◇この記事は「芥川龍之介」からの続きです
― これは私のお友だちへのメッセージのつもり ―
犍陀多一人を救うことは多くのあなたを救うことに通じます。
即ち、私が幸せであるためにはあなたの幸せが必要なのです。
ペットや奴隷はいっときの慰めになっても真の仲間ではない。
それでわたしの真の仲間はどこにいるのでしょうか?
あなた…ある時は私の母親、ある時は父親、ある時は友だち。
私の恋人…あなたが不幸だなんて、決してあってはならない。
私の伴侶…あなたがツマラナイ様子で暮していたら堪らない。
私の大切な人…あなたは決してペットや奴隷なんかじゃない。
私の大好きな『かぐや姫』の物語りをネットで見つけました。
ていねいに書かれてますから、よろしければどうぞ読んでね。
現代語訳も載っていますから、読みやすいと思います。
プッシュ ⇒ 竹取物語
竹取物語をお読みいただきまして、ありがとうございます。
日本人がたいせつに培ってきた心情あふれるお話しですよね。
人はなんのために働くのか、なんのために生きるのかが大事。
せっかくの人生なのに、欲を掻いて失敗してはツマラナイよ
日本の昔話の筋書きは正直者を愛して敬う設定になってます。
意地悪してツヅラ一杯の毛虫や蛇をもらった舌切雀があって、
桃太郎を育てたお爺さんとお婆さんは正直でやさしい夫婦で、
ココ掘れワンワンの花咲爺さんも正直者でやさしかったよね。
竹取の翁と媼、つまりお爺さんとお婆さんは正直者でした。
そのご褒美にかぐや姫との楽しい暮しを味わえたのですけど、
お金持ちになって生活も楽になり、経済も豊かになりました、
偉い人たちとの交流も盛んになり夢のような日々を送ります。
欲張りというのではなかったけど、幸せを願う欲は持ってて、
かぐや姫が月に帰らなければならないと知って嘆き苦しんだ。
かぐや姫を好きになった世の男性も帝もそれは同じでしたし、
かぐや姫は財産や地位・名誉なんかに換えられない存在です。
欲深くなくても愛する人を失いたくないのは人の常であって、
かぐや姫を奪われまいと天帝に弓引く行為も辞さない帝なら、
かぐや姫のいない世に永遠の命を得る意味はないとも考える、
それほど生きてる人が煩悩を離れることは至難の業なのです。
竹取物語が愛されてきた訳はその美しい人間愛ゆえでしょう、
己の欲を満たすために人を踏みつけにする生き方は醜いけど、
人を幸せにしてあげたいと願う人の欲はなんと麗しく温かい。
自己愛に始まった欲が他人への愛に成長して皆を幸せにする。
お解りでしょうか…犍陀多の欲は誰かの幸せを願っていない。
あなたには蜘蛛の糸を登って辿りつく場所が問題でしょうか?
犍陀多は辿りついた場所で自己愛のために何をするだろうか?
不幸な人を生み広げる者はそこが自宅でも社会でも関係ない。
犍陀多がいる場所はいつでもどこでも地獄に変るに違いない。
幸せな人がいない…人が人を呪い憎み苦しめる無間地獄です。
ところであなたは、人を呪ったり・憎んだりしていませんか?
犍陀多は人が不幸になる働きをする地獄の生みの親なのです。
地獄の生みの親でいるかぎり、地獄を離れることは出来ない。
つまり、地獄を抜けられないのは誰が悪いのでもありません。
犍陀多が自分を地獄に送りこんでいる犯人に違いありません。
その犍陀多が誰かを呪っても、身から出た錆と言うしかない。
欲に取り付かれてしまうと頭が悪くなって判断力がなくなる。
欲に取り付かれる生き方、欲を昇華して極楽に替える生き方、
理屈で分かった顔をする知識人はなんと多いと思いませんか?
