心を込めて

心の庵「偶垂ら庵」
ありのままを吐き出して 私の物語を紡ぎ直す

あの時みたいに傷つけあって 移籍③

2022-04-23 15:20:06 | 不安な時の

また、あの時みたいに傷つけあって、関係が壊れてしまうのではないかと恐れている自分がいる。

職場の混乱は続いていて、移籍に応じる応じないで三者三様、面談も悲喜こもごもで、怒りと嘆きで満ちている。仕事が元受けに戻るだけなのだけれど、どのように委譲されていくのかスケジュールは未定で、働く人間の移籍先の条件についても、仕事の進め方についても、これから擦り合わせていくことになる、こんな状態で移籍するかしないかを決めるのは難しい判断なのだが、会社は個々の感情にはもちろんお構いなしだ。

関連付けるべきでないことは分かっているが、縺れた糸をほぐすためにあえてこの問題を深く捉えている、自分を助けるために。

震災前、皆それぞれ自己や家族の膠着した問題を抱えていた。ごまかしていた問題に震災によって直面せざるを得なくなった時、混乱の中で故郷の人たちは傷つけあったように思う。それまで隠していた本心、気付いていなかった憤懣に直面し、自己処理できずに他者を攻撃したように思う。「親や故郷を捨てた」「家族を蔑ろにした」「逃げた」と他者を悪者にすれば、自分の問題に目を向けずに済むから。

それらと同じように、職場でも移籍に応じるもの残留を決めたものとで温度差が生まれている。しらっとした空気感の中で普通に振舞うのはなかなか胆力のいる技で、そんな中私は不安で怯えている、またあの時みたいに傷つけられるのではないかと怖くてたまらない。

震災後、問題を表面化させないよう務めて頑張った、問題山積なのに何でもないように振舞って幸せであると糊塗していた。自分の感情にすら蓋をして「これぐらいで音を上げてはいけない」と怒りや悲しみさえ感じないようにしていた。ぶつけられた他者の感情さえ自分が悪いのだからと飲み込んでいた。これまでずっと苦しかった、自分を悪い人間だと感じるのは、泣き出したかった、辛くて哀しかった。

もう間違えたくない、自分の為にするべきは、この悲しみや怒りをきちんと感じることだ、腹立たしいと正直に感じることだ。

そして「震災」であれ今回の「他社移籍問題」であれ、皆「自分の判断で自分を決定したのだ」と認識することだ。境界線をはっきりさせること、そして自分の決定に「自信と責任」を持つことだ。

もし、責められたとしても罪悪感を感じなくていい、その罪悪感は誰のものなのだろうか、その怒りは誰のものなのだろうか。自分でいるという事は他者の防衛反応を自分のものにしなくていいという事だ。他者の心の問題は他者のもの、私はもう誰かの悩みを受け持たない、肩代わりしない。他者の苦しみに気づいたり、悩みに寄り添うことはあっても、間違ってはいけないのは「自分の感情」では無いという認識なのだ。

ではどうするか、私は皆が思うようになれればいいねと思う。そしてこれまで職場でやってこれたのも、心の問題に取り組む切っ掛けをもらえたのも、話を聞いてもらえたのも、知り合えたおかげだと感謝することだと思う。

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我慢一択だったんだ 移籍②

2022-04-16 18:57:31 | 不安な時の

これまでは「苦しみ」は「我慢」の一択だった。うまくいかなかったのは自分のせい、悩みが生まれるのも自分のせいだった。そう思ったほうが楽だったし、そう考えるのが癖になっていたように思う。そうして重荷が増えて、見えないようにしていた悲しみに押しつぶされて、モヤモヤして不安になって、人が怖くなって悲しみと不安の狭間で生きてきた。怒りは感じてはいけない、表明してはいけない、でも何かが溢れてきて、関係ない場面でとっさに暴言を言ってしまい、他者を傷つけたことを後悔しては、自分が悪かったから仕方がないと憂鬱に過ごしてきた。

自分を大切にしたい、もう自己嫌悪しながら生きていたくない、なので新しいやり方で自分の心に向き合っていきたいと思う。言語化し、しなやかな思考で、自分を大切にしながら、今回の哀しい出来事に取り組もうと思う。

