daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

座の文芸の壁(5/5)

2014年10月20日 | 詩篇
             

俳句の原点はなんだろうか? 句会の原点はなんだろうか?

気の合うもの同士で集まってお茶呑んで饅頭食べて唄って踊って楽しくやって、そうした面白い雰囲気で五七五して笑い合って、そんな仲間は心許せていい。それこそが原点だと‥そういう人がいても当然いい訳で、だからといってそれを座の文芸の原点とするのは如何なものだろうか。その理屈がとおるならスサノオが肩で風切って歩くじゃないか。

古い伝統があるから良い訳じゃない、目的観を持たない座にどれだけの価値があるか。いや、高い目的をもたない座がどんなに害悪をなすだろうか!社会に害悪を為し、人に害悪を為し、未来に害悪を引きずらせてしまう。面白ければいいとばかりに無責任な運営の座を続けては日を追い年を追うごとに集団も構成員も社会もどんどん荒れていくんだ。

幼稚園は楽しいことばかりだった‥だからって幼稚園が教育の原点という訳にはいかない。幼稚園は教育のワンステップで、毎時毎日毎月毎年がワンステップで、いくら楽しくてもそこは留まる場所でない。やんちゃ坊主のスサノオは許せても齢食って悪さするスサノオが許されないのは当然で、おなじく句座も初歩のままに留められては劣化するのさ。

人は高い目標に向かうときに輝くことができて、目標がないと‥たとえば部屋に大事に仕舞いこまれた日にゃ、誰でも腐ってしまうのは知ってるだろ? しかも低いのは目標の意味がない。寝たままで手が届く饅頭を食べたからって目標にならない。だから一仕事終えて食べる饅頭は仕事終えなきゃ食べられないから目標に出来るってのはもう常識だ。

座の文芸の当面の目標はレベルアップかも知れないが、真の目標は芭蕉を超えた先の先、遥か遠くの先にある。その高い目標を設定できなきゃ浮かれ騒いで飲み痴れる狂態をさらすことになるのは私たちの先達の愚かな振る舞いが証明しているのは誰でも知っているのであり、彼らがいくら勿体ぶっても廃れて荒れて、心まで荒廃することに決っている。

何のための文芸か? これは句座に限らない。生活のあらゆる場面で必要となる心を養うための修練であり修養であり教養であり教育であって、詩心が未熟なままでは訓練を受けていない犬‥むやみに吠えたり噛みついたり暴れる犬は皆に迷惑をかける結果・人に迷惑をかけて疎まれる‥そんな不幸な目に遭わせたくない詩心を皆も具える‥分かるかな。

俳句ごときではあるけれど、されど俳句が人を救い社会を救う原動力ともなる。一瞬で越えられる壁だがあなたに掛った呪いが壁になっていると言えばいいのか‥呪いから覚めなければ業苦の淵に喘ぐしかないのだねえ‥断言するよ。

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