芸術に関して、
これまでに「写生」「主観」「客観」について概ねを述べました。
先ず、芸術作品は量産する物でなく、複製する物でもありません。
作句は被写体を主観的に切り取って、主観的に説明する作業です。
俳人は「主観的に写生」した被写体を「主観的に説明」していく。
芸術の世界では鑑賞者は作品を「主観的に評価」して楽しみます。
実際、俳人も鑑賞者も選句者も師匠も主宰も「主観」で判断する。
ところで、
『形』を重視する習い事は「客観写生」が修行の基本になります。
「活け花」「茶道」「日本舞踊」は師匠の模倣に徹して上達する。
そうして『形』を習熟した弟子は師匠に次ぐ実力者と認められる。
つまり、習い事の『形』はそれ自体が究極の奥義と認められます。
つまり、習い事で身につけた技術は「究極の技」と申せましょう。
究極の技の伝授は師匠による「躾け」の過程で身につけられます。
(もう一度「芸術」と「習い事」の違いを確認します)
芸術は、作品ごとに一品一品異なる価値を生み出す創作作業です。
ある時には、自分の師匠が示した価値を否定する作業に入ります。
先人と後人が競い合う中で優れた芸術が生れる事もあるワケです。
一方、習い事は「優れた伝統美」を守り・伝えるのは得意ですが、
「師匠は瑕疵なき存在」とする故に個性をぶつける弟子は嫌われ、
「斬新な芸術作品」を生み出すには不向きと云えるかも知れない。
過去に杉田久女の個性が嫌われ、破門された例が示しますように、
「芸術」は作家の強い個性が発揮される場が有用と云えそうです。