今回のパート先の、他社への唐突な移籍勧奨には怒りを感じてもいいのではないだろうか。ビジネスだからこういう事も起こりえるものだが、今回の管理責任者のやり口は卑怯卑小なやり方だったと、心では憤慨してもいいのではないだろうか。中途半端に人員を残すことで、一緒に動くメンバー内で、既に疑心暗鬼と軋轢が生まれている。後2か月こんな気持ちを抱えながら、表面上は和やかに仕事をするのだ。途中で欠けるメンバーもいるだろう、移行期に残ることが決まったメンバーと移籍するメンバーとで明暗が分かれ、微妙な気持ちになることもあるだろう。もしかすると、あの人は残ってほしいと言われて残るのかもしれない、自分は不要な人材なのかと自己嫌悪が生まれむしゃくしゃするかもしれない。

「腹立たしく感じている、怒りがわいている、許せないと思っている」心の中ではそう感じてもいいのではないだろうか?そうなのだ「自分の本当の感情を感じてはいけない」とずっと「無意識」に抑圧してきた。だってこれまでの自分の中の結論は、「何であれ、震災であれ」「自分が悪いから」だったから。今はようやくそれが「思い込み」だと気付いているけれど。これまで自分が「悪い」と感じたくないから、自分の「本当の感情」を無意識に落とし込んで感じないようにしてきた。感情すら相手が望むように感じる演技を、自分の本心だと信じようとしてきた。しかし、隠しきれない本心が顔を覗かせる時があった、そんな時は自分に怒りを感じ、怒りを感じた自分を悪いと責めてきた。

もうそんなことしなくていい。人間社会は多重で多層で、人間なら感じて当たり前の「感情」を「自分が悪いから」と「処理しなくていい」。もう悪い感情を自分の中に感じても自分を責めたり、罰したり、無意識化に送り込んだりしなくていい。きっとこれが人間なのだ。自我の根源での躓きは人生に影を落とし、未だに苦しんでいいるけれど。今回の移籍の件は痛い出来事だったからといって、自分を責めなくてもいいのではないだろうか。「生きていて」も「本当の感情」を感じても「いい」のではないだろうか。そんなことがようやく分かりかけてきている、誰かに怒られそうで少し怖い、本当に根深い。

前向きに、自分がどうしたいか考えて、憤懣も怒りも感じながら、自分の今後の為に、納得して進んでいきたい。「どちらを選んでもあっちのほうが良かったかなと後悔するものよ」人生の先輩である他部署の女性に、人生の選択についてアドバイスをいただいた、よく聞く言葉だが今回は胸に沁みる言葉になった。

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心では考えたっていい 移籍①

2022-04-16 14:36:37 | 不安な時の

パート先の職場で業務縮小があった、私が在籍していた部署の人員は、基本的に他社に移籍するようお達しがあった。この年度初めに1年の雇用契約を更新したばかりで、まさか、同月に他社移籍を指示され契約先が変わるとは想像していなかった。移籍先の契約内容は今の会社と同じとのことだったが、来年度以降はどうなるかわからない、現在ネットで出ている募集を調べたら希望通りの働き方では募集していなかった、今後が不安だった。移籍先があるだけ感謝しなくてはならないのだろうけど。

基本他社移籍だが、今の会社に残す人員も欲しいとのことだった。ただし、残った場合はセクションの移動、労働時間の変更に応る事、応じることができない場合は退職勧奨すると一方的に文書に書かれていた。そもそも、この通告すら唐突で、先に帰るメンバーには口止めし、最後の終礼で他セクションのメンバーと整列して聞くことになった、文書は帰宅して読むよう指示され、あと2か月はこの会社で現状維持、体調に気を付けてどうぞ宜しく、今後の活躍を願うと締めくくられていて、時々現れる管理責任者には、直に事の詳細を聞くことができないようになっていた。

裏切られた気持ちになった、「大事な話があります」とセクションメンバーのみを集めて、まず話を通してほしかった。基本移籍に応じろではなく、「業務縮小は唐突なことで驚かれたと思います、まずは移籍するか残るか希望を伺いたいと思います」と言ってほしかった。実は前々からこの話はありました、というのならある程度は内々に伝えてほしかった。全員移籍ではなく数名残すと言うのも厄介だった、人員不足が甚だしい現場なのに、緩和の為に同会社で全員を振り分けないのも不思議だった。にやにやと笑いながら明るく通告してくるのも、遅番の終礼の人員には「あなた方には何の影響もありません、ご安心ください」と言ったというのも、後で聞いて不快な気持ちになって嫌だった。

夫に話したら「実質クビだね」と言われ傷ついた、事実だとは思うが、もう少し労わって欲しかった。ただ、居なくなる人員にはどう思われてもよいのだろう、残したいメンバーの人選には既に腹積もりがあるだろう、という意見には同意だった。

