芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

光陰、馬のごとし テスコガビー

2015年10月14日 | 競馬エッセイ

 間もなく日本の第70回オークスである。ダービーもオークスも英国に発祥する。オークスは1780年に創始されたダービーより一年早く始められた。創設者は第12代ダービー伯である。ダービー伯の別荘に樫(オーク)の巨木が繁り、樫の館、オーク屋敷と呼ばれていたことから、レース名はオークスと名付けられた。スピードとスタミナを要求される1マイル半で、3歳牝馬のナンバーワンが競われる。
 第1回の優勝馬はブリジッドといい、ダービー伯の馬であった。気を良くした彼は、競馬仲間のバンベリー伯に、1マイル(後に1マイル半になった)で最強三歳馬を決するレースの創設をもちかけた。レース名はコイントスで表が出ればダービー、裏が出ればバンベリーにすることにした。第1回ダービーはバンベリー伯のダイオメドが勝った。
 私の日本のオークスの記憶は第33回のレースからである。その時の優勝馬タケフブキは、そんなに強い馬とも思えなかった。やがて彼女の半弟タケホープが、ダービーと菊花賞でハイセイコーを負かした。良血馬だったのである。オークス優勝馬が単純に最強牝馬というわけではない。近年で言えば、桜花賞馬のダイワスカーレットや、桜花賞で彼女に敗れた後オークスを蹴って64年ぶりに牝馬のダービー馬となったウォッカは最強牝馬に値する。この同年生まれの二頭は、他の年度の牝馬と比較しても突出して強い。
 突出して強かった牝馬を何頭か挙げるとすれば、私はテスコガビー、リニアクイン、テンモン、メジロラモーヌ、エアグルーヴ、シーザリオ等の名を推したい。リニアクインはレースを目撃した際の印象の強烈さが脳裏にあるが、彼女はまたよく負けもした。ハードリドンの血は底力があると同時に、実に気まぐれなのである。シーザリオはアメリカン・オークス招待レースにも勝った御祝儀である。他にも強いという印象を持っているのはマックスビューティ、ヒシアマゾン、ベガ等がいるが、いずれも古馬となってから精彩を欠いた。またスティルインラブ、カワカミプリンセス等もいるが、彼女らも古馬となってから失速した。牝馬の闘争心は、ほぼ一年余りで燃え尽きるものと思われる。記録的には戦前のクリフジが、日本競馬史上、最強の牝馬と言えるだろう。クリフジはダービー、オークス、菊花賞を勝ち、11戦無敗で引退している。
 クリフジを例外とすれば、史上最強牝馬は桜花賞と第36回オークスを勝ったテスコガビーだろう。テスコガビーは静内の福岡巌牧場で生まれた。小さな牧場で、その年に生まれたのは 牝馬ばかり、たったの三頭だけだった。母のキタノリュウはたった1勝をあげただけの二流馬で、キーンドラー系という二流母系だった。母の父は狂気の馬、不吉な馬と言われたモンタヴァルである。モンタヴァルはフランス産でエプソムダービー二着、 キングジョージ&クィーンエリザベス・ステークス優勝の一流競走馬だったが、身喰いをする狂癖があり、そのため日本に売られたのである。モンタヴァルの半弟ムーティエも身喰いの狂癖があった。
 福岡巌牧場にテスコボーイの交配権が当たり、キタノリュウにかけられて彼女が誕生した。その子は骨格もがっしりとした漆黒の青毛で、堂々として落ち着きがあり、驚くことがなく、母馬に甘えることも少ない馬だったという。母馬から離れて走り回る 姿から、身体も柔らかく、俊敏であることもわかった。彼女の噂はあっという間に静内中に広がった。誰が見ても絶賛した。そして誰もが牡駒だと勘違いした。
 何人かの調教師が彼女を見に来た。みな「これは凄い」と言った。まだ海のものとも山のものとも知れぬ生後三ヶ月の子馬である。仲住芳雄調教師も見にやってきた。彼は一目見て「いただきましょう」と言った。その後しばらく惚れ惚れと眺めていた仲住師は、はじめて牝馬だと気づいた。牡駒だとばかり思っていたのである。
 不動産会社を経営する長島忠雄が馬主となった。彼の隣家にシャーチというスイス人の貿易商が住んでいて、そこにガビエル(ガブリエル)という女の子がいた。家族ぐるみの付き合いで、みな彼女をガビーちゃんと呼んだ。こうして長島の馬はテスコガビーと名付けられた。
 テスコガビーは青森の明神牧場で育成調教を受けた。彼女はどんな馬より図抜けて素晴らしかった。2歳春に東京競馬場に入厩するとたちまち評判となった。厩舎で見て垂涎し、調教を見て感嘆した。彼女は九月に東京競馬場でデビューした。鞍上に茂木為二郎厩舎所属の菅原泰夫騎手が乗ることになった。菅原は上手い騎手なのだが、これといった有力馬に恵まれることなく、実に地味な中堅騎手であった。宮城県生まれの純情朴直な菅原は、周囲からもファンからもヤッさんの名前で親しまれた。菅原はテスコガビーに跨った時、これでクラシックが獲れるかも知れないと思った。500キロの漆黒の青毛は素晴らしかった。