知識で地獄を抜け出せないという現実を私たちは知っている。
即ち私たちは知識だけでなく知恵を磨かなければなりません。
知識は盗み見できるし、盗んだ知識を我がもの顔でも使える。
それにしても盗んだ知識で得したとでも思っているのかしら。
盗みあう集団・社会・国家は必然的に乱れて不幸になります。
よろしければ気分転換に、童謡をプレゼントいたします。
プッシュ ⇒ 歌を忘れたカナリヤ
歌を忘れたカナリヤは後ろの山に棄てましょか
いえいえ それはなりませぬ
歌を忘れたカナリヤは背戸の小薮に埋めましょか
いえいえ それもなりませぬ
歌を忘れたカナリヤは柳の鞭でぶちましょか
いえいえ それはかわいそう
歌を忘れたカナリヤは象牙の舟に銀のかい
月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す
童謡「カナリヤ」(詩・西条八十)
さて、
家庭は崩壊して、子どもは非行に奔り、夫婦仲は険悪になる。
それは身から出た錆ですから仕方ないと言ってしまえるけど、
その不幸になった頭は悪くなっていて結局原因もつかめない。
原因が判らないから、また被害者に当たり散らすのでしょう。
いじめっ子は旨くいかない腹いせに苛められっ子をいたぶる、
いじめがエスカレートする原因はいじめにあると言えるのに、
いじめに無関心な大人が日本には余りにも大勢いるようです。
結局、物事を論理的に考えられなくなっている日本なのです。
竹取物語に限らず、日本の昔話の多くは論理的に作られてて、
それはお伽噺にしても論理を踏まえて物語りは展開していく。
面白ければ好いじゃないか的なナンセンスな展開の詰らなさ、
お金のために幸せを捨てるのは狂った感覚なのに気づけない、
しかも「君はオカシイ、変だよ」と誰も教え合おうとしない、
ヒステリーで総うつ病化現象を起している今の日本なのです、
現代若者事情が瀕している危機的状況…想像するも恐ろしい、
そんな大人には犍陀多が蜘蛛の糸をよじ登る意味も分らない。
私は欲がいけないと思わないし、欲は不幸の原因と限らない、
只、欲に取り付かれ、欲に狂い、人を不幸にしてはいけない、
竹取の翁もかぐや姫を欲しがる帝の権威に従いそうになって、
しかしかぐや姫に換わる宝はこの世にないと気付いたのです。
どんな高い地位にもお金にも換えられないかぐや姫の命です。
それは帝の想いも翁とまったく同じ…かぐや姫を愛していて、
翁も帝も、籠の鳥ではない健やかで自由なかぐや姫を愛した。
人を愛するとはどのように愛するべきなのか…考えてほしい。
誰もが幸せになりたい欲を持って生きている。
それは人間に限らず、あらゆる生物に共通して備わる欲です。
気づくか気づかないかの違いだけで生物は欲を持って生きる。
だから寝てる人の鼻を摘まむと呼吸しようと盛んに動きます。
その点は地獄の犍陀多も極楽の住人も違いは少しもなかった。
幸せになりたくて好き放題して犍陀多は地獄の住人になった。
幸せになりたかった釈迦…こちらは極楽の住人になっている。
両者の違いは人を踏みつけた犍陀多と人を支えた釈迦の違い。
たったそれだけの違いが居場所を極楽と地獄の明暗に分けた。
わたしたちの立ち位置はどちら側に位置しているでしょうか。
人を踏みつけにする側でしょうか、嫌い・憎む側でしょうか。
人を思いやり・意地悪せず、自分の仲間とする側でしょうか。
どちら側に立つか、それはあなたに委ねられた専権事項です。
美味い物は俺たちで食おう、アイツには黴餅を喰わせろなら?
こっちは大事な病人さん、苦しんでるアイツは追い払えなら?
これらの人たちはどうやら犍陀多に似ていると思いませんか?
