旅の後半では、下の地図の➊と➋をまわりました。また、後の下線部の数字にも対応しています。
地図中で赤く着色しているのはザビエルが逝去した地、上川島です。
自分が撮った画像がグダグダなため、Cちゃんの許可を得て彼女が撮った画像には★を付して載せています。
1・2 マカオ ⇔香港(上環・尖沙咀) (2009年12月31日)
ホテルの朝食が付いていないプランのため、前日と同様にローカル食堂にて朝食。
自分はワンタン麺をチョイス。
Cちゃんが食したのはこちら。備忘録に記載がなく料理名は不明だが、見た感じ 米を原料とする麺のようだ。 ★
この日はまだ足を踏み入れていないマカオ半島内のエリアを見学した後、香港へ日帰りで行くことになっていた。
まずはギア要塞へ【標高92m、マカオで最も高い場所である。1622年のオランダ軍による攻撃・上陸の後にポルトガルが要塞を築き、19世紀後半には灯台が置かれた。17世紀前半、修道女により築かれた教会がそれに寄り添う】。
ギア教会に入り、振り返ってみる。上部の採光窓の付近、壁にうっすら植物文様が残っている。
もっと奥から撮ると、こんな感じ。よりクッキリと文様が浮かび上がる。 ★
ぽっかり空いている棚に、かつては何が飾られていたのだろうか。
天使のフレスコ画。
祭壇にはマリア様。
教会に獅子 さすがマカオ、東洋との融合っぷりがいい。
Cちゃんに撮ってもらった自分にモザイクをかけた。
外に出てみると、要塞時代の名残りが見てとれた(なお、修復のため竹で格子が組まれている)。 ★
埋め立てが進み今や町に囲まれているが、かつてはすぐ下に海岸線が広がっていたという。
そして錨・・・ここまで運びあげたのか、それとも初めから装飾として置かれていたのか ★
要塞を下りて、西へ向かう。途中、バスコ=ダ=ガマの胸像が鎮座する公園を通過【彼はマカオに足を運んでいないが、海洋王国としてのポルトガル繁栄の礎を築いた功績をたたえ、1898年=インド航路発見400周年を記念して公園が造られた】。 ★
北北東へ200mほど進み、塔石広場に到着。画像右、クリスマス装飾の奥にご注目あれ。ここは黄色と臙脂色のカラーリングが印象的な建物が並ぶ空間なのである。
100mほど西へ進むと、聖ミカエル墓地がある。
郊外に墓地を置く傾向にある日本の感覚からすると、町なかにあるのが不思議な気がする・・・
墓地内にある聖ミカエル教会【19世紀後半築】。
入口側を振り返ってみる。 ★
ステンドグラス。
南へ150m、聖ラザロ教会にたどり着く【1570年、ハンセン病患者用施設付属の礼拝堂として建立】。んん~ (「その1」で紹介した)聖アントニオ教会に似てるよなぁ
それもそのはず 16世紀後半創建、マカオで古い教会の3本指に入るが現存するのは後世の建造物・・・両者には共通点があるのだった。
ステンドグラスの丸窓が開くようになってる、近代的だなぁ。 ★
東洋風のランプシェード、教会には珍しいのでは・・・
さて。外港にあるマリタイム・フェリーターミナルからターボジェットに乗り、香港へ向かう。
マカオ特別行政区の旗がはためいている。その奥に写るはマカオ半島とタイパ地区を結ぶ友誼大橋(画像右奥がタイパ)。
香港までは1時間。卑近な話になるが、瀬戸内海沿岸で育った自分は赤ん坊の頃から父の仕事の都合でモーターボートに乗せられていたらしい。よって、船には自信があった。
が・・・見事に船酔い 船内は満席近い状態だったが、早い段階で酔いはじめた人々がゲェゲェと盛大にえずくのを耳にするうち、自分も具合が悪くなっていた。同じルートの帰路は全然平気だったので、潮流の問題なのかもしれない。何にせよ、食後すぐに乗るのは避けたほうが無難だと思う。
Cちゃんもそれなりに酔ったようで、香港島は上環のフェリーターミナルに降り立った私たちは、ひっくり返ったような胃を抱えながら街をフラついた。
2階建ての路面電車、かっこいい
