心を込めて

心の庵「偶垂ら庵」
ありのままを吐き出して 私の物語を紡ぎ直す

悲しませたくない

2023-10-29 19:34:05 | 新しい心持へ

悲しませたくない、誰を、母を。

好きになってほしかった、私を信じてほしかった。

心に傷を負ったのは何時だったのか、深い心の底にあるのは「悲しませたくない」という思い。

母を悲しませたくなかった、母に笑ってほしかった、母が大好きだった。

でもいつも悲しませた、そして自分への無力感を感じていた気がする。

 

「自由人な姉は母に叩かれていた、姉を反面教師に妹である私は賢く立ち回ったの」ある会話の中の誰かの発言。

口に出さず考えたのは、本当にその方のお姉さんは自分勝手だったのかという事。もしかしたら母の定めたルールに従えなかったから、受け入れられないからこその反発だったとしたら。

私は母の与えた駄目なお姉ちゃんの役は嫌だった、愛されたいという欲求はあるけれど引き換えに本心を誤魔化すことはできなかった。ありのままを認めてほしいのに、自分勝手なお姉ちゃんという役を受け入れるなんてできなかった。

もし、慰め役が与えられていたら上手くいっていたのであろうか?否かもしれない、母の認識の不合理に子供心ながら反発があったから。常に回避して私は可哀想と自己防衛している母だったから、きっと相容れなかった。

今も関わる時の虚しさと空虚感は変わらない。もう好きになる努力はしていないが、この部分が罪悪感の根源な気がしている。自分の大好きな人が自分を好きか嫌いかは分かるもの、認めたくはないが「母は私を愛さない」という諦観が肝心な気がしている、辛すぎて受け入れられなかったから曖昧にしていた病巣、自己肯定感を損なうもの。この心の折り合いをどうつけるかはこれからの課題、私は母を諦められるのだろうか。

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強く自分を信じるんだ

2023-10-29 11:28:20 | 気づかされた言葉

「強く自分を信じるんだ、可能なんだってずっと信じるんだ」サッカー選手ロナウドのインタビュー記事から得た言葉。

自分を信じたい、でも恐怖がある。

何故怖いの?それは怒られるから、自分でいると怒られるから。

自分を信じたって無駄だから、自分を信じて否定されてまた傷つくのが怖いから。

誰かの気分を損じたら、私が良いと思った出来事の価値は無になるから。

間違っていないと言ったところで信じてもらえないから。

だったら初めから自分を信じなければいい、自分は駄目な人間だと思っていれば安心だから。

 

「だけど自分を信じたいんだ、自分には価値があるんだって信じたいんだ」

勇気を振り絞って自分を信じる、罪悪感をグッとこらえて、これまでの自分を上書きする。

大丈夫、自分の感情を信じて大丈夫、自分の信念を信じて大丈夫。

悪口や嫌味を言われても大丈夫、あなたはあなたの為に生きていても大丈夫。

私は私を信じて大丈夫、努力して生きてきたこれまでが私の価値。

出来るだけ合理に寄せて、感情に支配され過ぎないこと。

私が感情的に納得できなくても、社会的常識に照らして合理的であるならそれが正解。

感情があるのは人として当たり前の事、それは人間社会で当たり前の事、間違っていても生きていていいのだ。

 

苦しんでいるのは「自分を信じる事」に罪悪感があるから、さらに掘り下げてみると防衛反応に気づく。自分を空にして誰かに決めてもらうほうが楽、だってそうすれば自分の責任じゃなくなる、自分は否応なしだった不可抗力だったと逃げられる、被害者になれるから。それが私のいつもの癖、間違った認知なのだ。モヤモヤと苦しみの根源なのだ。

 

 

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自分よりも相手が優先だから

2023-10-12 11:54:06 | 気づかされた言葉

「自分ばかり話過ぎてしまった」(反省)

「あの言い方は良くなかった」(自責)

