心を込めて

心の庵「偶垂ら庵」
ありのままを吐き出して 私の物語を紡ぎ直す

高校の制服

2022-05-10 15:40:21 | かなしい記憶

踏みにじられたと感じるような思い出、かなしい記憶を書き換え中の私は、新たな気付きによって新しい認知に至るよう努力している。犬用洗濯機の出来事で掘り起こされた思い出がある、高校卒業後の私の制服についてだ。

辛い子供時代だった私にとって、高校卒業の頃には自己肯定感は下がりきり家族とはいい関係性ではなかった。そんな中でも高校時代は友人と呼べる人間関係を作ることができ、学業にいそしみ成果と呼べるものを糧にしてステップアップできた、貴重な思い出を作ることができた。しかし、卒業後遠方の進学先で一人暮らしを始めて気が付いたことは、自分が一人の人間としてあまりにも未熟だったという事だった。他者との関係性もストレスであったが、自分は社会的なマナーがまるでなっていなかった。田舎丸出しの交流方法は顰蹙をかっていた、大家さんや教務陣との関係性、サークルや実習先やバイト先との関係性、何が悪いのか分からず犯した失敗の数々は自分を打ちのめした。

夏休みに帰省した折に自分の部屋でくつろいでいた、うまくいかないことも多かったが何とか対処していくしか方法はあるまいと、高校での成功体験を反芻し思案していた。ふとクローゼットを確認したら高校の制服が無くなっていた、まるで成功がなかったかのように感じられた、拠り所がなくなった気がした。妹に聞いたら高校の友人にあげたという、校則違反の隠れ蓑に校則順守の長さの私のスカートが役立つと言った。「私の所有物」「勝手に断りもなく」「姉が買ったわけじゃない」「心が狭い」言い争いの果てに母が登場した、不公平な裁判官の母はもちろん妹の味方だった。「あなたは優しくない」「高校は卒業したんだから要らないでしょ」「妹は優しいから姉の制服を譲った」「妹に嫌がらせはやめなさい」「あなたは本当に心が狭い」「自分勝手なお姉ちゃん」もちろん納得などできなかった、どうであれ他人の所有物だったものを所有者に断りもなく他人に与えるのは横暴である。

何処まで行っても私は踏みにじられるのだと哀しくなった、制服は服とはいえ私の心の拠り所であっのだと思い至った。私の感情を慮れない家族なのは相変わらずだ、やっぱり私は勝手な人間なのか、だからうまくいかないのかと誤った認知に至っていたと思う。そして、なんで妹は悪びれもせず、言い争い中もその後も「自分は正しいことをしている」と自信にあふれているのが理解できなかった。

何故、他人の感情を踏みにじるのか。何故、大事なものだったと伝えても取り合ってもらえないのか。何故、哀しかったと伝えても謝罪してもらえないのか。今は、何故こんな関係性だったのか、母と妹の関係性や家族の病理にも考えが至っている、少しづつ吹っ切れている。私は変わると決めたから、もう自分が悪かったなんて自分を責めないと決めたから、よりよい人生を生きると決めたから、もう自分を責めながら生きる人生を送りたくないと決めたから、浄化して行動すると決めたから、きっとうまくいくと信じている。


自分の評価を他人に譲らない

2022-05-10 15:24:57 | 新しい心持へ

「自分の評価を人にゆだねない」

自分の評価を他人任せにしない、自己犠牲しなくても私は生きていていい、自分を優先にしていい。

そのままの私でそのままここに居ていい、自立するのだ、ありのままの心持でも生きていっていい。

常に誰かの役に立たなくても生きていていい、自分を見失わないで。

 


洗濯機

2022-05-08 21:16:14 | モヤモヤする事

久しぶりに福島の家に帰宅したら、子世帯にあった未使用新品の洗濯機が犬専用として使用されていた。かなり前に夫には使用許可の連絡があり、諾と返事をしたようだった。洗濯機は東日本大震災時に借り上げ住宅で使用す為赤十字から頂戴したものだった、しかし狭いアパートには設置できず、そのまま子世帯に設置してあったのだ。いつか福島に帰れたら使用しようと考えていたので、勝手に使用されてはっきり言って不愉快だった。恥もなく犬用に使用してよいかと聞いてきた舅と、それを諾と言った夫。持ち主の一人である私に何の伺いも立てなかったことに腹が立った。

以前の私ならモヤモヤするだけでごまかした怒りであるが、私はもう自分を踏みにじる行為を許したくない、もう私の大切な感情を譲りたくないのだ。「自分の本当の気持ちに気付いている」これは嬉しい変化であり、自分を見つめ直す努力を継続した結果だと感動した、本当に嬉しかった。

しかし、いつかは同居に戻る予定にしている、まさかこんな対応をとっているとは思いもしなかった。腹立たしいポイントは舅もではあるが、一番は私の「夫」が「妻である私」を尊重していないという点に尽きる、震災以前の軋轢を思い出す、同居において散々に心を踏みにじられてきた、その点について夫とは話し合い意思疎通がとれていると考えていたが、それは間違いだったようだ。

二世帯同居において「夫」は「息子」になっていたと思う、父母が同居しているのだから息子になってしまうのは当たり前なのだ。しかし妻である私にとっては「夫」な訳で、妻よりも頻繁に横やりを入れてくる夫の原家族が優先される生活は苦痛だった。息子にならば当たり前の要求でも、子世帯への要求となると意味が変わる、違う家庭なのだから。同居は土地柄や世代的なもの、母子や家庭の在り方、各個人の性質や認知や関係性の病理、嫁・同居への認識の違いが「軋轢の根源」で、同居できる自信があったとしても実際始めたら思いの他うまくいかないものだ。まして私の舅姑は結婚後どちらの親とも同居したことが無いので、嫁への認識が戦争当時のものだった。同居経験もないのに自分たちは理解のある姑舅だと自認していた。

いずれ訪れる同居に備えて夫に認識を持ってもらいたかったので、今後の夫婦生活の為にも自分の認識を伝えることにした。夫は「知るかそんな感情」「洗濯機ごときで」「買って返せばいいのか」と怒り心頭であった。合理的でありたい彼には、使用する予定のない洗濯機を有効利用してもらったという認識で、親の役に立てて嬉しいのだ。それなのに感情でごちゃごちゃ言って混ぜ返す私に怒りが湧く。彼自身は嫌な感情を合理と理性とで無理やり抑えているので(彼の病理はそこにある)だから彼は苦しいのだ。彼自身が自分の感情を認められないという「弱さ」だ。いずれにしても夫婦の齟齬に対する表現が怒りやきめんこではお話にならない、合理と理性からかけ離れている。夫の怒りが和らいだタイミングで少し話した、もしかするとなるべく同居を遠ざけたほうがいいのかもしれないと夫との話で共通認識を得た。


人間なんてこんなもの

2022-05-03 21:34:56 | 新しい心持へ

「人間なんてこんなもの」

「自分らしくやる」 「開き直る」 「失敗を恐れない」

「人間はこんなもの」 「自立する」 「嫌われても大丈夫」

「トラウマを癒す」 「客観的に理解する」 「理性に寄せる」

 

これまで他者を過剰に気にしてきた、答えが欲しかったから、「母」に愛されない理由を知りたかったから。

その理由の多くは多分母自身の中にあるのだと思う、人間なんてそんなものなのかもしれない。

震災後の混乱の中傷つけあったのも、職場の混乱で傷つけあってるのも、人間だからなのかもしれない。