満面で褒めていた。
美代子は、それまで考えていたことを言葉にだす威勢をそがれてたが、それでも気持ちを奮い立たせ、老医師と大助の会話に反発する様に 小声で
「冗談でないゎ。大助君の生活はまるで地獄よ」
「わたし、今度こそ自分の考えを通させていただくわ」
と呟いて反抗したが、心の中では、さしあたり明日からどうすれば良いのか。と、お絞りをいじりながら思案し、二人の顔を眺めた。