「芸術は主観写生です」と言ったところで疑問に思われるかも知れない。
この疑問には「俳句の道に二通りある」とお答えするしか無いようです。
(一つは、)
正岡子規が高浜虚子にホトトギスを委ねた意味を重く受け留めましょう。
句会を通して俳句に親しむ人が増えるなら、好いのじゃないでしょうか。
俳句のすそ野が広がるなら、過去の優れた俳句に触れる機会が増えます。
また斬新な感覚の俳人が詠む優れた現代俳句に出合える機会も増えます。
大概の方々の俳句との出合いは小学校の国語の時間ではないでしょうか。
社会に出て俳句に再会する場は、メディアの俳句番組や投稿欄でしょう。
多くの作句の場があるから、私たちは日常的に俳句と触れ合えるのです。
子規は俳句の場や発表の場の重要性を感じていたと思われてなりません。
それ故に、後事いっさいを虚子に託したと捉えるのが自然に思われます。
私たちは、事業家・高浜虚子の役割を知って正当に評価すべきでしょう。
もちろん既に述べたように、句会方式で出来ることには限界があります。
しかし限界があるという事で、句会方式の全てを否定するのは過ちです。
結局、
過去の栄光に囚われる弊害が多く見られるけれど、句会方式は必要です。
蛇足ながら、
於多福姉が大好きな橋本多佳子様を知ったのも裾野があればこそでした。