「相手は嫌な気持ちになったのでは」(不安)

自分が言いたいことよりも、相手が言ってほしい事を選び、自分の機嫌よりも相手の機嫌を優先する。自分が楽しくても相手がつまらなさそうならば失敗であり駄目なこと。自分が楽しむことよりも相手が楽しむことを大切にするのが当たり前、最優先事項。

自分の考えや意見を言う事は良くない事という思い込み。良い事であっても悪い事であっても、相手が否定したらそれは駄目なこと。自分の感情は在ってはいけないもの迷惑なこと、自分が自分でいることは迷惑なこと。感情を消せなかった私は「自分勝手」、家族も言い学校の友人も言い、そして自身も自分勝手だと信じていた。誰の為の都合なのか、そして誰の為にそう信じ込んだのか。親の為の都合?私が自己保身の為に信じ込んだのか?

当時の私は認知を間違えたんだ。私は自分勝手なんかじゃない!もう誰かの都合に振り回されたくない!私は私の為に生きる、それは「誰か」には自分勝手に見えるかもしれないけれど、自分が自分の大切に思う何かの為に自分を使う事は間違っていない。自分を信じる、誰かに否定されたとしても。

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なせ助けを求めないのか

2023-10-12 10:46:54 | モヤモヤする事

困っているから助けてとは言えなかった、困っていることは迷惑だから、困っている自分は迷惑だから。

なぜ困っているのに助けを求めないのかと言われても困ってしまう。

困っている時は息を殺し、心と体を切り離してただ耐えるしかできないから。

助けを求めるという選択肢は在っても無い、そもそも助けを求める許可は得ていないから。

助けを求めることは恐怖、最終的に身の破滅、回りまわって自分が攻撃される。

私が困って迷惑なのは誰?攻撃するのは誰?どうしてそう思い込んだの?

誰も助けてくれないと思い込んだのはどうして?

 

その根源は何なのか、解りそうで怖い。

気付いちゃいけないの、親に気づかれちゃいけないの、駄目なのは私。

自分を信じて取り組みたい、勇気のいる作業。

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重荷を下ろす

2023-10-11 21:03:34 | 新しい心持へ

歳月は経験値となり今の私を形作る、ここ数年の自分を見つめ直す努力も実を結んだと感じた出来事。

30年ぶりに学生時代の同級生と会う機会があった。「学生時代は壁を感じた」「一面しか見せないようにしてたよね」「家族が厳しいと言っていたよね」皆の前での過去の失敗を含めての声掛けに上ずってしまい、少し感情的になってしまった。

親元を離れたばかりの未熟な私には苦しかった学生時代、苦い思い出がトラウマとなっていて会うのが怖い気持ちは0じゃなかった。当時は皆が普通にできる事ができなくて悔しく強く恥じ入っていたから。勉強、ファッション、女の子らしい関り、楽しむことが苦手だったし皆が怖かった。そして、当時の自分は罪悪感でいっぱいだった、親元を離れて大学に行くことは親不孝であり家を出ることは罪であり、高卒で働きすぐに親を助けるのが務めだと言われて育てられていたから。「進学を許す自分たち親に感謝しろ」「親に迷惑をかけて」心重い自立の一歩だった。

感情的になって本音を暴露してしまった、未熟者だったという懺悔、しかし私は繕う事を避けた「自分でいる」ことにしたから。勇気を出して朗らかに、しかし自分を保ちつつ、相手を信じて自分を信じて、偽りのない本当の感情を口にすることにした。

次は感情のコントロールが課題だなと感じながら、話し合っていてこういう関係性もあるのだなと感じた。感情を話しても許される関係性、相手の望むことを取り繕う必要のない関係性、学生時代の「こうでなくてはならない」は存在しなかったのかもしれないなと感じた。そして、人生の節目節目に仕事や人生の悩みを打ち明けられていたら、苦しいばかりの人生でもなかったのかもしれないと感じた。

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