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東日本大震災から6年②

2022-04-16 12:18:18 | 東日本大震災

予想に反して拷問のような時を過ごした保護者会、思えば他の母親たちと同じく小学校卒業という節目で、子育ての努力が報われるような達成感を噛みしめて、人生の礎にしたい気持ちがあったのかもしれない。比較するものでもなかったとは思うけれど、他の現実と私の世界は隔絶していて衝撃を受けた。

小学校卒業の保護者会自体がこれまでの小学校生活を振り返っていたので、私も話を聞きながらこれまでを考えていた。子供が新一年生になる年の3月に震災は起こった、卒園式もなく避難し、小学校再開も目処は立っていなかった。縁を頼った避難先で2年を過ごした頃、避難が順次解除になると噂が立った、夫とは離れ離れで、手狭な借り上げ賃貸での生活に疲弊し限界が来ていた。いつまでも縁や他者の気遣いを受けて生活することは、自立から遠ざかるようで嫌だった。何より避難が延長になるのか解除になるのか6ケ月前に見当がつかないのだ、他力本願で受け身のまま人生を送りたくなかった。関東圏に転勤を願い出受理された。住民票を移す事で避難者ではなくなるということだったのだが、転勤自体が避難者と云う括りで受理された為、厳密には転勤扱いにはならず夫の会社から住宅費援助は無しということだった。自腹での関東圏での生活は住宅費が高く痛かったが、自立した生活が送れることには代えがたかった。

これまでの積み重ねを捨てる覚悟を数日で行った、逃げまどった数年間、未来も予定もすべて白紙になったように感じた、震災と原発事故は突発的で予測していなかった、震災後選んで望んで関東圏に来たのは自分だった、しかし不可抗力だった、他にどんな手立てがあったというのか、被害的な気持ち、後悔と失望。空しかった、なんでこんな思いをしなくてはいけないんだろう。真面目に一生懸命生きてきたはずだったのに。津波ではなく原子力発電所の爆発事故で転居し、失ったものは大きくないように見えるのに、無形の様々な過去や人間関係を失い、我慢も忍耐も実を結ばなかった。有るのに無かった、言葉にし難い喪失感で息が止まりそうだった。

今は東日本大震災から11年が経過し子供も高校3年生となっており、数年前から自分の心に取り組み始めこのブログを綴っている。子供の小学校卒業の年のパニック的な症状は分岐点だったように思う。あの時、東日本大震災で精神的にどれだけ犠牲を払ったか思い知ったのかもしれない、これまで本当の気持ちを無視してきたショックが自分を襲ったのかもしれないと感じている。しっくりくる言葉は見つからないけれど、この状況も数年後に振り返ったら、気づきがあるのかもしれないと感じている。

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東日本大震災から6年①

2022-04-11 21:20:02 | 東日本大震災

東日本大震災から6年経過した時の過去の話、子供の小学校卒業の保護者会で突然息が苦しくなった。

「足掛け12年、2人の子供がこの小学校にお世話になりました、楽しく充実した12年間でした。」他のお母さんの発表を聞いた時、私の中で何かがプツンと切れた気がした、息ができなかった、苦しくて早くこの席から逃げ出したかった。震災は過去のものであり、実は未だに苦しむ人間がここにいることは、想像されていなかった。

私には、この6年間は苦しみの連続だった、苦しみながら生活を紡ぐことが未来に繋がれば、その一心で持ちこたえていた。子供が新入学を迎える年で卒園式前だった、突然の被災で逃げまどい何度か転居し、その都度新しい生活に適応しようと努力し疲弊していた、この生活の先にある達成感は遠かった。それなのに保護者として充実した小学校生活を送れたと、幸せだったと微笑む人がこの場に存在するのだ。

「楽しい12年間」という言葉は、何かが得られると信じて頑張ってきた自分が崩れる破壊力のある言葉だった。保護者会の後、誰も居なくなるまで廊下の端のベンチに座っていた、苦しくて立ち上がれなかった。震災で引っ越してきたと知る人も、誰も、大丈夫?と慮る人はいなかった、皆自分のことでいっぱいだった、私も含めて。

数か月後、この地で親しくなった子供の同級のお母さんにこの話をしたら「6年も経ったのに?今頃?」と不思議そうにされた。そうだよね「今頃」だよね、しかし「ずっと」なのかもしれないなと漠然と感じた。この地でも東日本大震災で被災し苦しまれた方もいらっしゃったと思う、乗り越えて幸せだったと言ってらっしゃるのかもしれない。しかし私は今はまだ、辛苦を乗り越えた上で「幸せだった」とは言えない状況だった、傷は生々しく膿み、今まさに苦しみの真っ最中だった。

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