CHE GUEVARA のこと。

2009-02-13 10:08:08 | 最近、たまたま楽しいだけです。
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 その昔、僕の周りには CHE GUEVARA の肖像タトゥーをした人が沢山居た。僕は、自分の身体に『誰か』が刻まれること、を、理解できなかった。彼に関しての情報は、そこそこ持って居た筈なんだけど、そして強い憧れは持っていたが、『誰か』を刻み込むとこまではいかなかった。最近、公開されている CHE GUEVARA の映画2部作を観た。

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 映画とは関係なく、枕元には彼の関連本がある。整理されていない古本から、不意に飛び出してきたその本を、何年振りかに読んでいた。その昔、そういった方面に強い人たちが僕の周りには沢山居た。『**』は叫んで居なかったけど、彼に対し強い憧れを持っていて、彼を半ば信奉していた人たちだったと思う。その中で、僕も知らない話を聞くのは嫌だったから、何冊かを図書館に頼り、1冊を手元に置いたんだと思う。

 正直、その熱意からは、僕は距離を置いて居た。まず、身体の何処かに常に『誰か』が居ることを想像することだけで、息苦しさを感じた。肖像の主が、知らない場所で作られた、力強くて、シンプルな『正義』に殉じた人物であることも、僕の息苦しさを増す材料になった。ストーリーを追って、情景を思い浮かべていたとは思うが、それは殆ど実感が伴わないものであった。

 密林を知らないし、銃声も知らない。『**』のことも知らない。その後の危機も、ピンと来なかったし、いや、大抵のことを知らなかったんだ。

 それから、何年か経って、ふと感じたのが国家の『輪郭』ということだった。CUBAの輪郭がはっきりしていた。国家と云うものの輪郭が、ちゃんと『行動』と『信念』によって造られたということに、遅ればせながら、気付き、遅ればせながら、感動した。『何をもっての国家』であるとか『何をもっての幸福』であるとか『何をもっての自由』であるとか、そういった理念があることに、強い憧れを持った。奇跡のような『**』とかの話ではなくて、意思によって形成されている国家は素敵だ、と言うのは、村上龍さんが沢山書いている。物語として、そういうのは好きだ。

 やっぱり、日本の未来を想像すると閉塞している。国家の輪郭がはっきりしていないことが原因だと思う。僕の周りに居た、彼を身体に刻んだ人たちは、その時、国家というか、自分の属する現実に対し、一種の閉塞感を感じていたのかもしれない。いや、そうじゃないかもしれない…。


 単純にファッションだったかも、しれない。

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