犍陀多の末裔かも知れないこの者共は地獄の闇へ真っ逆さま。
これらの者も、これらの者の家族・子供もまた可哀そうです。
地獄の縁で人を苛めて面白がっているのは実に危険なのです。
踏み外したり、落としっ子したり、地獄の淵が口を開けてる。
自分は解ってて落ちない…ぐらいに思っていても、危険です。
人に意地悪して悪い遊びを面白がっている犍陀多の末裔たち、
悪行…中毒症状に似て、麻痺して危険を感じなくなりやすい、
少しずつ毒性に慣れたつもりで、地獄の深みに嵌まっていく、
なによりも習慣化することで「癖」になり悪癖に身は染まる、
当人が地獄に嵌まるのは身から出た錆だけど…家族も染まる。
シンナー吸ってる横に居るだけでシンナーを吸わされますし、
寝タバコしてる人と同居してる家族は危険にさらされてるし、
人は環境に染まりますし、子どもは両親・家族に染まります。
そのように身も心も自分勝手な生き方に染まった犍陀多です。
その犍陀多が蜘蛛の糸に取り付いて極楽に入ろうとしている。
蜘蛛の糸の意味、蜘蛛の糸をのぼる意味…考えて見ましたか?
アル中患者がアルコールのない旅をする姿をお考えください。
そりゃ、あなた、地獄で美味いアルコールに有りつけません。
強い毒性に変じたアルコールが体を蝕み、のた打ち回ってる。
その毒性を抜いて楽になりたいが、抜けば苦しみに苛まれる。
毒を抜いてる最中に…その余りの苦しさに息絶える者もいる。
俺なら耐えられるなんて強がってみても、そんなの駄目です。
暴れて怪我してはいけないと、数人がかりで押さえつけても、
最後の最後までみんなで協力して手伝ってあげて、それでも、
毒が抜け切るまで「手を放せ、どけーッ、下りろー」と叫ぶ。
「俺のことは放っといてくれーッ」と犍陀多は叫んだのです。
「蜘蛛の糸」…この場合、犍陀多の色と考えて良いでしょう。
悪業に染まった犍陀多の色を抜いてあげたいと思っていても、
だけど心身を染めた犍陀多の罪は重く、治療するのさえ苦痛。
みんなが手を引いた時、犍陀多は元の地獄の淵に沈むのです。
「蜘蛛の糸」は地獄界から極楽まで通じている生命でもある。
極楽までもう一歩のところまで近づいても、一瞬にして地獄。
地獄に嵌まって抜け出すことの困難・苦しさは半端ではない。
だからどうしたら楽に抜け出せるかを考えたのは釈尊でした。
結局、どうしたら地獄に嵌まらないかに努めるほうが楽です。
だが現実は嵌まらないのと抜けるのは同時進行と思って良い。
なにせ善人である自信をあなたはお持ちでないでしょうし…。
善人でなければ既に片足は突っ込んでしまっている筈だから、
これから嵌まらない策を講じてどうすんだよと思われるかも、
だから両足とも、嵌まらない前に手を打たなければならない、
両足とも嵌まった人なら一気に抜け出さなければなりません。
勘違いしてならないのは「抜け出す」ことが最重要なのです。
犍陀多は慰めてほしかったし、抜け出したくなかったのです。
どっぷり嵌まった人は最早抜け出すのも苦痛で辛い状態です。
だから慰めを求めて『助けて~、苦しい、助けて~』と呻く。
身体に少し手が触れても痛みが走る痛風の比ではありません。
声を掛けられただけで苦しみが増す病人を想像してください。
周りは病人の癒やしに追い立てられて共倒れ状態になります。
介護する人が病人より先にダウンする厳しい介護現場に似る。
介護する周囲の状況が地獄の相を呈してきたらもう最悪です。
近寄って声を掛けたら病人は元より周囲まで罵り騒ぐような、
自分は悪役になりたくなくて、他人を貶したり罵ってさわぐ、
終には近づけば損だといって見て見ぬふりで遠目に観ている。
今のインターネットの環境をみれば、その通りになっていて、
腫れ物に触れないよう、だけど褒められるポジションに居る。
憎まれないことが「善」であるとばかりのポジションを探す。
憎まれないことは善でないが「生きる術」として理解できる。
この「生きる術」は「善」に劣ると気付かなければならない。
