心を込めて

心の庵「偶垂ら庵」
ありのままを吐き出して 私の物語を紡ぎ直す

東日本大震災から6年②

2022-04-16 12:18:18 | 東日本大震災

予想に反して拷問のような時を過ごした保護者会、思えば他の母親たちと同じく小学校卒業という節目で、子育ての努力が報われるような達成感を噛みしめて、人生の礎にしたい気持ちがあったのかもしれない。比較するものでもなかったとは思うけれど、他の現実と私の世界は隔絶していて衝撃を受けた。

小学校卒業の保護者会自体がこれまでの小学校生活を振り返っていたので、私も話を聞きながらこれまでを考えていた。子供が新一年生になる年の3月に震災は起こった、卒園式もなく避難し、小学校再開も目処は立っていなかった。縁を頼った避難先で2年を過ごした頃、避難が順次解除になると噂が立った、夫とは離れ離れで、手狭な借り上げ賃貸での生活に疲弊し限界が来ていた。いつまでも縁や他者の気遣いを受けて生活することは、自立から遠ざかるようで嫌だった。何より避難が延長になるのか解除になるのか6ケ月前に見当がつかないのだ、他力本願で受け身のまま人生を送りたくなかった。関東圏に転勤を願い出受理された。住民票を移す事で避難者ではなくなるということだったのだが、転勤自体が避難者と云う括りで受理された為、厳密には転勤扱いにはならず夫の会社から住宅費援助は無しということだった。自腹での関東圏での生活は住宅費が高く痛かったが、自立した生活が送れることには代えがたかった。

これまでの積み重ねを捨てる覚悟を数日で行った、逃げまどった数年間、未来も予定もすべて白紙になったように感じた、震災と原発事故は突発的で予測していなかった、震災後選んで望んで関東圏に来たのは自分だった、しかし不可抗力だった、他にどんな手立てがあったというのか、被害的な気持ち、後悔と失望。空しかった、なんでこんな思いをしなくてはいけないんだろう。真面目に一生懸命生きてきたはずだったのに。津波ではなく原子力発電所の爆発事故で転居し、失ったものは大きくないように見えるのに、無形の様々な過去や人間関係を失い、我慢も忍耐も実を結ばなかった。有るのに無かった、言葉にし難い喪失感で息が止まりそうだった。

今は東日本大震災から11年が経過し子供も高校3年生となっており、数年前から自分の心に取り組み始めこのブログを綴っている。子供の小学校卒業の年のパニック的な症状は分岐点だったように思う。あの時、東日本大震災で精神的にどれだけ犠牲を払ったか思い知ったのかもしれない、これまで本当の気持ちを無視してきたショックが自分を襲ったのかもしれないと感じている。しっくりくる言葉は見つからないけれど、この状況も数年後に振り返ったら、気づきがあるのかもしれないと感じている。


東日本大震災から6年①

2022-04-11 21:20:02 | 東日本大震災

東日本大震災から6年経過した時の過去の話、子供の小学校卒業の保護者会で突然息が苦しくなった。

「足掛け12年、2人の子供がこの小学校にお世話になりました、楽しく充実した12年間でした。」他のお母さんの発表を聞いた時、私の中で何かがプツンと切れた気がした、息ができなかった、苦しくて早くこの席から逃げ出したかった。震災は過去のものであり、実は未だに苦しむ人間がここにいることは、想像されていなかった。

私には、この6年間は苦しみの連続だった、苦しみながら生活を紡ぐことが未来に繋がれば、その一心で持ちこたえていた。子供が新入学を迎える年で卒園式前だった、突然の被災で逃げまどい何度か転居し、その都度新しい生活に適応しようと努力し疲弊していた、この生活の先にある達成感は遠かった。それなのに保護者として充実した小学校生活を送れたと、幸せだったと微笑む人がこの場に存在するのだ。

「楽しい12年間」という言葉は、何かが得られると信じて頑張ってきた自分が崩れる破壊力のある言葉だった。保護者会の後、誰も居なくなるまで廊下の端のベンチに座っていた、苦しくて立ち上がれなかった。震災で引っ越してきたと知る人も、誰も、大丈夫?と慮る人はいなかった、皆自分のことでいっぱいだった、私も含めて。

