(引用文)
油画をかいてみる。 正直に実物のとおりの各部分の色を、それらの各部分に相当する「各部分」に塗ったのでは、できあがった結果の「全体」はさっぱり実物らしくない。 全体が実物らしく見えるように描くには、「部分」を実物とはちがうように描かなければいけないということになる。 印象派の起こったわけが、やっと少しわかって来たような気がする。 思ったことを如実に言い現わすためには、思ったとおりを言わないことが必要だという場合もあるかもしれない。 (大正十年七月、渋柿)
(大正十年七月号掲載文を読んで)
疚(やま)しい所がなければ、誰も「言い訳」なんかしない。
寺田寅彦が言い訳したなら、それなりの必要を感じたのです。
たとえば「良心の呵責に耐えかねて」なら反省の姿勢を示す。
あるいは「惚けてみせた」なら無責任な野郎だという事です。
それとも「分ってやった」なら、それは狡い居直りでしょう。
「思ったとおりを言わないことも必要」と寅彦は述べている。
この『ひとこと』に寅彦の複雑な気持ちを籠めたとも取れる。
が、百歩譲っても寅彦の屁理屈を弁護することは不可能です。
言い訳の引合いに出した抽象画が先ず、論理に適っていない。
抽象画は思ったまま・感じたままを絵筆に託して描くのです。
正直に・素直に描く抽象画ですし、他人に媚びない姿勢です。
すなわち、寺田寅彦は詩人ではないと論理づけられるのです。
詩人は科学的に観察し、論理的に思考して、真実を表現する。
絵画もそれは同じで、詩人として真実を見極め、絵筆に託す。
一方、寅彦は「思ったとおりを言わない」から詩にならない。
詩人は自然を愛し、他者を慈しむ思想を己が心に涵養します。
詩心を理解しない者は利己心を脹らませながら暮す事になる。
利己者が「必要」という時、それはあくまで利己目的である。
利己目的を「そつなく」書いて、世間を欺こうと考える者は、
「由らしむべし・知らしむべからず」と考えるかも知れない。
私が現在までに目にした数少ない寅彦の文は、当に証明する。
それが真実ならば、民衆蔑視の彼は尾を振ってくる者を喜ぶ。
今は私が知らない寅彦の文が全てを打ち消すことを期待する。