詩形には叙事詩・抒情詩・叙景詩などもあって、だがこれ等とて詩篇の部分に成り得ても詩篇に取って換われる訳はなく、すなわち私のなかで重要な意味を持つ位置にはない。全体観に立って詠う詩篇を更に超越する形態が現れたときは当然優れたものにスタンスを移すべきであり、だが今は詩篇(全体観)のなかで格別優れた形を探るのが現実的な選択肢だろう。
手初めは詩篇同士の比較の基準になるべき私の詩篇のレベル・大きさを観よう。私の詩篇の出来ばえは私の能力に依るものであって私の能力を上まわる物でなく、また私の能力を下回る物でもない。私の能力は一往時間的にも空間的にも有限の範囲に及ぶ微々たるものと云うべきだが、よくよく鑑みるにそうとばかり強ちに決めつけられない。
そしてそれが真実ならば私の能力と他者の能力をどう比較すべきだろうか? 強いて差別してもそれは能力以外の部分で比較した結果に依るゆえに正確な判断は期待できないことになる。平等・公平にしようにも人事であれば平等・公平を期することはそもそも不可能であって、正確性を追究する意気込みは尊重しても真実性はなくて、結局現実的になるしかない。
なるほど、人間の才能は無限であると証明できないまでも無限なのではないかという期待感を持てそうにも想える。それほど素晴しい人間であればどのような実績があるか大いに興味が湧くが、その例として私には二つの長編詩篇がすでに提示されているように思われる。すなわち旧約聖書と仏教経典の東西の知性が著わした詩篇を挙げることになる。
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