数か月後、この地で親しくなった子供の同級のお母さんにこの話をしたら「6年も経ったのに?今頃?」と不思議そうにされた。そうだよね「今頃」だよね、しかし「ずっと」なのかもしれないなと漠然と感じた。この地でも東日本大震災で被災し苦しまれた方もいらっしゃったと思う、乗り越えて幸せだったと言ってらっしゃるのかもしれない。しかし私は今はまだ、辛苦を乗り越えた上で「幸せだった」とは言えない状況だった、傷は生々しく膿み、今まさに苦しみの真っ最中だった。


まだ震災やってるんですか

2022-03-27 12:39:33 | 東日本大震災

「まだ震災やってるんですか」

東日本大震災から2年経ち居を定めた関東圏で、子供の担任となった先生に面談時に言われた言葉。

言いようのないモヤモヤが黒い雲のように胸のなかで膨らんでいった。津波で流された家々や、荒れ果てた生まれ故郷が記憶の中で生々しく蘇った、苦しみと絶望の中で家族の死を迎え、無念と混沌の中で必死に生きようとしてきた多くの人々を思い出した。

思いやりとは、怒りとは、絶望とは、無念とは、そして希望とは、どう生きるのか生きたいのか、見つめ直さなくてはいけないのかも知れないと、うっすらと感じた、でもまだ考えたくなかった考えるのは辛過ぎた。

この当時の写真を見返すと、無理をして明るく振る舞う自分の笑顔がある。「皆が被災者」「もっと大変な人がいっぱいいる」と自分を鼓舞し、家では寝込み体が動かないのに、外に出てはPTAや子供の習い事に精を出し、仕事も探して働き始めたりと、自分の人生を肯定的に捉えようと必死だった。

今となってはそんな無理などしなくてよかったんだよ。哀しかったし辛かったよねと言ってあげたい、自分に優しくあって良かったのだと言ってあげたい、欲しかったのはきっとこんな言葉だったのだ。


可哀想に

2022-03-27 12:11:20 | 東日本大震災

「まぁ~可哀想に」

東日本大震災で避難先である東北を転々とし、震災に振り回されたくない、受動的ではなく能動的に人生を生きたいと転居した先で、散歩中の老婆に身の上話をする流れになってしまい、話した結果開口一番に言われた言葉だ。

そんな言葉をかけられるとは想像していなかった、老婆に気まずさは無く、自分は娘が呼び寄せてくれた、自分は長く勤めあげた、子供や孫もエリート街道を生きている、人生のご褒美の残り少ない時間をこれからは楽しんでいきたいと言った。

立ち位置が違うことで見えるものは全く違うのだと感じた、私は阪神淡路大震災の被災者に心から寄り添えていたのだろうか、戦争経験のある祖父母世代の苦しみに寄り添えていたのだろうか、経験者と未経験者ではこんなにも隔絶しているということに愕然とした出来事だった。

 


逃げたんだよね

2022-03-27 11:08:28 | 東日本大震災

心に深く刺さっている言葉がある「あなたたちは逃げたんだよね」

地域に貢献し地域の為に努力する意義を私は知っている、親孝行をして親戚を大切にし助け合う素晴らしさを私は知っている。

逃げたんだよねと親戚の高齢の女性に言われ、それを「シッ」とたしなめる別の女性、戸惑う私とのやり取りを冷めた目で見る多くの親戚。

針の筵とはこういうことを言うのかと、険悪な雰囲気の共通認識はこれであったのかと腑に落ちた瞬間だった。

罪を罪と認識していた、そうなのだ、逃げたと言われたら逃げたのだ、何も言い返せない、だってその通りなのだから。

「直ちに影響はありません」と各局の報道が変化したタイミングで「これまで」を捨てる判断をした。

アルバムと貴重品、身の回りのもの、直ぐに食べられるもの、水、毛布。

帰れなくなったとしても致し方ない、積み重ねが徒労となっても、生きていれば生きていける、危機的判断だった。