 デビュー戦は7馬身差の圧勝。「凄いですね」と菅原が言うと仲住師も大きく頷いた。2勝目を上げ、3戦目も6馬身差のレコード勝ちである。「肝のすわった牝馬だ」と誰かが評した。年が明けた京成杯四歳Sも牡馬のクラシック候補イシノマサルをあっさりと片づけて4連勝した。
 彼女は逃げ馬ではない。天性のスピード、絶対スピードで自然に先頭に立ち、直線でまた伸びるのである。いつも落ち着き払い、おとなしく、聡明で気性が良く、気品に満ちた、輝く漆黒の、堂々たる馬格の乙女だった。
 阪神の桜花賞に行く前に、仲住師は東京四歳Sを使うと言った。菅原は悩んだ。彼はこの時、茂木厩舎のカブラヤオーにも乗っていた。カブラヤオーはデビュー戦で2着した後は圧勝で3連勝し、この同じレースに出走を予定していた。茂木師は菅原の悩みを見抜いた。
「お前はガビーに乗らせてもらえ。今回はカブラヤオーは(菅野)澄男を乗せる」と言った。
「先生、すみません。そうさせてください」と菅原は頭を下げた。菅原は茂木厩舎の主戦騎手である。カブラヤオーに一時的に弟弟子の菅野が乗っても、皐月賞やダービーでは主戦騎手の自分が乗ることになるだろう。ところが他厩舎のテスコガビーを一度手放したら、有力な騎手に乗り替わって二度と菅原に戻ってこないだろう。
 テスコガビーとカブラヤオーの対決は、まさに夢の対決であった。二頭とも先行タイプである。菅原は菅野のカブラヤオーを先に行かせた。直線カブラヤオーが大きくよれて、危うくガビーにぶつかりそうになった。それから二頭の追い合いになり、インからテキサスシチーが迫った。結果はカブラヤオーが首差テスコガビーを押さえた。
 西下したガビーは阪神四歳牝馬特別をレコード勝ちした。例年なら桜花賞出走馬の半数近くを関東馬が占めるが、この年は出張馬が激減した。ガビーに負けると分かっていて出張する気にはなれなかったのだ。
 ガビーは桜花賞を大差でレースレコードで優勝した。関西テレビの杉本清は「後ろからは何も来ない! 後ろからは何も来ない!」と絶叫した。この時のタイムはしばらく破られず、また桜花賞で10馬身以上の差で勝った馬はいまだにガビーだけである。
 東京に戻ったガビーは体調を落とした。仲住師は4歳牝馬特別を使わず、体調を戻そうと考えていた。ところが馬主が4歳牝特にどうしても出したいと言い張った。そのレースでガビーは精彩を欠き三着に敗れた。その後オークスに向けてテスコガビーは再び充実し、闘志を漲らせた。オークスはガビーが自然と先頭に立ち、超スローペースで逃げた。直線に向くとガビーは加速した。ぐんぐんと後続馬を離し、8馬身差で圧勝した。ガビーにはモンタヴァルから受け継いだスタミナもあった。菅原は「テンよし、中よし、終いよし。全ての面で超一流です」と彼女を讃えた。その春、地味な騎手・菅原はカブラヤオーで皐月賞とダービーも圧勝し、春のクラシック四戦を総ナメにした。菅原はこの年から一流騎手の仲間入りをした。
 秋になってテスコガビーは、菊花賞かビクトリアカップを目指して調教していたが、ゲート練習中に後肢を負傷した。その怪我が治った頃、再び右後肢を捻挫してしまった。彼女はそのまま休養に入り、翌年の五月に復帰した。しかし六着に敗れた上、再び脚を痛めてしまった。仲住師はガビーをいったん明神牧場に戻した。彼は引退させようと思っていた。「ガビーの子でダービーを勝ちたい」と周囲にもらした。 長島オーナーが現役続行を強く主張した。ガビーなら有馬記念でも天皇賞でも勝てる。
 ガビーは復帰に向けて明神牧場でトレーニングを開始した。雪も舞い始めた秋の日、牧場を走り回っていたガビーが突然前のめりに倒れた。牧場のスタッフはガビーが骨折したのだと思い、青ざめて駆け寄った。彼女はすでに事切れていた。心臓麻痺だったのである。ガビーの遺体を長島オーナーは引き取りに来なかった。牧場スタッフが牧場の一角に埋葬し、目立たぬほどの小さな墓を置いた。数日後に長島オーナーが経営する不動産会社の倒産が伝えられた。モンタヴァルの血はやはり不吉だったのか。
 テスコガビーは、数多のテスコボーイ産駒の中でも、牝馬ながら一番テスコボーイに似ていたという。競馬評論家の大川慶次郎はテスコガビーを「バケモノ」と評した。他の評論家は「アマゾネス」と評した。またある人は「グラマーな美女」と言った。レースではいつも覆面(メンコ)を付けていたが、メンコをはずすと気性の良い可憐な馬だったという。血統評論家の白井透は「一滴でもよいからテスコガビーの血を残したかった」と、その死を惜しんだ。

