高次脳機能障害について面白い本を紹介してもらいました!
日々コウジ中
続・日々コウジ中
著者:柴本礼
出版社:主婦の友社
コミックです。作者である柴本礼さんのご主人がくも膜下出血で倒れ、一命は取り留めたものの重度の障害、それも高次脳機能障害を抱えて生活するようになった日々のあれこれをユーモラスに描いています。可愛いシンプルな画風で、読み口も重くなくて大変面白いですが、内容はリアリティーに溢れています。そりゃ、もう、父親が重度の高次脳機能障害を持っていた私が言うんですから、間違いありません(笑)。
高次脳機能障害といってもピンとこない人も多いと思うので、ざっと噛み砕いて言いますと、脳卒中脳の外傷によって残る事が多い障害です。身体の麻痺や言葉が不明瞭になるというような目に見える障害ではなく、記憶障害や言葉の障害(失語)、集中出来なくなったり集中が続かなかったりする注意障害、土地勘や場所の理解が出来なくなる地誌障害、泣いたり笑ったりの感情のコントロールが難しくなる障害、同じ事を繰り返したり執着したりする保続やら、その他もろもろ、ありとあらゆる症状を言います。
うちの父は記憶の喪失(特に結婚後の記憶は全部すっとんだ)、新しい記憶がなかなか入らない、感覚失語(べらべらしゃべるけど、物の名前がまったくちがったり動詞も違う動作を言ったりするので、何が言いたいのかさっぱりわからない)、左右失認(右と左の区別がわからない)、失書(字を忘れてしまって書けない)、失算(簡単な足し算引き算もわからない)、作話(話相手に適当に話を合わせているうちに、まったくでたらめなことをまことしやかに言う。それも本人は悪意も作意もない)、感情失禁(些細なことで号泣する、もしくは面白いことも泣いてしまう)、難しい事が考えられない、など高次脳機能のオンパレードでありました。おかげで自分がOTを目指して勉強している時には、「おお、これがアレか!」と非常によく理解できました(笑)。うちの父の場合はその障害に加えて、皮質盲(脳の視覚を司る場所の損傷によって失明)があったので、社会復帰もクソもあったものではありませんでした。が、まあ、周囲の協力もあり~ので、寝たきりになるまでの13年間で少しずつ成長し、それなりに楽しい日々を送っていたのではないかと思ってはおります。
さすがに寝たきりになった時は、私も母も「あ~あ、13年間のリハビリの努力が水の泡と化したのぉ……」とため息をついたのではありましたが。
柴本さんちのコウジさんもうちの父のケースと非常に良く似ていて、でも体の障害がない分、ご家族は大変だろうな~と。幸か不幸か、うちは目が見えなかったので一人でうろうろする事はあまりありませんでしたから、迷子にはならなかった(笑)。
在宅で介護とかリハビリとか、口で言うほど簡単なものじゃないんです。本人は意外にぽか~んとしているので(それが障害なんですが、本人の精神的負担を考えると、ある意味その方が幸せなのかもしれません)、言っちゃなんですけど、ま、いいんです。病気という意識もほとんどないし。でも、家族は、ねぇ~~~~。
言っちゃなんですけど、簡単に「良かったわね、生きてもらっているだけでも感謝しなくちゃ」とか、「なんて可哀そうなんでしょう。負けないで頑張ってね!」とか、可哀そうがって励まさないでほしいと思ってましたね。家族はとにかく、毎日いかにしていらだちと良心とをコントロールしながら生活するか、どうやって生活を維持するか、どうやってそれぞれの生きる道を模索するか、必死なんですから。そこには綺麗事や建前では片付かない現実があって、その現実と共存していくために日々葛藤しています。
もっとも当時はとにかく何事も一生懸命に生活して、結構色んな出会いや経験もして、楽しく充実した生活だったんですよ。今の私があるのはやはりそういう生活がベースにあったからだし。
柴本さんちの暮らし向きを読むにつれ、当時の記憶がふつふつと蘇ってくるのです。うちと似てるな~と思いました。
色んな大騒動も、父が他界した今となっては懐かしいことばかりです。が、そう思えるのもまたうちの家族が日々一生懸命生きてきたからだよな~と自然に思えるのでありました。
柴本さんちに幸多かれ!
