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『缶ビールと色鉛筆』の草稿、第二弾。
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こういうふうに、視る癖がついている。感情を排して、色とか、カタチとか、陰影とか。静かに息を吐いて、じわじわと目や、目の奥に、焼き付ける、とか、そんな感じ。そこに意味を探してはいけない、大抵の場合。コトバなどは遮断、極力瞬きを抑える、大抵の場合。静かに呼吸することだけは、仕方ない。ハッとした、肺の膨張はなるべく、そのままを維持、大抵の場合。アタマは、シャキシャキと動くけど、それも遮断。視ることに、意識を集中する。こういうふうに視る癖がついている。そんな作業を経た後、時間を置いて、焼きついた映像から言葉に起こしている。そんな癖がついている。
様々な用途のまとまりのない荷物に埋もれ、カーブが多くていちいちガタつく道を走る。目的や、与えられた使命などは持ち合わせていない。多分、送った奴らだってそこまで、求めていないだろう。浮ついた自己紹介から始まり、浮ついた近況報告、浮ついた状況把握、などに至った頃には疲れてていたし、なにより景色が一変していた。
記憶にない右折をした後、遠くに記憶にある右折を見た。この右折の理由は小さく空けた窓から直ぐに飛んで行った。道の凹凸が次々に消し去ってくれる浮ついた感嘆が数秒続いて、今度ばかりは疲れ果て、僕らは目的地のとある高台に到着した。荷物を担いで非常階段を上っていくと、その建物には不釣り合いな数の靴が待っていた。
幸いにも迎えてくれた人たちには特別な事情から悲壮感がなかった。来客を素直に喜んでくれているようであった。もともとシンプルであった生活は、更にシンプルになっていて、特にやることも見当たらなかった。生存に必要な面倒(摂取、排泄、運動、睡眠)を時間で区切り、淡々とこなしていた。テレビからの情報からは、明日のことは伝わってこなかった。僕らは、生存に必要な作業の一部を負担することしかできないで、置かれている状況とは不釣り合いな歓迎を受けた。これから先何年も、何度も蘇るであろう悲劇と奇跡を、建物の中の区切られた音楽室のどこででも聞くことができた。同じものを食べている、ということだけが救いであった。音楽室にはアコースティックギターがあった。それから、しばしば空いた時間(殆どが空いた時間だったけど)に、楽譜を見ながら見空ひばりなどを演奏した。名曲ぞろいだったし皆が喜んでいたようだったけど、その状況に相応しい曲は一つもなかった。いつ張られたか分からない音楽室のギターはそっと鳴っているようだった。音も、そこでは落ち着くことができないでいた。
数日の滞在を経て、必ず戻って来ることを約束して、その場所を後にした。
まだ、彼らを訪れていない。
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