現実は「生きる術」を以て「善」を貶す誤りが横行している。
その根底に「善」を知るための知恵が欠けていると判ります。
それで「善」を口にするのも憚れる歪んだ環境になっている。
具体例をあげると、先生が生徒を叱れない状況に陥っている。
隣りの家の子を叱れない大人の感覚が正しいと思われている。
強者の過ちを指摘できない、強者が正義であるとされている。
多数決は弱肉強食の法則なのに、多数決を正義と思っている。
こうした状況を見れば、脳みそが危険に点滅しているのです。
その脳みそを手懐けようとしてか甘い言葉で囁く知識人たち。
救おうとせず、手懐けようとするイカレ脳みその知識人たち。
このようにして上から下までイカレ脳みそがウヨウヨしてる。
いったい知識人たちは何のために「蜘蛛の糸」を読むのか、
…と、口火を切って「芥川龍之介」を書き始めたのでした。
そっちに話題を振っては堂々巡りの無駄話に終ってしまう。
ともあれ、野次馬になって騒ぐしか出来ないイカレポンチ。
「生きる術」で善を貶す所にロジックは無く、だから狂う。
生きることは正義であり、生きる術は必要であり許される、
しかし「善く生きる」ことを目指さなければ犍陀多になる。
我ままに生きて人を切り捨てた犍陀多は自ら地獄に堕ちた。
日本を悪くリードしてる世の学者たちの現状をみるがいい。
犍陀多になって、頭は悪くなり、心は狂い、不正義を喜ぶ。
みんなで渡れば恐くないみたいな狂った集団になっている。
だが何をしても旨く行かなくなり、裏腹な結果を嘆くのだ。
『原発は安全ですが、その訳は庶民には理解できません』
…と、これが日本の学者の物言い・常套手段・詭弁でした。
詭弁でゴマカスことで庶民に対して偉ぶってきたのでした。
最早、詭弁が通ってはならない、詭弁を許してはならない。
能力があれば、本当に賢ければ、解りやすく説明できます。
庶民に理解できるように語る政治家や学者が正しいのです。
能力があるなら「善」が必要であると理解できるでしょう。
能力があるなら政治家は良い結果を出して示せるでしょう。
過去の実績から、どの政治家が良い仕事をしたかは分かる。
「善」の仕事は私たちの暮しを良くし、明るい社会を作る。
一部の人間だけ、一部の集団だけが儲かる話は詐欺と同じ。
あなただけに儲かる話を教えます…こんな政治はおかしい。
労働者だけが儲かる政治、企業だけが儲かる政治は変です。
詐欺師は「あなただけ」の儲け話をして欲ボケの頭を騙す。
詐欺師政治家も詐欺師学者も国や国民の幸せに関心はなく、
かならず欲ボケの人を騙して、富を一人占めしようとする。
そんなこと現在の社会の姿をみれば歴然ではありませんか。
善に関心を持たず、善に対して仇をなす結果は地獄に堕す。
善を嫉み、善を憎み、善を嫌い、善に害悪をなして堕地獄。
それはそうですよ…持ってくれる手を振り解けば落ちます。
支えになってる人の足をはらえば、自分もこけるしかない。
犍陀多も脳みそがダメになって、救いの手をはらい除けた。
自分を支えている善の手を嫌ってはとても救いようがない。
即ち、犍陀多の後に続いた人たちは犍陀多の支え手だった。
頭が狂ってしまうと助けてくれる人が憎く恨めしく思える。
ところで私は今、
昔話や小乗教の説教話、教養講座を開設しているのでなく、
知識とか教養として覚えても地獄を回避する役に立たない。
知識で幸せになれるなら、今、あなたは幸せなハズでした。
必要なことは、知恵として生命にしっかり染めることです。
それがあなたが地獄から回避していける唯一の道なのです。
次の【普通って?】に続きます。
― これは私のお友だちへのメッセージのつもり ―
犍陀多一人を救うことは多くのあなたを救うことに通じます。
即ち、私が幸せであるためにはあなたの幸せが必要なのです。
ペットや奴隷はいっときの慰めになっても真の仲間ではない。
それでわたしの真の仲間はどこにいるのでしょうか?