柴本礼ブログ 日々コウジ中
日々コウジ中
続・日々コウジ中
著者:柴本礼
出版社:主婦の友社
コミックです。作者である柴本礼さんのご主人がくも膜下出血で倒れ、一命は取り留めたものの重度の障害、それも高次脳機能障害を抱えて生活するようになった日々のあれこれをユーモラスに描いています。可愛いシンプルな画風で、読み口も重くなくて大変面白いですが、内容はリアリティーに溢れています。そりゃ、もう、父親が重度の高次脳機能障害を持っていた私が言うんですから、間違いありません(笑)。
高次脳機能障害といってもピンとこない人も多いと思うので、ざっと噛み砕いて言いますと、脳卒中脳の外傷によって残る事が多い障害です。身体の麻痺や言葉が不明瞭になるというような目に見える障害ではなく、記憶障害や言葉の障害(失語)、集中出来なくなったり集中が続かなかったりする注意障害、土地勘や場所の理解が出来なくなる地誌障害、泣いたり笑ったりの感情のコントロールが難しくなる障害、同じ事を繰り返したり執着したりする保続やら、その他もろもろ、ありとあらゆる症状を言います。
うちの父は記憶の喪失(特に結婚後の記憶は全部すっとんだ)、新しい記憶がなかなか入らない、感覚失語(べらべらしゃべるけど、物の名前がまったくちがったり動詞も違う動作を言ったりするので、何が言いたいのかさっぱりわからない)、左右失認(右と左の区別がわからない)、失書(字を忘れてしまって書けない)、失算(簡単な足し算引き算もわからない)、作話(話相手に適当に話を合わせているうちに、まったくでたらめなことをまことしやかに言う。それも本人は悪意も作意もない)、感情失禁(些細なことで号泣する、もしくは面白いことも泣いてしまう)、難しい事が考えられない、など高次脳機能のオンパレードでありました。おかげで自分がOTを目指して勉強している時には、「おお、これがアレか!」と非常によく理解できました(笑)。うちの父の場合はその障害に加えて、皮質盲(脳の視覚を司る場所の損傷によって失明)があったので、社会復帰もクソもあったものではありませんでした。が、まあ、周囲の協力もあり~ので、寝たきりになるまでの13年間で少しずつ成長し、それなりに楽しい日々を送っていたのではないかと思ってはおります。
さすがに寝たきりになった時は、私も母も「あ~あ、13年間のリハビリの努力が水の泡と化したのぉ……」とため息をついたのではありましたが。
柴本さんちのコウジさんもうちの父のケースと非常に良く似ていて、でも体の障害がない分、ご家族は大変だろうな~と。幸か不幸か、うちは目が見えなかったので一人でうろうろする事はあまりありませんでしたから、迷子にはならなかった(笑)。
在宅で介護とかリハビリとか、口で言うほど簡単なものじゃないんです。本人は意外にぽか~んとしているので(それが障害なんですが、本人の精神的負担を考えると、ある意味その方が幸せなのかもしれません)、言っちゃなんですけど、ま、いいんです。病気という意識もほとんどないし。でも、家族は、ねぇ~~~~。
言っちゃなんですけど、簡単に「良かったわね、生きてもらっているだけでも感謝しなくちゃ」とか、「なんて可哀そうなんでしょう。負けないで頑張ってね!」とか、可哀そうがって励まさないでほしいと思ってましたね。家族はとにかく、毎日いかにしていらだちと良心とをコントロールしながら生活するか、どうやって生活を維持するか、どうやってそれぞれの生きる道を模索するか、必死なんですから。そこには綺麗事や建前では片付かない現実があって、その現実と共存していくために日々葛藤しています。
もっとも当時はとにかく何事も一生懸命に生活して、結構色んな出会いや経験もして、楽しく充実した生活だったんですよ。今の私があるのはやはりそういう生活がベースにあったからだし。
柴本さんちの暮らし向きを読むにつれ、当時の記憶がふつふつと蘇ってくるのです。うちと似てるな~と思いました。
色んな大騒動も、父が他界した今となっては懐かしいことばかりです。が、そう思えるのもまたうちの家族が日々一生懸命生きてきたからだよな~と自然に思えるのでありました。
柴本さんちに幸多かれ!
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