「自閉は何処で閉じたのか?」
『自閉』の『自』(みずから)という字は分割不可能な『個』を表す意図がある。だが、例えば『私』、これは『公人』と『私人』からでも分かるように社会生活の中での役割だけを表したものである。(更には『俺』と言うのは『私』に性差をつけたもので、その分意味も無く、『個人』に近い。)一般で幅を利かせている『固有名詞』(名前)には初めから多くの情報が含まれており、産まれたままでの自己を保持することの難しさは、依然として存在する。
その他には、少し前登場している『人』というのがある。これも集団の中での自分を自覚してのもので「人の気も知らないで!」には、個人の感情を社会規範に当てはめて、「これでは、私が怒るのも仕方ないでしょ…」と言うニュアンスが含まれる。感情はまま抑えられ、より説得力の強い『規範』に争点を置く。女の得意技として広く知られている。
ここで、何の意味も無いが、順番をつける。: 固有名詞(名前)→自分→俺→私→人→東北に暮らす人→日本語を喋る人→日本国籍を持つ人→モンゴロイド骨を持つ者→ホモ・サピエンス→ヒト属→ヒト亜科→ヒト科→霊長目→改造人間→ショッカー→カーナビ→ビール→類人猿
2,3行飛ばして以上の事からも分かるように『個人』と言う表現は用途によって大きく変化するものである。一見、分割不可能な個人と思っているものは、常に環境や、連続して押し寄せる時間、共同社会で強いられる役割など、に縛られることを前提としている。
今回は言葉遊びと銘打っているので、こんな話が展開できちゃう。
「懐疑を徹底させて、更にはしつこい位!時間の許す限りこれを重ね、疑いようの無いところまで行き着けば『個としての自分』に出会える!」と言った人がいる。エポケー(晩酌セット 1500円)とかいったやつである。
客観性や社会規範を悉く排除し、自分が知覚し得る事柄すらをも片っ端から疑い、否定し尽くした、例の「cogito(我思う)」である。自分を思っちゃっている瞬間の自分だけが『確かな存在』であるとしている。飼い主に散歩に誘われる時や、電柱の匂いを嗅ぐ時、首輪のリードを外されて公園に飛び込む時などは、社会的役割や周りの人の誤解に縛られていて、個としての自分は微塵も存在していない。(私自身を振り返ると、高校時代に古典の藤村先生のマネをしている時や、アルバイトでイタコやっていた時や、ジョン・レノンの口寄せを頼まれた時などは、私の存在全てが仕事の重責に支配されていた。)
しかし、これにはおかしい点がある。まず、思う環境が既に造られた環境である、しかもそれは連続した時間を経ている。それを思う為の時間は、既に多くの出来事の上に立ち、思う瞬間の快適さ(もしくは不快さ)は、何ヶ月か前の労働賃金に厳しく順ずる。思った瞬間こその自明性は、このことで早くも崩れ去るように感じる。つまりは、ここでは分割不可能な『自分』に近づきはするが、迫るには至らない。純粋意識とココで呼ばれるものは、精々…良くて社会集団の中の『私』止まりなのだ。所謂、世間で言われている『自我』と言うものも、限り無く不安定で不確かなものと言わざるをえない。
自閉する彼らは時間(経験)を必要としないで、判断能力を身に付けぬまま…自らを閉じた。従って、自閉まではまだとんでもない距離が残っている。彼らは『自我』なんて曖昧なものを必要としていないように見える。もしくは必要とせず、敢えて!生まれてきたように見える。
エポケー(チキン・バーガー オニポテ・セット 670円)は純粋意識が懐疑という仕事をこなし、それを職人的に徹底させて本当の自分を探るという方法である。
純粋とは呼べない「意識」が邪魔をしている可能性がある。
そして、我々は仕方なく『無意識』の領域に突き進まねばならない。実際、無意識ともなると、言葉では表せなくなる。言語は共通認識を広める上で発達してきたものだから、集団生活を無視した個人に話題が移ることで分が悪くなる。
『無意識…』になってしまった、どうしよう…?
