イベントを業としてきた者としては、「してやったり!」と思う時が最も嬉しい。自主企画もあるが、私の場合はクライアントや広告代理店からの依頼が大半であった。その依頼内容から、目的と、どうすればその目的を効果的に達成できるかを考えて企画をし、その企画意図通りにプランが決定して実施され、かつ予想以上の好評価を得たとき、「してやったり!」なのである。
さらにそのイベントの中に、クライアントや代理店の方たちにも、また一般にもほとんど知られていない優れものや、かつ本邦初のものを紹介できれば、喜びはひとしおである。
規模の大きいものから極々小さなイベントまで、年間約百件近いイベントを実施してきた。その中で「してやったり」と思うものは一件か二件に過ぎない。また決定に至らなかった企画だけの件数なら、実施イベントの三倍は超えただろう。
実はその決定に至らなかったイベント企画に、「あれをやっていれば面白かっただろうな」と、未だに愛惜の念を抱くものもある。仲間内で、「ボツ企画展」をやったら大受けするだろうと笑いあったこともある。
三十年も前のことである。A広告社から大規模な分譲地の販促イベントの企画を依頼された。もちろんA社の他に三社が参加するコンペである。イベントの提示予算も大きく、A社の担当部局と担当者も力が入っていた。クライアントは相模鉄道と相鉄不動産であった。企画に先立ち、すでにマーケティング調査が先行しており、その局から分厚い報告書が提示されていた。クライアントからのオリエンシートを元に、すぐに営業、マーケ、クリエイティブ(コピーライター等)、PR、SP等が集まり会議が始まった。当然私はSPの企画を担当することになった。
私は営業とSPの方とともに、すぐ緑園都市をロケハンに行った。分譲地は実に広大で、緑を剥ぎ取られた砂漠のような大地は、道路で区割りされ、もともとの地主さんであろうか、大きな数軒の家が点在するばかりであった。
マーケティング調査の資料や、オリエンシートにはこうあった。
分譲地は「緑園都市」であり、緑園都市駅は相鉄「いずみ野線」に開業して間もない新駅である。いずみ野線は相鉄本線の「二俣川」駅から「いずみ野」駅を結ぶ支線である。緑園都市は広大な分譲地であり、神奈川県・横浜市ばかりでなく、東京、千葉県、埼玉県、茨城県、山梨県にもアプローチしたい。つまり千葉・埼玉県などの遠方から首都圏に通勤されている方にとって、緑園都市から首都圏に通勤する時間はほとんどかわらないのである…。しかしマーケ調査の結果では、神奈川県では相鉄、二俣川は知られているが、いずみ野線の認知度は意外に低い。東京でも相鉄の知名度は高くない。いずみ野線、緑園都市の認知度はかなり低い。埼玉県、千葉県ではそれらの認知度はさらに落ち、いずみ野線も緑園都市も、知る人はほとんどいない。…
つまり有名にしなければならないのだ。
オリエンシートにはこう記してあった。「土日に大きな特設ステージを組み、有名アーティスト(例としてピンクレディや大物アイドル歌手、有名ポッブス歌手等)のコンサートを開催し、県外からも多くの集客を図り、緑園都市、いずみ野線、相模鉄道の認知度アップを図りたい。また分譲地を購入する親子連れも楽しめるキャラクターショーやファミリーイベントで、現地下見や現地事務所での相談会などに誘致したい。…」
つまり「緑園都市」は有名になりたいのである。いずみ野線も、相鉄線も県外にその名を知ってもらい、有名になりたいのである。私のコンセプトは決まった。「有名になりたい」である。
またピンクレディやアイドル歌手、有名アーティストのコンサートを開催しても、やってくるファンが分譲地の購入層には思えなかった。土日土日のイベントを二、三度やっても、「緑園都市」の知名度が一気に上がるとも思えなかった。
私の企画は決まった。
企画書の表紙をめくると、一頁を使って「緑園都市は / 有名になりたい」とだけ書いた。二頁目は「有名にしましょう!」である。
企画骨子は、土日土日のイベントではなく、二ヶ月間限定のキャンペーンであり、タイトルは「あの有名な緑園都市」キャンペーンである。
