daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

芥川龍之介

2011年06月09日 | 小さな本箱

カテゴリー『蜘蛛の糸』の縁続きで此処に書いておきます。


短編「蜘蛛の糸」は犍陀多を地獄から救おうとする話です。

犍陀多は凶悪で、生前多くの人を虫けらのように殺します。

只、犍陀多は一匹の蜘蛛を見逃してあげたことがあります。


寿命が尽きた後、犍陀多は地獄に堕ちて苛まれ苦しみます

御釈迦様は地獄にいる犍陀多の前に蜘蛛の糸を垂らします。

これは犍陀多に蜘蛛の糸を登ってらっしゃいという訳です。


犍陀多ほか・亡者たちが蜘蛛の糸に取り付いて這い上がる。

クライマックスで蜘蛛の糸は切れ、犍陀多たちは落下する。

切れる直前、犍陀多は後からくる亡者たちに下りろと喚く。



★犍陀多について芥川龍之介の重要証言は次のとおりです。

「人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥坊」



★犍陀多が喚いたフレーズ部分も次下に引用しておきます。

「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己(おれ)のものだぞ。

 お前たちは一体誰に尋(き)いて、のぼって来た。下り

 ろ。下りろ。」と喚きました。



★重要な証拠物件 : 犍陀多に見逃してもらった蜘蛛の存在

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

過去、

蜘蛛の糸が切れた真の原因を述べた人はいないようです。

それどころか、作者・芥川龍之介も答えは判らなかった。


それで

蜘蛛の糸が切れた訳、具体的に述べておきたいと思います。



三途の川を境にして、あちらは彼岸、こちらを此岸に譬えます。

此岸だの彼岸だのと、この物語は小乗教から借文して展開します。

此岸から彼岸へわたる…すなわち生き物はかならず往生します。


三途の川を亡者たちはどのようにして渡れば良いのでしょうか?

ともかく三途の川を無事に渡ったらもう「シメタモノ」でしょう。

すなわち、地獄へ堕ちるほどの者たちは三途の川を渡れる訳がない。


三途の川に嵌まってブクブク沈んで苦しみうめいて地獄へ直行する。

なぜかというと、なにしろ三途の川の渡し舟には船底がありません。

船底が無ければ…知識をお持ちのあなたの身体は落下するしかない。


三途の川の渡し舟…蜘蛛の糸バージョンを摸作したと考えてもいい。

芥川龍之介は蜘蛛の糸を辿って極楽へと誘導する救済策を考案した。

この小乗教的ないじましい発想はあまりに哀れに思われて憎めない。


地獄に堕ちた母を杜子春を借りて救いだそうと試みたような、

龍之介は恋慕する母を心の底において暮らしていたのかも知れない。

それにしても蜘蛛の糸は誰か一人でも救うことが出来たのだろうか。


過去『蜘蛛の糸』を読んで批判した知識人はあったかも知れないが、

『蜘蛛の糸』を論じる人群の「無駄むだ」と叫ぶ様こそは屋上屋か、

しかもそこに知恵を得て慈悲に至った知識人の存在を私は知らない。


三途の川の底なし舟を受入れるゆえに、蜘蛛の糸の発想も受入れる、

着目すべきは極楽に蜘蛛の存在を受入れるか否かなのですが、

知識人のあなたの能力で蜘蛛を極楽に受入れられるだろうか。


あるいは極楽に蜘蛛がいる不思議にさえ気付けなかったのか、

私は極楽に蜘蛛がいても一向に構わないとする立場なのです、

これは譬え話ゆえに蜘蛛が極楽に存在しない展開も可能です。


龍之介は迂闊にして蜘蛛の存在を計算しきれなかったと思う、

蜘蛛の存在を計算できる人の悩みは殆んど解消される筈です、

蜘蛛がなぜ極楽に存在するか…不思議でもなんでもないこと。


あなたの重大な問題は、あなたはなぜ極楽に行けないかです、

極楽に辿りつける途を見つけたら、龍之介の自殺はなかった、

法華経を口にしながら、法華経を知らぬ人はあまりにも多い。


芥川龍之介の蜘蛛は現に物語のなかで極楽にいる。

蜘蛛は過去に獲物を殺し続けて数え切れない命を奪っている。

すなわち他者の命を奪っても極楽に行けるということになる。


龍之介は犍陀多の罪について次のように述べている。

「人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥坊」

龍之介はこれ等の行為を堕地獄の因となる悪事として挙げた。


こういった物語の展開は小乗教に特徴的ですけど、それなら、

あなたにお尋ねしましよう。あなたはこの話を受入れますか?

「蜘蛛の糸」でGoogle検索すると16万件以上も引っ掛かる。


人々の関心の高さはこのように具体的な数字になって表れる。

但し、関心の高さはそのまま小乗教を受入れる数字ではない。

あなたもきっと「蜘蛛の糸」を譬え話にしても教義にしない。


それで「蜘蛛の糸」を受入れられるレベルはどの程度だろう。

小乗教を善く理解し受入れるのはどの程度のレベルだろうか。

あなたのレベルは恐らく『蜘蛛の糸』を知って批判的である。


結局、レベルが『蜘蛛の糸』を受入れる際のネックになる。


レベルを別の言葉に置換えるとしたら、どうなるでしょうか。

レベルは『蜘蛛の糸』からみたアナタの位置づけとなります。

たとえば『蜘蛛の糸』の読者層みたいな位置づけでしょうか。


いろんな読者…座右の銘にする人、教養にする人などがいて、

自分の生き方の基本にする人がいれば、それが信仰でしょう。

それに従ってたら安心し、どんな結果でも納得して受入れる。


「お父ちゃん信仰」の人はお父ちゃんに従ってたら安心する。

「共産党信仰」の人は共産党の言いつけに従ったら安心です。

「親分信仰」は親分の命令に従って悔いなく死ねるでしょう。


すなわち『蜘蛛の糸』側の都合で読者層を仕訳するみたいな、

この人はお金を落してくれる人、この人は宣伝してくれる人、

この人は株主、この人は熱心な信者…という感じでしょうか。


あなたから『蜘蛛の糸』をみた場合の仕分け法は述べました、

座右の書、教養、知識の一環、仕事に役立てる、信仰の対象、

そしてこれ等の他に別の視点に立たなければならないと思う。


それでは何故『別の視点の必要性』を言えるのでしょうか?

別の視点が見つからなければ、あなたは極楽に行けません。

別の視点が見つからなければ『蜘蛛の糸』は駄作でしかない。


即ち、別の視点、別の切り口によって、

あなたに極楽への途が開けて助けられることになるし、

また『蜘蛛の糸』は極楽への案内書の一端を果たせます。


もっとも、

あなたが『蜘蛛の糸』で極楽への途を既に見つけたのなら、

こんなとこをウロツクことはありません。時間の無駄です。

はい、さようなら (^o^)丿


前振りはここまでで終りです。

つぎは改めて本論に入ります。


 (続きます)

     プッシュ ⇒ 蜘蛛の糸(欲)



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