予想に反して拷問のような時を過ごした保護者会、思えば他の母親たちと同じく小学校卒業という節目で、子育ての努力が報われるような達成感を噛みしめて、人生の礎にしたい気持ちがあったのかもしれない。比較するものでもなかったとは思うけれど、他の現実と私の世界は隔絶していて衝撃を受けた。
小学校卒業の保護者会自体がこれまでの小学校生活を振り返っていたので、私も話を聞きながらこれまでを考えていた。子供が新一年生になる年の3月に震災は起こった、卒園式もなく避難し、小学校再開も目処は立っていなかった。縁を頼った避難先で2年を過ごした頃、避難が順次解除になると噂が立った、夫とは離れ離れで、手狭な借り上げ賃貸での生活に疲弊し限界が来ていた。いつまでも縁や他者の気遣いを受けて生活することは、自立から遠ざかるようで嫌だった。何より避難が延長になるのか解除になるのか6ケ月前に見当がつかないのだ、他力本願で受け身のまま人生を送りたくなかった。関東圏に転勤を願い出受理された。住民票を移す事で避難者ではなくなるということだったのだが、転勤自体が避難者と云う括りで受理された為、厳密には転勤扱いにはならず夫の会社から住宅費援助は無しということだった。自腹での関東圏での生活は住宅費が高く痛かったが、自立した生活が送れることには代えがたかった。
これまでの積み重ねを捨てる覚悟を数日で行った、逃げまどった数年間、未来も予定もすべて白紙になったように感じた、震災と原発事故は突発的で予測していなかった、震災後選んで望んで関東圏に来たのは自分だった、しかし不可抗力だった、他にどんな手立てがあったというのか、被害的な気持ち、後悔と失望。空しかった、なんでこんな思いをしなくてはいけないんだろう。真面目に一生懸命生きてきたはずだったのに。津波ではなく原子力発電所の爆発事故で転居し、失ったものは大きくないように見えるのに、無形の様々な過去や人間関係を失い、我慢も忍耐も実を結ばなかった。有るのに無かった、言葉にし難い喪失感で息が止まりそうだった。
今は東日本大震災から11年が経過し子供も高校3年生となっており、数年前から自分の心に取り組み始めこのブログを綴っている。子供の小学校卒業の年のパニック的な症状は分岐点だったように思う。あの時、東日本大震災で精神的にどれだけ犠牲を払ったか思い知ったのかもしれない、これまで本当の気持ちを無視してきたショックが自分を襲ったのかもしれないと感じている。しっくりくる言葉は見つからないけれど、この状況も数年後に振り返ったら、気づきがあるのかもしれないと感じている。