心を込めて

心の庵「偶垂ら庵」
ありのままを吐き出して 私の物語を紡ぎ直す

世界が変わる

2022-09-24 23:14:47 | 新しい心持へ

父や母、舅や姑、義理姉、嫌みな先輩、悪意を向けてきた人、グループで私のネガティブキャンペーンをしてくる人達の、理由があるようで無い嫌み、価値を下げてくるようなちくりとした文句、これまで何故そのような態度をとってくるのか疑問だった。

そうなる原因は自分にあるんだろう、私が悪いからと感じてきた。彼らが怒るのは、虐めてくるのは、悪口を言ってくるその原因は自分にあるんだと考えてきた。小・中学校と明らかに人の気持ちがわからなくて傷つけてしまったこともあったから。それからは傷つけてしまった発言に対しては振り返り、吟味反省し、以後の言動には細心の注意を払ってきた。中学時代はクラス中に無視されていたが、これも自分の過失がこまねいた結果だから罰を受けるのは当然だと感じていた。

過失であっても人を傷つけるような言動や態度を、決してとってはならないという思い込みが生まれた。社会人になってからは特に。失敗は許されない。もう二度とあんな思いはしたくなかった、あんな大変な思いをするくらいなら自分を押し殺したほうが楽だった、自分なんて簡単に誤魔化せるのだから。いい人を演じるようになった、意地悪されても嫌みを言われても嫌だと感じたり態度に出してもならないのだ。相手の望むように母にするように、そして相手が言語化していない意図までをも酌むことに集中し腐心してきた。

その癖は未だに抜けず(疲れるし、いい人を演じる偽善的な自分を感じるのが苦痛だけれど、今は自分に向き合って健康な対応を心掛けているが)基本的にいい人をしているはずなのだが、それでも反感を向けてくるのは何故なのか理解できないでいた、愛しても優しくしても私を虐げる母にもだけれど。しかし今日、自己愛性パーソナリティ障害という知識を得た。

何故、私が嬉しい時や成功した時に嫌みを言う人がいるのか、「大したことない」と価値を下げるようなことを言う人がいるのか分かった気がする。信頼できる人と談笑している時、職場で仕事が上手くいった時に冷や水を浴びせるような事を言ってくる人がいるのか理解出来た気がする。これまでずっと謎だった、特定の人から感じる違和感、面白くないという感情、そして母がなぜ喜ばなかったのか、おぼろげながら輪郭がつかめてきた気がする、そんな考えはなかった。知ることができたのは幸いだった世界が変わった気がする。

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人は平等じゃない

2022-09-11 22:18:24 | モヤモヤする事

「人は平等だ」なんてなんで思い込んだのだろう。平等なんかじゃないのに、生まれつき能力に差があるのに。

「上手くできないのは努力が足りないから」とずっと劣等感を抱いてきた。世の中にはちょっとした努力で上手くできる人も多いというのが実感で、私は皆が簡単にできることは努力しなければ出来なかったし、皆が難しいことはかなり努力しなければ出来なかった、特に整列、集団行動、会話、小学校時代の私はトラブルメーカーだった。私は今で言うなら手助けが必要な子どもだったのだろう、多分発達的な問題だ。

仲間外れになって、先生や親に叱責されて、そして友人宅で気まずい思いを何度もした。その都度、何かが決定的によくないことは理解できた、混乱しどんな態度を取ればいいのか分からなかった。上手くできない自分への怒りと憤りで気が狂いそうだった。適切な態度が判らない、怒られないために真面目に嘘を付く、そんな態度はきっと特徴的だったろうと思う。しかし、わざとしているわけではない、そうせざるを得ない子供なりの状況があったのだ、生きるための手段だったのだ。

「平等で公平であるべき」社会的な建前は重要だ、それはつまり人間は差別する生き物だから。人間社会は差別が横行する世界なんだと思い知る、ヨーロッパとかアジアとか大きな括りでも、知り合い程度のグループでも、家族でも、そして自分も。生まれ持った性質は様々で家庭環境も様々で、人は平等じゃないという事を思い知る、そしてモヤモヤする。

理解が足りなかったのだ、人としての成熟、自立も。精神世界を学ばなければ気づかなかったことが沢山ある。大前提を知り得なかったのだ、自分だけ見えてなかったから。ある意味今もこれからもなのかもしれないけれど、学ばなければ知り得ない自分に失望するけれど、自分が悔しいけれど、きっとこれは生まれ持った私のカードだから、持ち札で勝負するしかないのだ。

トラウマを癒し知識を身に着ける、私にはなりたい自分の目標があるのだ。自分の拙さを知るのは苦痛だけれど自分を変えることは苦痛ではない。生きづらさでずっと苦しかった、しかし今は自分を愛し信じることにしたから、だから少し楽なんだ、不思議な気分。

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