「結局、人は傷つけあう」「心理的な成熟度」
「様々な喪失と防衛反応」「人間は未熟な生き物」
今回の移籍問題で開放を得た、笑ってしまうくらい心が軽くなった、その時は。
結局人は傷つけあうのだ、どんなに慎重に事を運んだとしても備えたとしても。
それぞれが自分の人生を取捨選択する、よりよい結末の為の生存競争はあからさまに利己的だ。
そんな当たり前のことがわかった気がした、それでいいし、人間なんてそんなものなのだ。
まだまだどこかで「人の為に生きなくてはいけないのに」という思い込みがあったのかもしれない。
そして、震災時の傷つけあった出来事への弔いができた気がした、自分も親類も許せる気がした。
移籍問題は、社内選考が終了し元受け側と次の段階に入る予定だった、しかしそうはならなかった。元受け側がこの話を無かったことにしたのだ、理由は分からない。条件について元受け側に相談しろと投げられたメンバーが騒いだせいだとも、そもそも打診でしかなかったとも有耶無耶だ。
遺恨は、人選で切り捨てようとした責任者との信用問題、メンバー内の疑心暗鬼、事務作業の混乱。そして、この数週間の混乱と人生の節目の選択による個々の喪失は大きかった、責任者も含め皆がより良くあろうとして傷つけあったから。
何かが変わってしまったという「繋がり」がいくつか見えてきた。喪失感を人のせいにするもの、達観したもの、肯定感が揺らいでしまうもの。特に、会社の為に仕事の為に頑張ってきた、貢献できていると自負してきた者たちは大きく揺らいでいる気がする。「もしかして自分の価値は低いのか?」と自信を失ったように見える。無自覚な喪失感、時間が経過してさらに醸成された喪失感が彼女たちを蝕んでいる気がする。
コロナウィルスによる生活様式の変化、家族形態の変化、時代の進化によるストレス、そこに移籍問題でのストレスが加わり我慢も限界だ。それなのにどれも責任の所在ははっきりしない、誰のせいにもできない憤懣が大きく膨らんでいる気がする。
結局人は「自分を守るために他人を傷つけるのだ」と気付いた当初は、肩の荷も下りた気がしたが、今は他者の憤懣が自分に向きそうで怖い。スケープゴートになりやすい人との関りの下手さに、ふっと自責が生まれる。気付かないふりをして明るくふるまっても逆効果、空回り感がある。
人を気にせず自分でいられますようにと願う毎日である。