あなた…ある時は私の母親、ある時は父親、ある時は友だち。
私の恋人…あなたが不幸だなんて、決してあってはならない。
私の伴侶…あなたがツマラナイ様子で暮していたら堪らない。
私の大切な人…あなたは決してペットや奴隷なんかじゃない。
私の大好きな『かぐや姫』の物語りをネットで見つけました。
ていねいに書かれてますから、よろしければどうぞ読んでね。
現代語訳も載っていますから、読みやすいと思います。
プッシュ ⇒ 竹取物語
竹取物語をお読みいただきまして、ありがとうございます。
日本人がたいせつに培ってきた心情あふれるお話しですよね。
人はなんのために働くのか、なんのために生きるのかが大事。
せっかくの人生なのに、欲を掻いて失敗してはツマラナイよ
日本の昔話の筋書きは正直者を愛して敬う設定になってます。
意地悪してツヅラ一杯の毛虫や蛇をもらった舌切雀があって、
桃太郎を育てたお爺さんとお婆さんは正直でやさしい夫婦で、
ココ掘れワンワンの花咲爺さんも正直者でやさしかったよね。
竹取の翁と媼、つまりお爺さんとお婆さんは正直者でした。
そのご褒美にかぐや姫との楽しい暮しを味わえたのですけど、
お金持ちになって生活も楽になり、経済も豊かになりました、
偉い人たちとの交流も盛んになり夢のような日々を送ります。
欲張りというのではなかったけど、幸せを願う欲は持ってて、
かぐや姫が月に帰らなければならないと知って嘆き苦しんだ。
かぐや姫を好きになった世の男性も帝もそれは同じでしたし、
かぐや姫は財産や地位・名誉なんかに換えられない存在です。
欲深くなくても愛する人を失いたくないのは人の常であって、
かぐや姫を奪われまいと天帝に弓引く行為も辞さない帝なら、
かぐや姫のいない世に永遠の命を得る意味はないとも考える、
それほど生きてる人が煩悩を離れることは至難の業なのです。
竹取物語が愛されてきた訳はその美しい人間愛ゆえでしょう、
己の欲を満たすために人を踏みつけにする生き方は醜いけど、
人を幸せにしてあげたいと願う人の欲はなんと麗しく温かい。
自己愛に始まった欲が他人への愛に成長して皆を幸せにする。
お解りでしょうか…犍陀多の欲は誰かの幸せを願っていない。
あなたには蜘蛛の糸を登って辿りつく場所が問題でしょうか?
犍陀多は辿りついた場所で自己愛のために何をするだろうか?
不幸な人を生み広げる者はそこが自宅でも社会でも関係ない。
犍陀多がいる場所はいつでもどこでも地獄に変るに違いない。
幸せな人がいない…人が人を呪い憎み苦しめる無間地獄です。
ところであなたは、人を呪ったり・憎んだりしていませんか?
犍陀多は人が不幸になる働きをする地獄の生みの親なのです。
地獄の生みの親でいるかぎり、地獄を離れることは出来ない。
つまり、地獄を抜けられないのは誰が悪いのでもありません。
犍陀多が自分を地獄に送りこんでいる犯人に違いありません。
その犍陀多が誰かを呪っても、身から出た錆と言うしかない。
欲に取り付かれてしまうと頭が悪くなって判断力がなくなる。
欲に取り付かれる生き方、欲を昇華して極楽に替える生き方、
理屈で分かった顔をする知識人はなんと多いと思いませんか?