気分不快がようやく収まってきた頃、食堂に入った。香港は飲茶でしょ、と調べたお店【1889年、広州市でお菓子の店として創業、のち飲茶事業を展開。1918年、香港に出店。なお、本店は中華人民共和国成立(1949年)後に政府に接収された】。
肝心の店内とか食べた料理の画像を撮ってなくて、ごめんなさい 文章のみで・・・
朝6時から夜まで通しで営業していて、円卓がひしめく空間に、地元民が引きも切らずやって来て賑わっていた。狭い通路を、蒸籠を乗せたワゴンが行き来する。これが今や絶滅危惧種、旧来の飲茶スタイルという。端のテーブルに座った私たち。が、ワゴンが近くを全然通らず、料理にありつけない。ようやく来たワゴンに手を伸ばすと冷めていたが、背に腹は代えられず口に運ぶ。また待ちぼうけをくらわされ、やっと来たワゴンに載ったセイロを取ると、さっきのと同じ料理・・・これ人気ないメニューなんだろうな
そんなのの繰り返しだった。飲茶は17時までなのだが、私たちが訪れたのは昼食と夕食の間、中途半端な時間帯だったので混雑ピークが理由ではないと思われる。イチゲンの観光客が飛び込んで楽しむにはハード、玄人向きのお店なのだろう。中でもひときわ印象に残っているのは、「モミジ」といわれる鶏の趾骨を揚げた料理。物珍しさに負けて手に取ったが、形状がほぼそのままなので、口に入れるのを一瞬躊躇した。そして衝撃ゆえか、その味を全く記憶していないのだった
(この記事を書くにあたりお店を調べたところ、コロナ禍等の影響で惜しまれながら2022年8月に閉店していたことが判明。上環の系列店は営業しているようだが・・・。
そして、2023年9月に初の海外出店として東京銀座に店を構えたことも知る。香港の店はそうでもなかったが、銀座店はお値段高め・・・ランチだったら払えるかなぁ、比較したいから行ってみたい気もする、いつか)
中環からスターフェリーに乗り、対岸の九竜半島に渡る。1.5㎞、6分の船旅である
Cちゃんのたってのリクエストで、香港歴史博物館へ向かう。船着き場から東へ300m、ネイザン・ロードを通り過ぎてさらに200m、漆咸道南に突き当たったら左(北)へグイグイ歩く。なお、博物館も撮影していません
博物館を出た私たちは、ペ〇ンシュラホテルのアーケードをうろついたりして日が暮れるのを待った。
こちらは時計塔。 ★
【1911年開業、広州との間を結んだ九広鉄路は尖沙咀駅舎の一部。1970年代の駅舎取り壊しにあたり、保存運動によってこれのみ残された。1915年築、高さ44m。赤レンガ・花崗岩造】
ヴィクトリア湾の夜景、想像以上に美しかった。画像左の方にはクリスマスツリーの電飾も垣間見える。
スターフェリー船内にて。Cちゃんが撮ってくれた自分にモザイクをかけた。
再び中環に戻ってきて、トラムでヴィクトリア・ピークを目指す。大晦日の夜ということもあり、相当混んでいた。
乗り場へ向かう途中、かつての車体を展示しているコーナーがあった。 ★
ヴィクトリア・ピークの一大観光地っぷりに気圧されつつ、有名とされる夜景を眺める。んん~ 率直に言うなら、期待値が高すぎてハードル上がってたかもなぁ・・・自分的には湾の眺めのほう(3枚上の画像)が好みだった。
【この記事を書くにあたり調べたところ、「世界三大夜景」はいつ・何の機関によって認定されたか定かではないらしい。そこで、2012年に一般社団法人夜景観光コンベンション・ビューローが調査し、香港・モナコ・長崎を「世界新三大夜景」と認定した。さらに2021年の最新版ではモナコ・長崎・上海となり、香港は5位に転落した模様。どんどんアップデートされていくんだなぁ】
ショッピング・モールでお土産を物色などしていると、瞬く間に時間が過ぎていた。
今日中にマカオ行きのターボジェットに乗らねば かくして上環のフェリーターミナルへ急ぐ私たち。
なんとか0時前の船に間に合った、ふぅ
