芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

めだか

2016年10月07日 | エッセイ
                                                                

 むかし茶川一郎という目が飛び出るように大きな喜劇俳優がいた。彼の名を聞くと、童謡の「めだかの学校」を思い出したものである。くだらない連想だが、めだか、目が大きく頭の上に飛び出すようについている、作詞者・茶木滋…。
 めだかの名の由来は、目が大きく、頭の上端に飛び出していることからくる。

 日本全国のゆるやかな小川や田んぼに生息し、小さく愛らしく、飼育も簡単なことから、古くから観賞魚として飼育されたきた。江戸時代後期に来たシーボルトが、「めだか」を初めて西欧に紹介した。今ではMedakaで通用するという。
 いま「めだか」は絶滅危惧II類に入れられている。危機の原因は、田んぼの農薬使用、水路整備と護岸工事…そして繁殖時にめだかが田の用排水路から水田内に入ることが難しくなったことが最大の原因とされる。めだかの産卵時期と水田に水が張られる時期は一致している。この可憐な小魚は稲作の文化と共存してきたのだ。
 めだかは、北日本集団と南日本集団に大別されるらしい。南日本集団は生息水域ごとに東日本型、東瀬戸内型、西瀬戸内型、山陰型、北部九州型、大隅型、有明型、薩摩型、琉球型の9種の地域型に細分されるという。
 めだかは流れのゆるやかな小川を好み、またすぐ身を隠せる水草があり、あるいは岸辺の草が水辺に垂れたような小川を好む。子どもの頃、家の裏の小川にはめだかがおり、夏は蛍が飛んだ。ゲンゴロウもミズスマシもカエルも普通にいた。

 さて、荻窪と言っても杉並ではない。小田原の荻窪である。童謡「めだかの学校」のモデルの地である。
 小田原市荻窪地区は、江戸時代は足柄下郡荻窪村といった。水田のない貧しい村で、村民はこの地に水を引いて水田を開きたいと思っていた。足柄上郡川村の百姓・川口広蔵が農閑期には行商として歩き回っていた。彼はまた、、大工も副業とし、足柄上郡の灌漑工事・瀬戸堰の建設にも参加していたことから土木工事の知識もあった。彼は荻窪村の人たちの話を聞くと、早川からの水路開削を決意し、それを近隣の村民にも説いて回った。
 広蔵は水路が通ることになる足柄下郡入生田村、風祭村、板橋村、水之尾村の村民も参加する五ヶ村共同事業として提案したのである。工事は天明二年から始まり、二十年後の享和二年に完成した。しかし洪水や堰の決壊、土砂の流入が多く、その維持には各村の負担が大きかったらしい。荻窪地区に広蔵の石碑があり、今でも彼岸の時には広蔵念仏が唱えられるという。
 茶木滋は明治43年(1910年)、神奈川県横須賀市に生まれた。本名は七郎である。中学生のころから「赤い鳥」「金の星」「童話」などに童話や詩を投稿する文学少年だった。明治薬学専門学校専(現明治薬大)を出て、製薬会社に勤めた。勤めの傍ら、童話や詩を書き、投稿も続けた。一部にはすでに茶木滋の名前は知られていた。
 ちなみに明治薬専ということは、「オウマ」「ウミ」の童謡詩人・林柳波の後輩になる。林柳波は明治25年生まれで、当時の明治薬学校を出た。スキャンダルに晒されていた日向きむ子と結婚した。林きむ子は大正三美人の一人として知られた。
 話を茶木滋に戻る。戦中、彼の勤めていた製薬会社の工場は、空襲を恐れて小田原に移転した。茶木はその工場の監督だった。茶木の家は小田原市の万年町にあった。その小田原も危うくなると、茶木一家は箱根町宮城野のバラックのような家に疎開した。一週間後に万年町の家は焼失した。その翌日が終戦である。