知識で地獄を抜け出せないという現実を私たちは知っている。
即ち私たちは知識だけでなく知恵を磨かなければなりません。
知識は盗み見できるし、盗んだ知識を我がもの顔でも使える。
それにしても盗んだ知識で得したとでも思っているのかしら。
盗みあう集団・社会・国家は必然的に乱れて不幸になります。
よろしければ気分転換に、童謡をプレゼントいたします。
プッシュ ⇒ 歌を忘れたカナリヤ
歌を忘れたカナリヤは後ろの山に棄てましょか
いえいえ それはなりませぬ
歌を忘れたカナリヤは背戸の小薮に埋めましょか
いえいえ それもなりませぬ
歌を忘れたカナリヤは柳の鞭でぶちましょか
いえいえ それはかわいそう
歌を忘れたカナリヤは象牙の舟に銀のかい
月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す
童謡「カナリヤ」(詩・西条八十)
さて、
家庭は崩壊して、子どもは非行に奔り、夫婦仲は険悪になる。
それは身から出た錆ですから仕方ないと言ってしまえるけど、
その不幸になった頭は悪くなっていて結局原因もつかめない。
原因が判らないから、また被害者に当たり散らすのでしょう。
いじめっ子は旨くいかない腹いせに苛められっ子をいたぶる、
いじめがエスカレートする原因はいじめにあると言えるのに、
いじめに無関心な大人が日本には余りにも大勢いるようです。
結局、物事を論理的に考えられなくなっている日本なのです。
竹取物語に限らず、日本の昔話の多くは論理的に作られてて、
それはお伽噺にしても論理を踏まえて物語りは展開していく。
面白ければ好いじゃないか的なナンセンスな展開の詰らなさ、
お金のために幸せを捨てるのは狂った感覚なのに気づけない、
しかも「君はオカシイ、変だよ」と誰も教え合おうとしない、
ヒステリーで総うつ病化現象を起している今の日本なのです、
現代若者事情が瀕している危機的状況…想像するも恐ろしい、
そんな大人には犍陀多が蜘蛛の糸をよじ登る意味も分らない。
私は欲がいけないと思わないし、欲は不幸の原因と限らない、
只、欲に取り付かれ、欲に狂い、人を不幸にしてはいけない、
竹取の翁もかぐや姫を欲しがる帝の権威に従いそうになって、
しかしかぐや姫に換わる宝はこの世にないと気付いたのです。
どんな高い地位にもお金にも換えられないかぐや姫の命です。
それは帝の想いも翁とまったく同じ…かぐや姫を愛していて、
翁も帝も、籠の鳥ではない健やかで自由なかぐや姫を愛した。
人を愛するとはどのように愛するべきなのか…考えてほしい。
誰もが幸せになりたい欲を持って生きている。
それは人間に限らず、あらゆる生物に共通して備わる欲です。
気づくか気づかないかの違いだけで生物は欲を持って生きる。
だから寝てる人の鼻を摘まむと呼吸しようと盛んに動きます。
その点は地獄の犍陀多も極楽の住人も違いは少しもなかった。
幸せになりたくて好き放題して犍陀多は地獄の住人になった。
幸せになりたかった釈迦…こちらは極楽の住人になっている。
両者の違いは人を踏みつけた犍陀多と人を支えた釈迦の違い。
たったそれだけの違いが居場所を極楽と地獄の明暗に分けた。
わたしたちの立ち位置はどちら側に位置しているでしょうか。
人を踏みつけにする側でしょうか、嫌い・憎む側でしょうか。
人を思いやり・意地悪せず、自分の仲間とする側でしょうか。
どちら側に立つか、それはあなたに委ねられた専権事項です。
美味い物は俺たちで食おう、アイツには黴餅を喰わせろなら?
こっちは大事な病人さん、苦しんでるアイツは追い払えなら?
これらの人たちはどうやら犍陀多に似ていると思いませんか?
