
現代の国際的な憲法思想、人権思想の元となった「自由論」を書いたJ.S.ミル。彼は吉田松陰とほぼ同世代である。
権力の根拠となっている「人民の意志」が、実際には「多数者の意志」に過ぎず、もし歯止めを設けなければ、その権力によって「多数者の暴虐」が発生する。「多数者の暴虐」は少数者に対する抑圧だけに止まらない。「権力を選んだ多数者」と「多数者によって選ばれた権力」は同一の存在ではないので、権力による暴虐は往々にして多数者にも向けられる、とミルは考えた。
ミルによれば、権力というものは、例えそれが国民の厳粛な信託に由来するものであったとしても、絶えず歯止めをかけていく必要があると言うのだ。この「権力の手足を縛る歯止め」が重要なのである。
「…支配者が社会の上に行使することを許された権力に対して、制限を設けること」、その制限こそ市民の「自由」を保証するものなのであり、「政治的自由または権利と呼ばれる、ある種の責任免除を承認させること」で、もしも支配者が「これらの責任免除を侵害したならば、特定の反抗または一般的反乱が容認されうること」とミルは書いた。後にこれは「憲法による抑制」として確立された。
つまり本来憲法とは、権力者らに「これをしてはいけない」「これを破ってはいけない」という「抑制」として確立されたものである。さらに憲法は、その社会の「理念」「理想」を謳ったのである。もう「戦争はしない」は理想である。「平和」は人類の理念である。「基本的人権が守られる」は当然の理念である。
かつてカントが唱えた「永遠平和のために」は理想である。ウッドロー・ウィルソンはそれを国際連盟に政治化し、理想主義者と呼ばれた。それらは確かに理想であり、また確かに脆かったが、哲学者が、指導者が、政治家が、理想や理念を語らずにして何を語るのか。バリ大学の入試論文に出されそうである。「人を理想主義過ぎると言って批判することは正しいか、論ぜよ」
憲法にはその国の理想や理念を語り、その下に、歪曲や拡大解釈ではない現実的な法や条例、実務的要項、段取り、手順を整備することだろう。
理想や理念が、退嬰的な・祭政一致などを謳うナンタラ会議に唆され、王政復古的、太政官令的後退、大日本帝国憲法的な改変など、世界のもの嗤いだろう。
安倍夫人が感銘した幼稚園児による「五箇条の御誓文」暗唱だが、あれは三条・岩倉等の宮廷クーデター派が、女官に囲まれて育った幼弱な十五歳の少年を抱え、取り急ぎ作文したものである。岩倉などは遣欧使節団の船中で「そうそう、そんなものも作ったなあ」「あったあった」と笑い合っている。
幼稚園児による「五箇条の御誓文」「教育勅語」暗唱は、まるで北朝鮮の園児たちだ。現為政者たちはいったい何を目指しているのか? ちなみに日本の右翼が縁あって北朝鮮の平壌に行って感じたことは、平壌に「天皇御親政の理想を見た」であった。
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