インド人のノーベル賞経済学者アマルティア・センは「穀倉が作物でいっぱいなときでも、飢饉が起こりうる」と言った。原油価格の高騰は単なる需給の関係で起こるのではない。…「貯蔵タンクが原油でいっぱいなときでも、暴騰が起こりうる」のだ。原油生産は落ち込んでいない。減産もしていない。しかしこれから産油国が減産するかも知れない、イラクの政情悪化やテロで、あるいはハリケーン被害で供給が滞るかも知れない、イランの核関連施設にイスラエルが急襲爆撃するかもしれない、中国の消費拡大でまだまだ騰がるかも知れない…疑心暗鬼と博打要素、それが市場原理下のカジノ資本主義の世界なのである。
OPEC(石油輸出国機構)は1960年、バクダッドで開催された石油輸出国会議で創設された。産油国が原油の生産・供給・価格政策等で協調し、お互いの利益を守ろうという国際的な石油カルテルである。OPEC加盟諸国は、この国際カルテルによって国際石油資本に対抗し、さらに国際社会の中での大きな発言権を獲得した。
現在イギリスやメキシコ、ロシアなどの非OPEC産油国が台頭し、相対的な影響力は弱まっているが、このOPEC創設以降、産油国の石油利権者たちに宇宙的な富をもたらし続けてきた。こうしたオイルマネーは欧米をはじめとする世界の金融市場を突き動かし、また世界の競馬のオーナー地図を激変させてきた。
1980年日本の競馬界に、燃えるような真っ赤な覆面、真っ赤な勝負服が印象的なオペックホースという馬が、クラシックロードに名乗りを挙げた。鞍上は豪腕・郷原洋行である。道悪馬場の皐月賞は3番人気で、重上手のハワイアンイメージと激しく叩き合い、接戦の2着だった。ダービーはモンテプリンスに次ぐ2番人気で登場した。ゴールまで二頭は壮絶な叩き合いを続け、鼻差でオペックホースが制しダービー馬の栄冠を獲得した。この時点までは、オペックホースはこの世代の最強馬だったことは間違いない。
しかし夏を越し秋を迎えて以降、引退まで、オペックホースは一度も勝つことができなかった。それも惨敗である。勝たせたい一心の佐藤勇調教師と馬主は、ダートレースまで出走させた。やがてオペックホースは、障害レースに出るための飛越練習までさせられていた。ダービー馬が障害競走に転向するなど前代未聞である。佐藤調教師にはファンから激しい抗議が寄せられたという。こうしてオペックホースは平地戦で32連敗を続け、屈辱にまみれて引退した。生涯成績41戦4勝。オペックホースには「史上最弱のダービー馬」という不名誉な称号が与えられた。
オペックホースの父はアルサイド系リマンドで、晩成型のステイヤー血統である。母の父はハイペリオン系チューダーペリオッドで、これも中長距離を得意とする血統であった。作家で血統研究家の山野浩一は、このオペックホースの成績から、リマンドをステイヤーだが早熟型と書いている。リマンドの母の父が短距離系のパレスタインということから早熟型と推察したのだろう。
しかし私の見るところ、リマンドはパレスタインのスピードを活かし短距離戦でも活躍できるが、本来は底力のあるステイヤーであり晩成型であると思われる。その産駒アグネスレディとテンモン(強い牝馬だった)はオークス馬になり、タレンティドガールがエリザベス女王杯を勝った。皐月賞とダービーに2着したメジロモンスニーもいた(ミスターシービーが三冠馬に輝いた年である)。また南関東公営の三冠馬サンオーイも出た。典型的な底力のあるクラシック血統である。
私はオペックホースを見ていて気づいた。夏を越し秋になって、他馬の成長がオペックホースの能力を追い越したのではない。また馬は体調やレース展開、相手との力関係でのみ負けるのでない。おそらく彼の中から「闘争心」が消えたのである。彼の闘争心は皐月賞とダービーで燃え尽きたのかも知れない。しかしそれに気づかぬ人間たちが彼に競走を強い、その過程で彼の中の「自尊心」が傷つけられたのだ。
どんなに優れた能力を持っていても、闘争心を失い、自尊心を傷つけられた馬は凡走する。単なるスランプではないのである。それは一時期のオグリキャップやトウカイテイオーにも見られた。サラブレッドは繊細で、豊かな精神性を持った動物なのだ。
史上最弱のダービー馬と云う評価がたたり、オペックホースの種牡馬生活は惨めだった。しかし数少ない産駒からマイネルヤマトなどの活躍馬を出した。おそらく彼はリマンドの底力を伝える最良の後継種牡馬であったはずだ。しかし人間たちは、ついに彼を深く理解し得なかったのである。昨年の秋、オペックホースの死が伝えられた。
ちなみに私は若い頃、スペインのアルジェシラスからジブラルタル海峡を渡って、モロッコのタンジールという港町に着いた際、パスポートを取り上げられ、数人の兵士たちに背と脇腹に機関銃を突きつけられて拘束された。連れて行かれた先は留置場である。「ラバトのOPEC総会が終了するまで、お前はここから出られない」と告げられた。テロリストと疑われたわけではないが、私は五日間を南京虫のいる留置場で過ごした。OPECの懐かしい想い出である。
(この一文は2006年7月12日に書かれたものです。)
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