犍陀多の末裔かも知れないこの者共は地獄の闇へ真っ逆さま。
これらの者も、これらの者の家族・子供もまた可哀そうです。
地獄の縁で人を苛めて面白がっているのは実に危険なのです。
踏み外したり、落としっ子したり、地獄の淵が口を開けてる。
自分は解ってて落ちない…ぐらいに思っていても、危険です。
人に意地悪して悪い遊びを面白がっている犍陀多の末裔たち、
悪行…中毒症状に似て、麻痺して危険を感じなくなりやすい、
少しずつ毒性に慣れたつもりで、地獄の深みに嵌まっていく、
なによりも習慣化することで「癖」になり悪癖に身は染まる、
当人が地獄に嵌まるのは身から出た錆だけど…家族も染まる。
シンナー吸ってる横に居るだけでシンナーを吸わされますし、
寝タバコしてる人と同居してる家族は危険にさらされてるし、
人は環境に染まりますし、子どもは両親・家族に染まります。
そのように身も心も自分勝手な生き方に染まった犍陀多です。
その犍陀多が蜘蛛の糸に取り付いて極楽に入ろうとしている。
蜘蛛の糸の意味、蜘蛛の糸をのぼる意味…考えて見ましたか?
アル中患者がアルコールのない旅をする姿をお考えください。
そりゃ、あなた、地獄で美味いアルコールに有りつけません。
強い毒性に変じたアルコールが体を蝕み、のた打ち回ってる。
その毒性を抜いて楽になりたいが、抜けば苦しみに苛まれる。
毒を抜いてる最中に…その余りの苦しさに息絶える者もいる。
俺なら耐えられるなんて強がってみても、そんなの駄目です。
暴れて怪我してはいけないと、数人がかりで押さえつけても、
最後の最後までみんなで協力して手伝ってあげて、それでも、
毒が抜け切るまで「手を放せ、どけーッ、下りろー」と叫ぶ。
「俺のことは放っといてくれーッ」と犍陀多は叫んだのです。
「蜘蛛の糸」…この場合、犍陀多の色と考えて良いでしょう。
悪業に染まった犍陀多の色を抜いてあげたいと思っていても、
だけど心身を染めた犍陀多の罪は重く、治療するのさえ苦痛。
みんなが手を引いた時、犍陀多は元の地獄の淵に沈むのです。
「蜘蛛の糸」は地獄界から極楽まで通じている生命でもある。
極楽までもう一歩のところまで近づいても、一瞬にして地獄。
地獄に嵌まって抜け出すことの困難・苦しさは半端ではない。
だからどうしたら楽に抜け出せるかを考えたのは釈尊でした。
結局、どうしたら地獄に嵌まらないかに努めるほうが楽です。
だが現実は嵌まらないのと抜けるのは同時進行と思って良い。
なにせ善人である自信をあなたはお持ちでないでしょうし…。
善人でなければ既に片足は突っ込んでしまっている筈だから、
これから嵌まらない策を講じてどうすんだよと思われるかも、
だから両足とも、嵌まらない前に手を打たなければならない、
両足とも嵌まった人なら一気に抜け出さなければなりません。
勘違いしてならないのは「抜け出す」ことが最重要なのです。
犍陀多は慰めてほしかったし、抜け出したくなかったのです。
どっぷり嵌まった人は最早抜け出すのも苦痛で辛い状態です。
だから慰めを求めて『助けて~、苦しい、助けて~』と呻く。
身体に少し手が触れても痛みが走る痛風の比ではありません。
声を掛けられただけで苦しみが増す病人を想像してください。
周りは病人の癒やしに追い立てられて共倒れ状態になります。
介護する人が病人より先にダウンする厳しい介護現場に似る。
介護する周囲の状況が地獄の相を呈してきたらもう最悪です。
近寄って声を掛けたら病人は元より周囲まで罵り騒ぐような、
自分は悪役になりたくなくて、他人を貶したり罵ってさわぐ、
終には近づけば損だといって見て見ぬふりで遠目に観ている。
今のインターネットの環境をみれば、その通りになっていて、
腫れ物に触れないよう、だけど褒められるポジションに居る。
