2月の末にしては珍しく続いた晴天も、3月に入ると寒気が舞い戻り、雪深い飯豊山麓にある美代子の住む街は、連日、重苦しい鉛色の雲が空を覆い、朝晩の冷え込みも例年並に厳しい。
診療所の朝は、春夏秋冬変わることなく毎朝5時、お爺さんが二階の仏間でリズミカルに打ち鳴らす団扇太鼓と鐘の響きにあわせて読経する”南妙法蓮華経”の朗々とした声を、まるで合図にした様に皆が動き出す。
卒業式を間じかに控えた日曜日の朝。 読経を終えたお爺さんは、キャサリンと美代子を仏間に呼びよせ、何時もの厳しい顔つきで、緊張して正座しているキャサリンと美代子の前に、二通の白い封書を大事そうにだした。
その一通には、
自分の晩年において、キャサリンと美代子の二人の人生に夢と希望を叶えさせるべく尽力することが、自分の余生に残された責任と願望であり、日夜、彼女等の幸せを考えて心を砕き過ごしていること。
更に、何故か孫娘の美代子と親しくなった大助君が自分の孫の様に思えて可愛いくてたまらない。
と、正直な思いを、旧漢字をまじえて丁寧に毛筆の行書でしたためた、大助の母親孝子宛てのものである。
老医師は、孝子宛ての白い封書に添えて置いた別の封書には、上京の経費を入れておいた。
彼は、腕組みして二人の顔を見ることもなく視線を落として、ゆっくりとした静かな声で、キャサリンに
「ワシが言うまでもなく、節子さんにお世話になるのだから、貴女が全ての経費を負担しなさい」
「ホテルは上京の都度使用している品川のホテルを予約して宿泊すること」
「美代子は、入校案内書により学校の説明をよく聞き、大助君の家では礼儀正しく姿勢を正して挨拶し、例え大助君がいても絶対に我侭を言わないこと。判ったね!」
と、古風なお爺さんらしく二人に細々と注意を言い聞かせた。
キャサリンは緊張した面持でいたが、美代子は普段と変わらぬ表情で黙ってきいていたが、頭の中では早くも大助君の姉珠子さんに対して、どの様に自分の気持ちを話せば、彼との交際を理解して認めてもらえるか。と、そのことばかりが頭をよぎり、その際の言葉を思いめぐらせ、学校施設の見学や入学案内にはあまり関心をもたず思案していた。
老医師は、二人が緊張していることを察知するや、出発にあたり、これはいかんと思い直し表情を崩して
一通り上京の目的を果たしたら、美代子の生まれた病院やキャサリンが正雄と結婚式をあげた教会、それに当時家族で住んでいた街を歩いて回り、更に浅草寺の観音様をお参りし受験の祈願をしたあと好きな所を適当に遊んできなさい。
東京の雰囲気を少しでも知ることは美代子のためにもなり、キャサリンも往時を懐かしんで散策することは、日頃の鬱積した心が癒さるよ。学会で飛んで歩く正雄とは違い、この様な機会を利用して外の空気をすうことは家庭の主婦としては精神的に大事なことなんだよ。
大助君の時間が取れれば、孝子さんの許しをえて一緒に遊んできなさい。
節子さんは君たちより一足早く帰るらしいわ。
まぁ 滅多ににない機会なので家のことは気にせず、四・五日気儘に東京を楽しむんだなぁ。 君が留守にすることで、正雄も妻の有難味が身に染みて判り、皆がハッピーだわ。
と、彼女等が予期しないことを言って緊張気味の心をほぐし喜ばせ、更に
ワシのことは心配せんでいい、賄いの人に面倒見てもらうし、それに、健太郎さんとも時折行き来して、五月蠅い美代子から離れて呑気にさせてもらうわ (アハハッ)
と愉快そうに笑って言葉を添えた。
上京の朝。 美代子は、着てゆく洋服のことでキャサリンと少しもめたが、結局はキャサリンの言うことを聞き入れて、上下がグレーの中学校の制服にすることにした。
その頃、節子さんが玄関に現れて、車中で履き替えると言って手提げの紙袋に入れたハイヒールをキャサリンに見せたので、キャサリンも真似てハイヒールを用意したので、美代子も
「わたしも、ハイヒールにするヮ」
と下駄箱から出して手にすると、キャサリンは冷たく感じる声で
「貴女は、中学生なのでパンプスにしなさい」
と言って、彼女から靴を取り上げて下駄箱に戻しパンプスを渡すと、美代子は不満そうに
「中学生だとどうしていけないの。そんな理屈は大人のエゴだゎ」
「これでも、カッコ イイと褒めてくれる人がいるので、余計な御心配をなさらないで・・」
と言い返していたが、節子さんに言われて渋々ながらパンプスを用意した。
お爺さんは、玄関先での二人のやり取りを苦々しい顔で一部始終を見ていて、出発前からこの有様では。と、心配でならなかった。
