母からの荷物が届いた、前日に電話もあった。便りには友人との楽しかった青森旅行と顛末、自信作である吊り柿についてもしたためられていた。
一個人としてなら、楽しく過ごせてよかったねと言ってあげられるが、娘としての母との関係には複雑な心境があり、素直に喜べない。母への嫌悪感を自己嫌悪はもうしないけれど、母にとって私の苦悩は理解できないものであり、過去のものなのだ。
前日の電話で私の近況を聞いてきた、勇んで話す私の話の内容に返事もそぞろで、直ぐに末尾の挨拶に向かう母、問いかけで義理は済んだというのだろうか。
私の愛されたいという欲求、母との一方的な嚙み合わない会話、昔から彼女は自分の世界で生きていて、そこに一人の人間としての私個人の感情は存在しないのだ。彼女は私には私の世界観がある事を理解できない、だからただ「なぞらえる様に」会話を進める。彼女が思っている世界は「彼女だけのものでしかない」ということを知らない。だから娘の感情や世界観は彼女の世界には存在しない、話しても理解できないのだ。
母と過ごす時間は子供の頃から何時もむなしい、感情の交流がないのだ。私が困っても悩んでも相談しても彼女には他人事のよう、理解できないと示し、母とは切り離したものとして実のない一般論を口にし、最後はうまくできない私を叱責する。
彼女は今幸せなのだろうか?
私はどうしたらいいのだろうか。母との関りを最低限に断っても、関りへの虚しさは消えない。
自分を振り向かない母への失望と執着、心理的離乳、母からもらえなかった無償の愛への渇望と、私個人の自立と成熟と愛着。何度でも取り組む課題なんだろうと感じている。