ここでは「瞑想」の持つ神秘性の話で、急場を凌ぐ…。
『瞑想』の価値は、所有する表皮から一番先に出会う外部との『間』によって決まる。『解脱』とはよく言ったものだ。(現実的に周りの風景を自分から切り取ることは不可能である。)従って、瞑想という作業は俗世から積極的に離れると共に、更には懐疑を持って自分の持分を削ることに終始する。この行では外部との絶対的距離(スカラー)所謂、『間』が実績になり、賛美され、積極的に俗世から離れる事(人里離れた山の洞穴に居を設ける)と、原始欲求を排除する事(断食など)が高尚な生き方とされた。
余談ではあるが、上記とは違う手法もある。フロイトは夢診断などから『エディプス・コンプレックス』を見出した。人間が過去の記憶を自然に湾曲させる性質を見抜いた功績は大きい。無意識と呼ばれる中にある確かな要素、例えば、潜在的な欲求、コンプレックスによって既に決定されている気性、思い出せない記憶、テツ&トモで元気になってしまう自分、アルコールによって過激になっていく下ネタ、フロント・マンの離脱で解散の危機に陥るバンド、地球規模の温暖化によって溶ける南極の氷、安易な可愛さにやられてしまう男など、分析し治療する技術と言ってもよい。
しかし、聖者の苦行という行為は明らかに下等な原始欲求すら克服するものだから、フロイトのようにココがGOALではない。更に修験者は名前の付かない広大な精神世界に、自ら進んで足を踏み入れている。エディプス・コンプレックスで説明出来る人は「治療する必要は無い!」と断言できる、それは本人が治療を望んでいるし、治療可能だからだ。正常と呼ばれるところに引っ掛けて欲しいのだ。フロイトは逆説の可能性と治療方法を唱えただけで、社会性によって決定される自我を粉砕してはいない。(彼が粉砕する必要もない!)
我々の抱える先だっての問題(自分は何処で自分なのか?)は解決せずに放棄されている。
従って、聖者の目指す『忘我』の世界が文字通りの近道で、『固有名詞』を粉々に吹き飛ばし、我々の問題に迫り得る世界かも知れないのだ。
【続く】
『自閉』の『自』(みずから)という字は分割不可能な『個』を表す意図がある。だが、例えば『私』、これは『公人』と『私人』からでも分かるように社会生活の中での役割だけを表したものである。(更には『俺』と言うのは『私』に性差をつけたもので、その分意味も無く、『個人』に近い。)一般で幅を利かせている『固有名詞』(名前)には初めから多くの情報が含まれており、産まれたままでの自己を保持することの難しさは、依然として存在する。
その他には、少し前登場している『人』というのがある。これも集団の中での自分を自覚してのもので「人の気も知らないで!」には、個人の感情を社会規範に当てはめて、「これでは、私が怒るのも仕方ないでしょ…」と言うニュアンスが含まれる。感情はまま抑えられ、より説得力の強い『規範』に争点を置く。女の得意技として広く知られている。
ここで、何の意味も無いが、順番をつける。: 固有名詞(名前)→自分→俺→私→人→東北に暮らす人→日本語を喋る人→日本国籍を持つ人→モンゴロイド骨を持つ者→ホモ・サピエンス→ヒト属→ヒト亜科→ヒト科→霊長目→改造人間→ショッカー→カーナビ→ビール→類人猿
2,3行飛ばして以上の事からも分かるように『個人』と言う表現は用途によって大きく変化するものである。一見、分割不可能な個人と思っているものは、常に環境や、連続して押し寄せる時間、共同社会で強いられる役割など、に縛られることを前提としている。
今回は言葉遊びと銘打っているので、こんな話が展開できちゃう。
「懐疑を徹底させて、更にはしつこい位!時間の許す限りこれを重ね、疑いようの無いところまで行き着けば『個としての自分』に出会える!」と言った人がいる。エポケー(晩酌セット 1500円)とかいったやつである。