憎まれないことが「善」であるとばかりのポジションを探す。
憎まれないことは善でないが「生きる術」として理解できる。
この「生きる術」は「善」に劣ると気付かなければならない。
現実は「生きる術」を以て「善」を貶す誤りが横行している。
その根底に「善」を知るための知恵が欠けていると判ります。
それで「善」を口にするのも憚れる歪んだ環境になっている。
具体例をあげると、先生が生徒を叱れない状況に陥っている。
隣りの家の子を叱れない大人の感覚が正しいと思われている。
強者の過ちを指摘できない、強者が正義であるとされている。
多数決は弱肉強食の法則なのに、多数決を正義と思っている。
こうした状況を見れば、脳みそが危険に点滅しているのです。
その脳みそを手懐けようとしてか甘い言葉で囁く知識人たち。
救おうとせず、手懐けようとするイカレ脳みその知識人たち。
このようにして上から下までイカレ脳みそがウヨウヨしてる。
いったい知識人たちは何のために「蜘蛛の糸」を読むのか、
…と、口火を切って「芥川龍之介」を書き始めたのでした。
そっちに話題を振っては堂々巡りの無駄話に終ってしまう。
ともあれ、野次馬になって騒ぐしか出来ないイカレポンチ。
「生きる術」で善を貶す所にロジックは無く、だから狂う。
生きることは正義であり、生きる術は必要であり許される、
しかし「善く生きる」ことを目指さなければ犍陀多になる。
我ままに生きて人を切り捨てた犍陀多は自ら地獄に堕ちた。
日本を悪くリードしてる世の学者たちの現状をみるがいい。
犍陀多になって、頭は悪くなり、心は狂い、不正義を喜ぶ。
みんなで渡れば恐くないみたいな狂った集団になっている。
だが何をしても旨く行かなくなり、裏腹な結果を嘆くのだ。
『原発は安全ですが、その訳は庶民には理解できません』
…と、これが日本の学者の物言い・常套手段・詭弁でした。
詭弁でゴマカスことで庶民に対して偉ぶってきたのでした。
最早、詭弁が通ってはならない、詭弁を許してはならない。
能力があれば、本当に賢ければ、解りやすく説明できます。
庶民に理解できるように語る政治家や学者が正しいのです。
能力があるなら「善」が必要であると理解できるでしょう。
能力があるなら政治家は良い結果を出して示せるでしょう。
過去の実績から、どの政治家が良い仕事をしたかは分かる。
「善」の仕事は私たちの暮しを良くし、明るい社会を作る。
一部の人間だけ、一部の集団だけが儲かる話は詐欺と同じ。
あなただけに儲かる話を教えます…こんな政治はおかしい。
労働者だけが儲かる政治、企業だけが儲かる政治は変です。
詐欺師は「あなただけ」の儲け話をして欲ボケの頭を騙す。
詐欺師政治家も詐欺師学者も国や国民の幸せに関心はなく、
かならず欲ボケの人を騙して、富を一人占めしようとする。
そんなこと現在の社会の姿をみれば歴然ではありませんか。
善に関心を持たず、善に対して仇をなす結果は地獄に堕す。
善を嫉み、善を憎み、善を嫌い、善に害悪をなして堕地獄。
それはそうですよ…持ってくれる手を振り解けば落ちます。
支えになってる人の足をはらえば、自分もこけるしかない。
犍陀多も脳みそがダメになって、救いの手をはらい除けた。
自分を支えている善の手を嫌ってはとても救いようがない。
即ち、犍陀多の後に続いた人たちは犍陀多の支え手だった。
頭が狂ってしまうと助けてくれる人が憎く恨めしく思える。
ところで私は今、
昔話や小乗教の説教話、教養講座を開設しているのでなく、
知識とか教養として覚えても地獄を回避する役に立たない。
知識で幸せになれるなら、今、あなたは幸せなハズでした。
必要なことは、知恵として生命にしっかり染めることです。
それがあなたが地獄から回避していける唯一の道なのです。
次の【普通って?】に続きます。