まず二ヶ月間限定で駅名を変更する、駅舎の看板も、プラットホームの駅名表示も変更し、特別切符を発行する。駅の案内放送も社内のアナウンスも変更する。電車の行き先表示ロールも変更し、期間限定のヘッドマークを取り付ける。
まず二俣川駅から出る「いずみ野線」の最初の駅名「南万騎が原」は、キャンペーン期間中は「ご存じ南万騎が原」とする。次が「あの有名な緑園都市」である。「あの有名な緑園都市」の次は「誰でも知ってる弥生台」とし、当時の終点「いずみ野」駅の名は「噂のいずみ野」である。
駅員さんも車掌さんも恥ずかしがらずに、この駅名をアナウンスし、連呼していただく。
「ご乗車ありがとうございます。次は『ご存じ南万騎が原』『ご存じ南万騎が原』、降り口は左側でございます…」
「次は『あの有名な緑園都市』『あの有名な緑園都市』…」
「『誰でも知ってる弥生台』『誰でも知ってる弥生台』」
「次は終点『噂のいずみ野』『噂のいずみ野』です。…」
電車に乗り合わせる女子中学生も高校生も、大人たちもクスッと笑うだろう、笑顔になるだろう。たちまち話題になるだろう、噂を呼ぶだろう。
私には自信があった。ペイドパブに多額の予算を取らなくても、「あの有名な緑園都市」になれる。大手の写真週刊誌、週刊誌、新聞、スポーツ紙、在京テレビ各局、各局のお笑い芸人がリポーターを務める情報番組、情報バラエテイ番組、そして鉄道ファンの雑誌などにニュースレリースを発出する。放っておいても相鉄、相鉄不動産の広報には問い合わせや取材がやってくる。鉄道ファンが必ず、全国からカメラを担いでやって来る。特別切符も売れる。
キャンペーン期間中の現地案内所を設置し、現地説明会や相談会も行う。キャンペーン最終週の土日は特設ステージを組んでコンサートをやる。ファミリー向けのキャラクターショーもやる。フワフワ大型遊具も置く。縁日もやる。
キャンペーン終了の後、駅名は元に戻されるが、後日に鉄道ジャンク市も開催する。特別ヘッドマークも行き先表示ロールも、プラットホームの看板も全て販売する。いずみ野線ばかりではない全相鉄の鉄道ジャンク市でもある。
これで、緑園都市は全国的に有名になる。いずみ野線も、相模鉄道も有名になる。
企画書をつくり、A広告社の会議で説明した。会議室は騒然となった。みな興奮状態で「面白い! これはいける!」と口を揃えた。担当部局の部長だけが懸念を表明した。「ふざけ過ぎではないか」
しかし、「あの有名な緑園都市」でブレゼンすることになった。
相鉄へのブレゼンは実に好感触であった。担当者は顔を輝かし、ほころばせた。ブレゼン後、外に出たA広告社の面々は握手し合った。「決まったな」という人もいた。
しかし結果、私たちは受注できなかった。相鉄の最終責任者である担当常務だか専務が言ったそうである。「ふざけ過ぎだ」
やはり「あの有名な緑園都市」はふざけ過ぎだったのだろうか。
実に残念であった。H堂が落札したらしい。その後のイベントを見ていたら、なあんだ、オリエン通りのものに過ぎなかった。駅と車内に近隣の子どもたちの絵画が掲出された。
あるとき、A広告社で新たな企画の会議があった。A社のメンバーはSP局のプロデューサー以外は初めての方たちであった。名刺を交換し挨拶すると、その方たちが私の顔を見ながら言った。「もしかすると、あの有名な…の…」
またある時、全く別の広告代理店から声がかかった。横浜でロケハンを兼ねて打ち合わせとなり、その担当者の方々と名刺交換をした。相手は私の渡した名刺と私の顔を見ながら言った。「もしかすると、『あの有名な緑園都市』という企画を書かれた方ですか?」
実はずっと後に知ったのだが、H堂の企画を担当したのは、私が親しくさせていただき、お世話になっていたプロデューサーでプランナーの方であった。その方に「あの有名な…」の話をすると、「なあんだ、その企画の方がずっと面白かったね。もしそれが実現していたら、きっとあんたも有名になっていたよ」
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