客観性や社会規範を悉く排除し、自分が知覚し得る事柄すらをも片っ端から疑い、否定し尽くした、例の「cogito(我思う)」である。自分を思っちゃっている瞬間の自分だけが『確かな存在』であるとしている。飼い主に散歩に誘われる時や、電柱の匂いを嗅ぐ時、首輪のリードを外されて公園に飛び込む時などは、社会的役割や周りの人の誤解に縛られていて、個としての自分は微塵も存在していない。(私自身を振り返ると、高校時代に古典の藤村先生のマネをしている時や、アルバイトでイタコやっていた時や、ジョン・レノンの口寄せを頼まれた時などは、私の存在全てが仕事の重責に支配されていた。)
しかし、これにはおかしい点がある。まず、思う環境が既に造られた環境である、しかもそれは連続した時間を経ている。それを思う為の時間は、既に多くの出来事の上に立ち、思う瞬間の快適さ(もしくは不快さ)は、何ヶ月か前の労働賃金に厳しく順ずる。思った瞬間こその自明性は、このことで早くも崩れ去るように感じる。つまりは、ここでは分割不可能な『自分』に近づきはするが、迫るには至らない。純粋意識とココで呼ばれるものは、精々…良くて社会集団の中の『私』止まりなのだ。所謂、世間で言われている『自我』と言うものも、限り無く不安定で不確かなものと言わざるをえない。
自閉する彼らは時間(経験)を必要としないで、判断能力を身に付けぬまま…自らを閉じた。従って、自閉まではまだとんでもない距離が残っている。彼らは『自我』なんて曖昧なものを必要としていないように見える。もしくは必要とせず、敢えて!生まれてきたように見える。
エポケー(チキン・バーガー オニポテ・セット 670円)は純粋意識が懐疑という仕事をこなし、それを職人的に徹底させて本当の自分を探るという方法である。
純粋とは呼べない「意識」が邪魔をしている可能性がある。
そして、我々は仕方なく『無意識』の領域に突き進まねばならない。実際、無意識ともなると、言葉では表せなくなる。言語は共通認識を広める上で発達してきたものだから、集団生活を無視した個人に話題が移ることで分が悪くなる。
『無意識…』になってしまった、どうしよう…?
ここでは「瞑想」の持つ神秘性の話で、急場を凌ぐ…。
『瞑想』の価値は、所有する表皮から一番先に出会う外部との『間』によって決まる。『解脱』とはよく言ったものだ。(現実的に周りの風景を自分から切り取ることは不可能である。)従って、瞑想という作業は俗世から積極的に離れると共に、更には懐疑を持って自分の持分を削ることに終始する。この行では外部との絶対的距離(スカラー)所謂、『間』が実績になり、賛美され、積極的に俗世から離れる事(人里離れた山の洞穴に居を設ける)と、原始欲求を排除する事(断食など)が高尚な生き方とされた。
余談ではあるが、上記とは違う手法もある。フロイトは夢診断などから『エディプス・コンプレックス』を見出した。人間が過去の記憶を自然に湾曲させる性質を見抜いた功績は大きい。無意識と呼ばれる中にある確かな要素、例えば、潜在的な欲求、コンプレックスによって既に決定されている気性、思い出せない記憶、テツ&トモで元気になってしまう自分、アルコールによって過激になっていく下ネタ、フロント・マンの離脱で解散の危機に陥るバンド、地球規模の温暖化によって溶ける南極の氷、安易な可愛さにやられてしまう男など、分析し治療する技術と言ってもよい。
しかし、聖者の苦行という行為は明らかに下等な原始欲求すら克服するものだから、フロイトのようにココがGOALではない。更に修験者は名前の付かない広大な精神世界に、自ら進んで足を踏み入れている。エディプス・コンプレックスで説明出来る人は「治療する必要は無い!」と断言できる、それは本人が治療を望んでいるし、治療可能だからだ。正常と呼ばれるところに引っ掛けて欲しいのだ。フロイトは逆説の可能性と治療方法を唱えただけで、社会性によって決定される自我を粉砕してはいない。(彼が粉砕する必要もない!)