           (この一文は2009年5月19日に書かれたものです。)
                 「光陰、馬のごとし1」に所収
                 


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4 コメント

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マルテンサイト変態千年グローバル (鉄鋼材料エンジニア)
2024-11-12 04:45:37
最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタイン物理学のような理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズム人間の思考を模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、トレードオフ関係の全体最適化に関わる様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな科学哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。こういうのは従来の科学技術の一神教的観点でなく日本らしさとも呼べるような多神教的発想と考えられる。
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科学と宗教の文明論的ダイナミクス (歴史国際政治学関係)
2024-11-18 19:13:04
一神教はユダヤ教をその祖とし、キリスト教、イスラム教が汎民族性によってその勢力を拡大させたが、その一神教の純粋性をもっとも保持し続けたのは後にできたイスラム教であった。今の科学技術文明の母体となったキリスト教は多神教的要素を取り入れ例えばルネサンスなどによりギリシャ・ローマの古代地中海世界の哲学なども触媒となり宗教から科学が独立するまでになった。一方でキリスト教圏内でも科学と宗教をむしろ融合しようとする働きにより、帝国主義がうまれた。宗教から正当化された植民地戦争は科学技術の壮大な実験場となり、この好循環により科学と宗教を融合させようというのである。その影響により非キリスト教圏で起きたのが日本の明治維新という現象である。この日本全土を均質化した市場原理社会する近代資本主義のスタートとされる明治維新は欧米などの一神教国が始めた帝国主義的な植民地拡張競争に危機感を覚えたサムライたちが自らの階級を破壊するといった、かなり独創的な革命でフランス革命、ピューリタン革命、ロシア革命、アメリカ独立戦争にはないユニークさというものが”革命”ではなく”維新”と呼んできたのは間違いない。しかしその中身は「革命」いや「大革命」とでもよべるべきものではないだろうか。
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海外での話 (元金属商事関係)
2024-11-18 19:20:22
それにしても古事記はすごいよな。ドイツの哲学者ニーチェが「神は死んだ」といったそれよりも千年も前に女神イザナミ神についてそうかいてある。この神おかげでたくさんの神々を生まれたので日本神話は多神教になったともいえる。八百万の神々が出雲に集まるのは、イザナミの死を弔うためという話も聞いたことがある。そしてそこから古事記の本格的な多神教の神話の世界が広がってゆくのである。私の場合ジブリアニメ「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」「天空の城ラピュタ」などのの感想を海外で日本の先進的な科学技術との関連をよく尋ねられることがあった。やはり多神教的雰囲気が受けるのだろうか。
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日本らしさ (抜刀隊リスペクト)
2024-11-18 19:22:35
日本が大東亜戦争を戦った理由、それは自存自衛とアジアの解放に他なりません。戦後、タイ王国のククリット・プラモード首相は、

 「日本のおかげで、アジアの諸国は全て独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日東南アジアの諸国民が、米英と対等に話ができるのは、一体誰のおかげであるのか」

 と書き記しています。この言葉が、あの戦争が何であったか、そのすべてを表わしているで
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