 戦後、食糧を確保するためにたびたび山を降り、買い出しに出た。昭和21年(1946年)のある日、滋は息子の義夫と買い出しのために山を降りた。二人は麦畑の道を歩き、荻窪用水のところに出た。用水周辺を歩くうちに、義夫がめだかを見つけ、「お父さん、めだかがいるよ!」と大声で滋の袖を引いた。滋が小川をのぞくと、もうめだかの姿はなかった。草の覆う水辺に隠れたのだろう。
「あんまり大声を出すんで逃げてしまったんだよ」と言うと、義夫は「大丈夫だよ、きっとすぐに出てくるよ、ちょっと待っていようよ」…
「ほら、出てきた…先頭が先生、後に続くのが生徒だよ。めだかの学校だね」と義夫が滋の顔を見上げて笑った。滋も子どもの頃に、同じようにめだかを見つけては、まるで学校のようだと思ったことがある。
 それから四年後の昭和25年、船橋に住んでいた滋のもとに、NHKから連絡が入った。彼が雑誌に書いた童話を放送したいというのである。
 その打ち合わせの際に、彼は童謡を書かせて欲しいと申し出た。担当者はしばらく考えてから、「春先に放送する明るい歌」ならと言った。
 滋は小田原の荻窪用水で息子の義夫と見た「めだか」を思い出し、「めだかの学校」を書いた。
 滋が作った詞は、NHKの番組で曲を担当する中田喜直のもとに、NHKを経由して届けられた。中田はその詞にピアノで曲を付けながら小声で歌っていた。

    めだかの学校は 川のなか
    そっとのぞいて みてごらん
    みんなで おゆうぎ しているよ

 すると、そばで聴いていた婚約者が言った。「そっとのぞいて みてごらん、のところを繰り返したほうが良いと思うわ」…「なるほど」中田はすぐ賛成した。繰り返しがないと8小節で曲が小さくまとまってしまう。
 当初、滋が作った歌詞には特定の歌詞の繰り返しはなかったのだ。中田は「そっとのぞいて みてごらん」「だれが生徒か 先生か」「水にながれて つーいつい」と繰り返す詞に変更し、曲を完成させた。
 しかし中田は当初、この「めだかの学校」がこんなに多くの人々に歌われ、親しまれるようになるとは思わなかったらしい。
 翌年3月、茶木滋作詞、中田喜直作曲の「めだかの学校」は、NHKラジオの「幼児の時間・歌のおけいこ」で発表された。翌月に「うたのおばさん」で安西愛子が歌った。また松田トシも歌っている。
 やがてコロムビアレコードから、安西愛子と杉の子こども会の歌唱でレコード化され、大ヒットし、「めだかの学校」は日本中で愛唱されるようになった。そして昭和29年、文部省芸術選奨文部大臣賞を受賞した。

   一
    めだかの学校は 川のなか
    そっとのぞいて みてごらん
    そっとのぞいて みてごらん
    みんなで おゆうぎ しているよ
   二
    めだかの学校の めだかたち
    だれが生徒か 先生か
    だれが生徒か 先生か
    みんなで げんきに あそんでる
   三
    めだかの学校は うれしそう
    水にながれて つーいつい
    水にながれて つーいつい
    みんなが そろって つーいつい

 ちなみに、以前「戦争と馬」という一文にも紹介したが、私は茶木滋が昭和15年に書いた童謡詩「馬」が好きだ。茶木滋の優しい眼差しが胸を熱くする。この詩にはまだ曲は付けられていないだろう。また曲が付いたとしても、悲しくて、誰も歌わないだろう。胸が痛むからである。

    馬はだまって
    戦争(いくさ)に行った
    馬はだまって
    大砲引いた。

    馬はたおれた
    御国のために
    それでも起とうと
    足うごかした

    兵隊さんが
    すぐ駆けよった
    それでも馬は
    もううごかない。

    馬は夢みた
    田舎のことを
    田ん圃をたがやす
    夢みて死んだ。

 馬が耕す田んぼの傍らを、温みはじめた小川が、ゆるやかに、ゆるやかに流れ、めだかの群れが つーいついと 泳いでいる…。

                                                               

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