マカオへは1時間かかるので、12月31日に香港出境・1月1日にマカオ入境のスタンプがパスポートに押された。結果的に、南シナ海の上で年を越したのだった。
1 マカオ ⇒出国 (2010年1月1日)
この日は14時半の便でマカオから成田へ飛ぶことになっていた。
やはり、マカオ半島と中国本土の境界が気になるよね、ということでバスに乗って数十分、3㎞ほど北へ向かう。
近代的な税関ビルの前に、かつての石造りの門が残っている【刻まれている1849年というのは、ポルトガルが16世紀から続けてきた清への借地料の支払いを停止し、直轄地とする姿勢を示した年である】。
再びバスに乗り、セナド広場まで戻る。この旅のしめくくりに、足を運びたい場所があった。
新馬路から南西へ勾配のある道を400mほどのぼって行くと、聖ローレンス教会に行き当たる。そこからさらに北へ進むと、聖ヨセフ聖堂にたどり着いた。
正面の祭壇。中央にイエスを抱くヨセフ像、その右手前にはザビエル像。そう、ここはイエズス会の教会なんである【1728年にまず修道院が建てられた後、1758年までに聖堂がつくられた。バロック様式で、うねる柱が特徴的】。
ザビエルにズームアップ。
祭壇の手前には、最後の晩餐をモチーフにした台があった。
祭壇側から後ろを振り返ると、こんな感じ。 ★
さて・・・祭壇に向かって右手前に、聖フランシスコ=ザビエルの右上腕骨が飾られている。 ★
いまひとつピンボケなのだが、アップはこちら【1619年、この聖骨はインドのゴアに保管されている聖遺骸から切り離され、日本へ送られた。迫害下にある日本のキリシタンの求めに応じたものという。しかし凄まじい弾圧の中で安全に管理できる保証がないことから、マカオに送られた。以来 聖ポール天主堂で保管されていたが、1835年の火災の後、聖アントニオ教会を経てコロアンの聖フランシスコ=ザビエル教会に移され、1990年代途中からはこの教会に安置されている】。
大火事に遭っても焼失しなかったんだよなぁ・・・いの一番に聖職者が持って避難したのかな。
そもそも日本からマカオに送られなかったら、どうなっていたんだろうか。失われていたかもしれないし、そうでないかもしれない。
並大抵ではない紆余曲折を経て、この場所にまつられている聖骨にひととき思いを寄せた。
堂内を一歩出た袖廊でも絢爛な調度類が散見された。(以下2枚★)
ん 台座の中央で、心臓が輝きを放っている・・・日本で最も有名なザビエル肖像画(神戸市立博物館蔵)の左胸に描かれているのと似てるなぁ。
いよいよ滞在時間も残り少なくなってきた。再びセナド広場方面に向かって歩を進める。
ヘアサロンの青看板が気になった。理容院のマーク、日本と似てるよな~
【今回調べてみたところサインポールといい、中世ヨーロッパ(12世紀)に遡る歴史があり、世界共通のものらしい。日本では明治初期から看板に出すようになったという】
アパートがひしめく路地はアジアらしい佇まい。
去る前にもう一度 聖ポール天主堂を見ようと、セナド広場北西にある仁慈堂大樓の前を横切る。
聖フランシスコ=ザビエル教会のファサードを見た時も思ったが、西洋然とした建物に、右から読ませる漢字が書かれているのが面白い。
この地最後の食事は猪扒包【マカオを代表するB級グルメのひとつ、ポークチョップ・サンド。骨付きの豚肉を焼いたり揚げたりしてバンズにはさむ】。フードの画像を撮っていないので、画像上部の看板を参考までにご覧あれ。
★ 終わりに ★
マカオにザビエルの聖骨があると知り、いつものノリで訪れた。が、元来は日本に送られたものだったとは知らず、衝撃を受けた。二十六聖人殉教事件の犠牲者の遺骨の一部がマカオに送られたことも知らなかった(中学の修学旅行で二十六聖人殉教地を訪れたので、説明を受けながら耳トンネルした可能性も否定できないが)。ともあれ、マカオとこんなに縁があったとは・・・
