自由という目的地へ

それはどこにあるのだろう
多くの血を流したどり着く地か
それとも
悟りの果ての 神の胸の中か

正義という くさび

2015年07月27日 | Meditation 瞑想

それは 間違っている

それでは 駄目だ



心の中に

そんな 電気信号が
強烈に 走り回る


今日も 目の前に 展開する世界の

善悪を裁き

苛立ち 怒る




心の動きに

気づきを 向けろ





Dalis Car - Subhanallah - InGladAloneness - 2012






「恐怖」から

「怒り」が生まれた



「怒り」は

「正義」という 名前を持つと



この世界という 幻想の中で

戦いを 始める







正義のために

命を捨てて 戦う




正義を 守るために


何度でも この世界に

生まれる




正義を 守ることが

いつからか


自分を この世界に

縛り付ける くさびとなっている






ー   奇兵隊 論示

 
  強き百万といえどもおそれず

  弱き民は 一人といえども おそれ候事

  武道の本意といたし候事







自分を捨て
他の救済のために生きる

菩薩行を 歩む人々




しかし

その正義には
自己中心的な要素

自我意識が
まだ 多大に 含まれている




自己満足

自己顕示欲

自分が必要とされる幸福

崇拝される幸福

自我の確立

自我の現実化




そんな 不純物が
まだ 含まれている



菩薩像は
装飾品を 身にまとう

菩薩には
まだ 自己を飾り
この世界で自我を確立しようとする欲が
残っているから





解放という名のもとに
大量殺戮を行う 共産主義者も


聖なる教えを守るために
非道邪道を尽くす イスラム国兵士も






自己の不純物を
含んだ 正義を

この世界で 果たそうとしている






自分の 中にある

正義という
意志を 願いを

少しづつ 手放そう




自我が 含まれている
正義ではなく


自我を含まない

純粋な
神の 愛に

帰ろう


















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