職員の運転する車で駅に送ってもらい、母やキャサリンが用意してきた靴に履き変えて車中の人になったが、美代子は新潟駅で新幹線に乗り換えると窓外の雪景色を眺めながら、姉の珠子さんや大助君にどの様に話そうかと緊張と楽しさの入り混じった複雑な思いで移りゆく景色を眺めて思い巡らせていた。
そんな美代子に、キャサリンが小さい声で
「美代ちゃん、貴女、子宮頸癌の予防接種を何時するの?」
と尋ねたら、彼女は
「わたし、そんなの必要ないヮ」「副作用もあるらしいし、嫌だゎ」
と澄ました顔で答え
「ヘンナコト キカナイデョ」
と言って不機嫌に答えたあと顔を背けてしまった。
親子の会話を聞いていた節子さんが、キャサリンの耳元で囁く様に
「理恵子も、していないようだゎ。よく言い聞かせておいたのに・・」
と、キャサリンに小声で言うと、キャサリンは
「この子は、まだ精神的に幼く衛生観念がないのかしら・・」
と困ったような顔をしてうなずいていた。
二人は美代子の手前それっきりこの話はやめてしまった。
途中経過した越後湯沢は、報道通り豪雪であったが、関越トンネルを過ぎると、窓外が、雲ひとつ無い青空で、心も景色同様にパァ~ツと明るくなり、赤城山や噴煙がかすかに立ち登る浅間山が見えて、三人の表情も自然と明るくなった。
キャサリンは節子さんと、城家の人間模様とか街の雰囲気等、理恵子さんの生活振りを交えて会話し、自分を落ち着かせるために熱心に聞いているうちに東京駅に到着した。
東京駅には、理恵子さんが迎えに来てくれていたが、美代子を見つけると走りよって来て
「少しの間、お逢いしないうちに、もう、すっかり高校生らしくなったわネ」
と笑顔で迎えてくれたので、美代子も
「理恵姉さんも、見るたびにず~と綺麗になり羨ましいゎ」
と挨拶代わりに話し、美代子は理恵子の言葉で、それまでの緊張感が少しほぐれて、二人は腕を組んで駅構内を歩んだ。
理恵子の案内で池上線の久が原駅につき、城家にお邪魔すると、節子さんが予め話しておいたのか、孝子さんと娘さんの珠子さんも愛想よく迎えてくれ、型通りに丁寧に挨拶した後、キャサリンが、美代子が大助君に大変お世話になって以来、生活が前向きで明るくなった旨をありのままに簡潔に話してお礼を丁寧に述べて、お爺さんからの手紙を差し出し、お爺さんも大助君をまるで自分の孫の様に可愛がっていることを話した。
理恵子は、予め節子さんから上京の理由を知らされていたので、その場を和ませるべく珠子と二人して気配りして、会話の合間に都会での若者の生活振りを説明していた。
孝子さんは色白な丸いふくよかな顔に笑みをたたえて、キャサリンの話に対し
「アノ 大助がネ~ェ」「親の欲目かも知れませんが、高校生になるとゆうのに、なんか、子供ぽさが抜けないで・・」
「果たしてこの先、お宅のお嬢様とお付き合いしてゆけるかしら・・」
と答えながらも、推薦で都立高校に入学することになったと話していた。
キャサリンは、孝子さんの話しぶりに、自然と人を包み込むような、穏やかで優しい不思議な魅力を感じ、これが、長年都会で看護師長として勤め上げてきた人の、洗練された人間性のなせる業かと感心し、それまで緊張していた神経が一辺にほぐれて、自分もこのようにありたいと、その人柄が羨ましく思え、それからの会話にスムースに入ることが出来た。
珠子は両親や節子さんの会話を黙って聞きながら丁寧な手付きで茶菓を用意していた。
彼女は美代子に対し親しげに「アナタにはコーヒーを入れましょうか」と笑みをまじえて話してくれ、美代子はその一言で心配していた危惧が一変に払拭され普段の自分を取り戻した。
孝子さん達が、雰囲気に和み、それぞれの生活や子供等のことを、時には冗談を交えながら笑って話し合っている隙に、美代子は思いきって珠子さんに
「大助君は?」
と、彼の姿が見えないことが気になり、遠慮気味に小声で尋ねたら、珠子さんが心よく廊下に招いてガラス戸越に庭を指差すと、彼が芝生に茣蓙を敷いて寝そべって、キャッ キャッと笑い声を上げている女の子と並んで、時々、二人が示し合わせた様に脛を上げ下げしながら足で芝生を叩き本を見て笑っている姿が目に入った。
大助は、美代子さんが訪ねてくる時間を知らされていないとみえて、早春の陽ざしを浴びた芝生にうつ伏せになって、何時も遊びに来ている近所の小学5年生でお茶目なタマコちゃんと、二人して愉快そうにお菓子を食べながら本を読んでいた。