ザビエルの死から数年後、明から権限を得たポルトガルはマカオをアジアにおける一大拠点とした。大航海時代というものがスペイン・ポルトガルを中心とする欧州の国々による世界進出(貿易と布教の推進)に象徴されるとするならば、宗教的使命を胸にその波間に身を投じたザビエルがいて、また否応なしにその渦中に巻き込まれ翻弄されたマカオという場所があった。一方で、禁教政策によりその潮流から断固として離脱した日本。
当時、日本のキリシタンにとって最も近い宗教的楽園がマカオだったのだろう。ザビエルの伝道により信者を増やした日本に置くことが叶わなかった聖骨。海禁政策に阻まれ上川島で没したザビエルはマカオの土を踏んでいないにもかかわらず、その地で何百年と遺骨が守られてきた。その厳然たる事実に、歴史のダイナミズムを感じずにはいられない。
地図中で赤く着色しているのはザビエルが逝去した地、上川島です。
自分が撮った画像がグダグダなため、Cちゃんの許可を得て彼女が撮った画像には★を付して載せています。
1・2 マカオ ⇔香港(上環・尖沙咀) (2009年12月31日)
ホテルの朝食が付いていないプランのため、前日と同様にローカル食堂にて朝食。
自分はワンタン麺をチョイス。
Cちゃんが食したのはこちら。備忘録に記載がなく料理名は不明だが、見た感じ 米を原料とする麺のようだ。 ★
この日はまだ足を踏み入れていないマカオ半島内のエリアを見学した後、香港へ日帰りで行くことになっていた。
まずはギア要塞へ【標高92m、マカオで最も高い場所である。1622年のオランダ軍による攻撃・上陸の後にポルトガルが要塞を築き、19世紀後半には灯台が置かれた。17世紀前半、修道女により築かれた教会がそれに寄り添う】。
ギア教会に入り、振り返ってみる。上部の採光窓の付近、壁にうっすら植物文様が残っている。
もっと奥から撮ると、こんな感じ。よりクッキリと文様が浮かび上がる。 ★
ぽっかり空いている棚に、かつては何が飾られていたのだろうか。
天使のフレスコ画。
祭壇にはマリア様。
教会に獅子 さすがマカオ、東洋との融合っぷりがいい。
Cちゃんに撮ってもらった自分にモザイクをかけた。
外に出てみると、要塞時代の名残りが見てとれた(なお、修復のため竹で格子が組まれている)。 ★
埋め立てが進み今や町に囲まれているが、かつてはすぐ下に海岸線が広がっていたという。
そして錨・・・ここまで運びあげたのか、それとも初めから装飾として置かれていたのか ★
要塞を下りて、西へ向かう。途中、バスコ=ダ=ガマの胸像が鎮座する公園を通過【彼はマカオに足を運んでいないが、海洋王国としてのポルトガル繁栄の礎を築いた功績をたたえ、1898年=インド航路発見400周年を記念して公園が造られた】。 ★
北北東へ200mほど進み、塔石広場に到着。画像右、クリスマス装飾の奥にご注目あれ。ここは黄色と臙脂色のカラーリングが印象的な建物が並ぶ空間なのである。
100mほど西へ進むと、聖ミカエル墓地がある。
郊外に墓地を置く傾向にある日本の感覚からすると、町なかにあるのが不思議な気がする・・・
墓地内にある聖ミカエル教会【19世紀後半築】。
入口側を振り返ってみる。 ★
ステンドグラス。
南へ150m、聖ラザロ教会にたどり着く【1570年、ハンセン病患者用施設付属の礼拝堂として建立】。んん~ (「その1」で紹介した)聖アントニオ教会に似てるよなぁ
それもそのはず 16世紀後半創建、マカオで古い教会の3本指に入るが現存するのは後世の建造物・・・両者には共通点があるのだった。
ステンドグラスの丸窓が開くようになってる、近代的だなぁ。 ★
東洋風のランプシェード、教会には珍しいのでは・・・
さて。外港にあるマリタイム・フェリーターミナルからターボジェットに乗り、香港へ向かう。
マカオ特別行政区の旗がはためいている。その奥に写るはマカオ半島とタイパ地区を結ぶ友誼大橋(画像右奥がタイパ)。
