今さらだが、私は作業療法士を生業としている。まあ、長年兼業主婦で非常勤、そして一人職場でやっているのであんまり大きな声で自慢できるような職歴のOTではないが、それでも一応私のメインの収入源はOTとしての収入であるし、これからもこの仕事をしていくつもりをしているので、作業療法士として名乗っても許されるかな? などと、思う。
仕事の内容はというと、一言で言うとリハビリテーション。世間の「リハビリ」のイメージはやっぱり「白衣を着て、マッサージしたり、身体動かしてくれたり、歩く練習を指導する人」なのだろう。もちろん、白衣を着る事もあるし、マッサージもするし、手足を動かして関節運動を促しもするし、歩行練習の指導もしている。私は一応OTなので、着替えの練習や食事の時の手の動きや姿勢の保持のアドバイス、衣服や日用品のちょっとした改造、生活環境のアドバイス、そんなこともする。そして、時によっては芸人や浜村淳ばりの司会者になったりもする。
作業療法士の仕事場と言えば、それぞれの専門分野によっても違うが、身体障害分野(今はこんな分類はしないかもしれないけど)の療法士は病院のリハビリテーション科がもっぱらの職場というイメージは一昔前の話。今は多くの療法士が訪問看護ステーションに所属して、訪問リハビリテーションに従事している。またデイケア(通所リハビリテーション)やデイサービス(通所介護施設)などという職場もある。
私はここ数年はデイサービス中心で仕事をしているが、ほそぼそと訪問リハビリテーションも続けている。今は老人ホームに入所している利用者さんを担当している。
老人ホームに入居している高齢の、それも心身にトラブルを抱えた利用者さんのリハビリは、一見、不毛だ。何をどうやっても歳には勝てない。一年経てば加齢が進む。加齢が進めば能力も落ちる。それをとどめることはできない。何を目的にリハビリをしているのかわからない。そんな思いに翻弄されたこともある。
でも最近、一つの確信を持って仕事をしている。
それは綺麗な最期を迎えてもらう事。
認知症になり、骨折なんかをして、ねたきりになっても案外すぐには死ねない。寝たきりになったまま、数年を過ごす人が多い。その数年、放っておけば全身がカッチカチになる。関節は曲がらなくなり、心の活動もカッチカチになる。そうして寿命が尽きて亡くなったら棺桶にいれるのも大変なことになる。
納棺の現場に立ち会う事はないが、以前、聞いた事がある。
ねたきりで指まで固まっているご遺体は、指を組ませる時に指の骨を折る。
ぎゃ~~~~~~~~~~~。やだ~~~~~~~~~~~。
いくら亡くなったからって、そんな事されるのは絶対やだ。
そう思った時に、それが一つの目標になった。綺麗な姿で最期に臨んでもらう。ねたきりであっても出来るだけ関節が動くように、特に顔の表情筋が保たれるように、「この世も捨てたもんじゃない」と微笑みながら旅立てるように。
それは身体機能の回復ではない。でもリハビリテーションの広義の意味「全人間的権利の回復」という意味では充分に意味のある事だと思う。死んでからも人としての尊厳を守りたい。ご家族の心に、介護者として頑張ってきたヘルパーの働きに報いるためにも必要な事だ。究極のターミナルケア。終末期のリハビリテーション。そんなかたい言葉でなく、充分に生きて、綺麗に死ぬお手伝い。死にざまのための生きざまのお手伝い。そんな感じだろうか。
それが今の私の仕事。
仕事の内容はというと、一言で言うとリハビリテーション。世間の「リハビリ」のイメージはやっぱり「白衣を着て、マッサージしたり、身体動かしてくれたり、歩く練習を指導する人」なのだろう。もちろん、白衣を着る事もあるし、マッサージもするし、手足を動かして関節運動を促しもするし、歩行練習の指導もしている。私は一応OTなので、着替えの練習や食事の時の手の動きや姿勢の保持のアドバイス、衣服や日用品のちょっとした改造、生活環境のアドバイス、そんなこともする。そして、時によっては芸人や浜村淳ばりの司会者になったりもする。
作業療法士の仕事場と言えば、それぞれの専門分野によっても違うが、身体障害分野(今はこんな分類はしないかもしれないけど)の療法士は病院のリハビリテーション科がもっぱらの職場というイメージは一昔前の話。今は多くの療法士が訪問看護ステーションに所属して、訪問リハビリテーションに従事している。またデイケア(通所リハビリテーション)やデイサービス(通所介護施設)などという職場もある。
私はここ数年はデイサービス中心で仕事をしているが、ほそぼそと訪問リハビリテーションも続けている。今は老人ホームに入所している利用者さんを担当している。
老人ホームに入居している高齢の、それも心身にトラブルを抱えた利用者さんのリハビリは、一見、不毛だ。何をどうやっても歳には勝てない。一年経てば加齢が進む。加齢が進めば能力も落ちる。それをとどめることはできない。何を目的にリハビリをしているのかわからない。そんな思いに翻弄されたこともある。
でも最近、一つの確信を持って仕事をしている。
それは綺麗な最期を迎えてもらう事。
認知症になり、骨折なんかをして、ねたきりになっても案外すぐには死ねない。寝たきりになったまま、数年を過ごす人が多い。その数年、放っておけば全身がカッチカチになる。関節は曲がらなくなり、心の活動もカッチカチになる。そうして寿命が尽きて亡くなったら棺桶にいれるのも大変なことになる。
納棺の現場に立ち会う事はないが、以前、聞いた事がある。
ねたきりで指まで固まっているご遺体は、指を組ませる時に指の骨を折る。
ぎゃ~~~~~~~~~~~。やだ~~~~~~~~~~~。
いくら亡くなったからって、そんな事されるのは絶対やだ。
そう思った時に、それが一つの目標になった。綺麗な姿で最期に臨んでもらう。ねたきりであっても出来るだけ関節が動くように、特に顔の表情筋が保たれるように、「この世も捨てたもんじゃない」と微笑みながら旅立てるように。
それは身体機能の回復ではない。でもリハビリテーションの広義の意味「全人間的権利の回復」という意味では充分に意味のある事だと思う。死んでからも人としての尊厳を守りたい。ご家族の心に、介護者として頑張ってきたヘルパーの働きに報いるためにも必要な事だ。究極のターミナルケア。終末期のリハビリテーション。そんなかたい言葉でなく、充分に生きて、綺麗に死ぬお手伝い。死にざまのための生きざまのお手伝い。そんな感じだろうか。
それが今の私の仕事。
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