我々の抱える先だっての問題(自分は何処で自分なのか?)は解決せずに放棄されている。
従って、聖者の目指す『忘我』の世界が文字通りの近道で、『固有名詞』を粉々に吹き飛ばし、我々の問題に迫り得る世界かも知れないのだ。
【続く】
「えぇ~?hanamizuさん何言ってんのぉ~。難しくってわかんないよぉ~、もう。」
って言われたらどうする?
そしたら、使えるでしょ?
最強の免罪符(これはアートだから!)が…!!
ユーモアだけを汲み取って頂けて大成功と考えています。
あっ尿意。
まあ、それが自分の好きな女の子だったりしてもぜんぜんかまわないわけで・・・・。
まあ、健康のためにアートのし過ぎに注意しましょうってことです(笑)
hanamizu君の場合、なんだかんだといいつつも評価を当てにしているところがあるから、救いがあるかな、と。そういうキャラは嫌いではありません。
でも、コメントの方のように支離滅裂な文章を筒井康隆風だとか思い込んでいるのか、ただただ文字を羅列するのはこれは方向がまったく違うんでないかな~。
エヴァンゲリオンは好きだけどさぁ・・・。ただの音の羅列と、リズムとはまったく違うものですし。
あ、非難しているわけではなくて、ただワシは嫌いということです。
この雑記は、私の利益になるわけでもないので、分類してしまえば確かに自慰行為そのものです。自慰行為を大衆に開陳しているのなら、猥褻物陳列でしょう。
配慮が足らないと思われているようですが、(自分でも少し思いますが…)この雑記は「発信したい!」という欲求に駆られて書いたものです。裏付けは無いのは、調べるのが面倒だったことと、長くなってしまうからです。出来るだけ私の言葉を使って簡潔にしたかったのです。情報として最悪かも知れませんが、昨今のワイドショーほどではないと思っているんですが…。
私の記憶の断片に筋を付けて面白く(私なりに)書いたつもりです。これが自慰行為と呼ばれる由縁でしょうか?チラッと見た人が自分に当てはめて「なるほど!」と膝を叩く箇所も、一応は!用意したつもりです。
マッチョ・ドラゴンさんのコメントは分裂していて、支離滅裂で、私的には単純に「面白い!」と思いました。真意は分かりませんが、私自身は「茶化された!」とは、全く思っていません。全く!思っていません。実は…帰って、【続く】から先を分裂症状に当てはめて書くつもりでした。この辺も、冷静に考えると軽薄ですね。
【続き】を書くかどうかは、後ろ向きに検討したいと思います。
>あ、非難しているわけではなくて、ただワシは嫌いということです。
というコメントに対して返答を書くのを忘れました。この下に、一応下手に出てみました。が、実はこんなこと一片たりとも思っていないです。
ルールと言うものがある筈です。僕は一期舎さんもマッチョ・ドラゴンさんも知っているのですが、実は特定の誰かってのはマッチョ・ドラゴンさんだったのです。(これでアートの定義は満たしますね?)彼がコメントを寄せた時に二日酔いだったことは後になって知りました。
勿論!彼の弁護ではないし、彼の落ち度だし、彼の落ち度でもありません。
私の想定ではもっと面白い話になる予定だったんですねぇ…。残念ながら、お互いにテンション下がってしまって、そうはならなかった。うわぁ…残念…!
好きとか嫌いとかは、自分の場所で言ってくくれませんか?私、そちらで言っていないですよね?
お願いします。気持ち悪きゃ、読まなければいい。
分からないことばかりですよ、世の中は。選べばいいだけで、不安になる必要は…まったくない!
んー、やっぱりだめだ・・・・。
ブログもサイトも一般に公開されています。一般に公開されているということは不特定多数の人に対して自分の書いた文章の責任をおわなければならないと考えます。
例えば冗談で「○○中学校の生徒を殺す」などと書き込みしたとするでしょ。
不快なら読まなければいい、というわけには行かなくなるわけです。
われわれブログを公開しているもの、あるいは一般に公開されたブログに対してコメントするものは、必ず誰かの評価を受けるものです。
その評価が自分にとって都合の良いものであれ、都合の悪いものであれ、公開した以上甘んじて受け入れなければならない、そうでなければ公開の場でそれを見ている第3者に対して納得のいくような説明をするべきだと思いませぬか?
