視(み)かけ上の直線、役割上の直線。

2008-12-02 19:02:45 | コドモオトナ(開墾日誌)
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 視(み)かけ上の直線には、ちゃんとした役割がある。限りなく真っ直ぐにすることで強度が増すらしい。面に関しても同じことが言えて、なるべく平らにすることで侵食が起こりにくくなる。だから、不真面目に削る、不真面目に叩く。飽きない程度の態度で。疲れない程度の緩慢さで。退屈に見られない程度の目の高さを意識する。

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 ビルディングが作る直線と、画家が描く直線、あと定規とか、畦(あぜ)と呼ばれる平面に刻まれる直線、それらは直線でないといけない理由を持っている。

 ビルディングは強度の面から直線を選択し、設計上、または材料の運搬上も有利なこともありこれを採用している。世の中にある直線の殆どは、強度においての実績と加工のし易さや規格の合わせ易さ、それと真面目に見える『見た目』を持っていたからこそ古代から採用され続け、今に至ってはこの地上で栄華を誇っている。


 自然界には直線と言える程の完全な直線は余り存在しない。真っ直ぐに見える杉の木は優等生だが、近くで視ると直ぐに直線に挫折していることが分かる。「完全な直線に視える!」って、水平線を思ったが近くで確かめようにも存在していないから除外するしかない。だから、地平線も却下。砂漠の作り出す稜線なんかも、いいところまでしか行かない。「水晶などの鉱物結晶は直線なのかな?」よく分からないのに、こんな話をしている。まず、無い!ということにしておこう…(笑)

 人間が次々と自然に手を加えることで、直線は次々と生み出される。ビルディングを真っ直ぐに聳え立たせるのは、自然に対し人間という存在を明らかにする行為であろう。直線を見て「クールッ!」って思うのは、こんな理由からかもしれない。直線を多用する絵画は、直線を垂直に編み込んだキャンパスに、更に直線を加えるといった念の入れようだ。人間の持つ不意の「クールッ!」は乗算的に「クールッ!!!」となる。

 しかし、直線とて一日にしてなるものではない。今でこそ、直線に囲まれて直線から与えられる豊かな暮らしをしている我々ではあるが、人類の歴史は「直線をより完全な直線にする」「より、大きな直線にする」ことで発展してきた。人類は直線と共に文明を発達させてきた。その過程での先人たちの苦労は計り知れない。

 畦(あぜ)というものを、ペタペタとスコップで叩いている時にそれを実感した。僕は怠け者だから、直線や平面と呼べる精度までは至らなかった。それは、視えない小さな生き物から見れば大きな救いであるかもしれないし、長期的に視れば大きなミスとなるかもしれない。(でも、草が生えちゃえば、大丈夫!)

 ビルディングにせよ畦(あぜ)にせよ、人間の都合が直線を造り出す出すことに間違いはない。しかし、その都合には様々な事情が含まれている。時に勇敢であったり、時に臆病であったりする事情。



『聳え立つビルディング』と『不完全な畦(あぜ)』。畦道の場合、重力とは余り闘わなくていいから、まだ気が楽だ。









::おまけ::

目的を持たず不格好に保たれた均衡は目的を持ち加工された鉄によって打ち破られる。不格好に保たれた均衡は侵略者に対し敢え無く今まで固持していた均衡を捨て、侵略者を受け入れる均衡を作り出す。しかしその瞬間は一瞬で表された後一瞬にして失われる。既に侵略者は去った。知覚の外で次の侵略は行われる。永遠と称される尺度で。繰り返されるといったイメージを超える、尺度で。小さな小さな分かり易い反応=営み、の集積が他愛のない力によって打ち破られる。その時、爆発しないのは臨界に達していなかっただけの話で臨界の話ではない。臨界を恐れての均衡を何層も重ねてきている。臨界…、既に破れている箇所は、悉く無視して。しかし、布告された新たな均衡の行方は、与り知らない未来の方向へ伸びている。そこに群がる新たな生命は、その与り知らぬ未来の住人になる。だからと言って、その為に、なすべきことなどは、特に、ない。


 

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