長編詩篇として旧約聖書と仏教経典を挙げても新約聖書は挙げない。新約は神が著わした神の詩、言うまでもなく神の詩は最上、人はいじってならず、人の都合で解釈が変ってはならず、信徒は殉じるのみ。人の意思が介入する余地はなく、況して人の意志に於いてをや。旧約と仏教経典は然にあらず、人の介入を善しとするのではないか?
詩の意味を曖昧にすると劣化する。人は詩に意志をこめる。意志の力を信じて詩作するのは詩人。新約の唯一神に意志が必要だろうか? 眠っていても世界を見とおす唯一神は鼻歌雑じりの意思で成らぬことはなく、人の介入はキリスト限りとしたじゃないか?その唯一神を我ら詩人と同列において詩篇を論じるのは不合理。
ここは唯一神を交えず神棚に置いておいて人だけで論じる場と位置づけるべし。論じるなら嬉しそうにのこのこシャシャリでた何ものか権威が厳かに宣う場とせず、同列の人と人が触発しあう場として切磋琢磨するを善しとする。人が語る旧約と仏教経典はゆえに詩篇と見なされてよく、この場への参加の資格が認められ許されてよい。
それで詩篇に載せるべきは詩に限られるべきだろうか? 詩篇というからは詩にかぎるべし、治するときの名を薬草、害するときの名を毒薬といい、ナマのままの生薬に似て、詩篇に採用されるときは如何な言葉も詩も手をかけるべし。薬といい言葉というも使いかたを誤っては人を害する。詩はナマと云えて人を害すると心得るべきものか。
ちるさくら海あをければ海へちる 高屋窓秋
例えば毒とも薬ともなるナマの句。生薬‥散・丸・湯、干・焼・炒・煎など、心込めて加工して良薬となるも使用法を過ちて薬も毒に変わるから無責任に放っておいてはいけなくて、心ない者が悪用して苦しむ人がでる道理、ここで良薬とも猛毒ともなる注意書き・道標を立てておこう。
有季定型歴史かな遣いの俳人には、あをいろ(青色)は天皇の日常着の色と指定されていて誰でも着用できなかったと理解できる。散る桜は権力(天皇)になびく者と書けばこれは天皇の侮辱だ。なびく者を嘲笑している。なびいた末に散り散りになった愚か者たちは民衆であり、この句は民衆への誹謗か警鐘か? 警鐘は気づくように知らせるものであり、それならこれは誹謗でしょう。命を散らし、仲間を散り散りにされたなら愚か者。
はたしてこの句を詠んで民衆の称賛を得る結果になったのならキャッチコピーの役目を十分に果たしたことになる。わたしはそうでなく真実を明かす人間派の詩人でありたいという一心で歩みたい。いかが?
(余談‥韓ドラ「サムセン」はオモシロイです、サムセンのサムは朝鮮人参の意)
___