もし、公開の場で自分の意見を言うことがマナー違反であるとするならば、評論家という仕事は成立しなくなる。
ブログやホームページの記事にコメントする人は、そのサイトの管理者と自分の2者しか、そのコメントの場には居ない錯覚しやすいものです。ですが、公開されている以上それを読んでいる人は他にも居るわけで、誰かが不快に感じるということがあった以上、その文章を書いた人は今後のみの振り方を考えなければいけない。
今後のコメントでは以前のような「誰かに不快感を与えるような文章を書かないように注意する」か、または「それでも自分の書きたい文章を書きつづけ、読んで欲しくない人には見向きもされないようにする」か・・・・。
結構、支離滅裂系の文章を書いている人は後者を選ぶことが多いようですが・・・。
ネット上で言ったことでも、一対一の場合ワシが言わないことがあるのは、ネット上という公開の場での自分の立場と、個人対個人という私的な立場で言いたいことも違うし、ということですわ。
ネット上でのコメントは、の文章を書いた人物個人に対してというよりも、その周辺に居る賛同者あるいは反対者あるいは有象無象にたいしてのメッセージだったりするわけです。
ワシの「嫌い」に対してよい反応をしてくれてありがとうございます。まあ、確かに気分良く書いた文章で「嫌い」といわれれば誰でも凹みますな。書いたことについては反省いたします。
でもあの時「気持ち悪い感」がこみ上げてきて「嫌い」と書かずに入られなかったのです。
hanamizu君の知人だろうと思えばこそ最後まで読んでしまいました。普段であれば最初の3行くらいで別なページに飛んでいるのですが・・・・。
で、今回、どうして筒井康隆のできそこないのような文章に対して嫌悪感を感じるかということを考えまして・・・。
思うに自分も中学・高校生のころ同じ事をしていたのです。そのときの自分の心象を計るに、そのようなことに得意になって居る自分というのがありまして、その自分が気持ち悪いということに気がつきました。
以前どこかで言ったかもしれませんが、一期舎およびその一族は笑いに対して非常に厳しいのです。
えー、このコメントも場合によっては凶器ですので、管理者の責任で削除して結構です。
hanamizuは不特定の読者に頑張って配慮したつもりです。正直、いちごやさんは勿論、マッチョさんも得意な分野でしょうし、共感して貰える自信がありました。もしくは補足説明や反論してくれる可能性も考慮しました。当然、得意になっているわけではなくて自分の疑問を素直に明らかにしたつもりです。可能性を信じて、こういうタイトルを付けました。軽薄だったとしても、行程の上で、純粋に自分の疑問を解決したかったのです。それは自閉に対してだけではなく、なんとなく生き辛い世の中に対してかも知れません。
実際、よく覚えていないです。スイマセン…。読み直したら、凄く消極的な姿勢だし…。ホントに言葉遊びになってしまったのは僕の落ち度です。
以上の点から、hanamizuが反省することは多々あります。
>もし、公開の場で自分の意見を言うことがマナー違反であるとするならば、評論家という仕事は成立しなくなる。
評論家はあくまで緩衝材としての役割だと思います。少なくとも、僕はそう見ています、「そういうこと言いたかったんじゃねーの?」って、ちゃんと焼き直してくれる人で、いい人(ちゃんと消化してから喋る人)と悪い人(hanamizuなど)が居ます。胃腸薬みたいなものでしょうか?評論家が結論を言う風潮ですが、それはあくまで対論として、もしくは監視、視聴者や読者代表、として機能しなければいけないと思います。賛成の人が広告塔として機能するのは空恐ろしい感じがします。
僕に置いては、様々な意見を聞くことが出来ると思い、浮かれ損をした気になっっていたのです。
マッチョさんもココで示したルールに賛同してくれると思います。
【続き】はもっと分かり易くロマンチックに書くつもりです。
その前に、「どうせなら、パキスタンに募金を!」という感じの『月刊!山岳民族』を作ろうと思います。また、よろしくお願いします。