(引用文)
嵐の夜が明けかかった。 雨戸を細目にあけて外をのぞいて見ると、塀は倒れ、軒ばの瓦ははがれ、あらゆる木も草もことごとく自然の姿を乱されていた。 大きな銀杏(いちょう)のこずえが、巨人の手を振るようになびき、吹きちぎられた葉が礫(こいし)のようにけし飛んでいた。 見ているうちに、奇妙な笑いが腹の底から込み上げて来た。 そうして声をあげてげらげら笑った。 その瞬間に私は、天と地とが大声をあげて、私といっしょに笑ったような気がした。 (大正十年八月、渋柿)
(大正十年八月号掲載文を読んで)
寅彦、きみはいったい全体、どうしたと云うのですか。
奇妙な笑いが腹の底から込み上げて来たって言うのか。
声をあげてゲラゲラ笑ったって云うけど、正常ですか。
その自嘲気味でヒステリックに聞える笑いは何なんだ。
きみが住む世界は嵐に見舞われてひっくり返っている。
その惨状は天地が気が済むまで暴れ回ったと云うのか。
それなら天地は何が気に入らなかったと云いたいのか。
それはさて置き、きみは天地と同じ思いで笑ったんだ。
結局、きみの気に迎合して天地が暴れたと受取りたい。
そうすると何かね、きみは幾重もの裏切り者になった。
学士院賞恩賜賞を受取りながら世界をひっくり返して、
そこに住む罪なき民を苦しめ・誤魔化している重い咎。
きみに期待して世に送り出した父の恩を踏みにじった。
きみに期待してこの世に産んだ母の恩を踏みにじった。
きみの才能を引き出した師や先達の恩を踏みにじった。
きみにチャンスをくれた命の根源の恩を踏みにじった。
きみは己の立場の重みも責任も、解ってないのだろう。