香港までは1時間。卑近な話になるが、瀬戸内海沿岸で育った自分は赤ん坊の頃から父の仕事の都合でモーターボートに乗せられていたらしい。よって、船には自信があった。
が・・・見事に船酔い 船内は満席近い状態だったが、早い段階で酔いはじめた人々がゲェゲェと盛大にえずくのを耳にするうち、自分も具合が悪くなっていた。同じルートの帰路は全然平気だったので、潮流の問題なのかもしれない。何にせよ、食後すぐに乗るのは避けたほうが無難だと思う。
Cちゃんもそれなりに酔ったようで、香港島は上環のフェリーターミナルに降り立った私たちは、ひっくり返ったような胃を抱えながら街をフラついた。
2階建ての路面電車、かっこいい
気分不快がようやく収まってきた頃、食堂に入った。香港は飲茶でしょ、と調べたお店【1889年、広州市でお菓子の店として創業、のち飲茶事業を展開。1918年、香港に出店。なお、本店は中華人民共和国成立(1949年)後に政府に接収された】。
肝心の店内とか食べた料理の画像を撮ってなくて、ごめんなさい 文章のみで・・・
朝6時から夜まで通しで営業していて、円卓がひしめく空間に、地元民が引きも切らずやって来て賑わっていた。狭い通路を、蒸籠を乗せたワゴンが行き来する。これが今や絶滅危惧種、旧来の飲茶スタイルという。端のテーブルに座った私たち。が、ワゴンが近くを全然通らず、料理にありつけない。ようやく来たワゴンに手を伸ばすと冷めていたが、背に腹は代えられず口に運ぶ。また待ちぼうけをくらわされ、やっと来たワゴンに載ったセイロを取ると、さっきのと同じ料理・・・これ人気ないメニューなんだろうな
そんなのの繰り返しだった。飲茶は17時までなのだが、私たちが訪れたのは昼食と夕食の間、中途半端な時間帯だったので混雑ピークが理由ではないと思われる。イチゲンの観光客が飛び込んで楽しむにはハード、玄人向きのお店なのだろう。中でもひときわ印象に残っているのは、「モミジ」といわれる鶏の趾骨を揚げた料理。物珍しさに負けて手に取ったが、形状がほぼそのままなので、口に入れるのを一瞬躊躇した。そして衝撃ゆえか、その味を全く記憶していないのだった
(この記事を書くにあたりお店を調べたところ、コロナ禍等の影響で惜しまれながら2022年8月に閉店していたことが判明。上環の系列店は営業しているようだが・・・。
そして、2023年9月に初の海外出店として東京銀座に店を構えたことも知る。香港の店はそうでもなかったが、銀座店はお値段高め・・・ランチだったら払えるかなぁ、比較したいから行ってみたい気もする、いつか)
中環からスターフェリーに乗り、対岸の九竜半島に渡る。1.5㎞、6分の船旅である
Cちゃんのたってのリクエストで、香港歴史博物館へ向かう。船着き場から東へ300m、ネイザン・ロードを通り過ぎてさらに200m、漆咸道南に突き当たったら左(北)へグイグイ歩く。なお、博物館も撮影していません
博物館を出た私たちは、ペ〇ンシュラホテルのアーケードをうろついたりして日が暮れるのを待った。
こちらは時計塔。 ★
【1911年開業、広州との間を結んだ九広鉄路は尖沙咀駅舎の一部。1970年代の駅舎取り壊しにあたり、保存運動によってこれのみ残された。1915年築、高さ44m。赤レンガ・花崗岩造】
ヴィクトリア湾の夜景、想像以上に美しかった。画像左の方にはクリスマスツリーの電飾も垣間見える。
スターフェリー船内にて。Cちゃんが撮ってくれた自分にモザイクをかけた。
再び中環に戻ってきて、トラムでヴィクトリア・ピークを目指す。大晦日の夜ということもあり、相当混んでいた。
乗り場へ向かう途中、かつての車体を展示しているコーナーがあった。 ★
ヴィクトリア・ピークの一大観光地っぷりに気圧されつつ、有名とされる夜景を眺める。んん~ 率直に言うなら、期待値が高すぎてハードル上がってたかもなぁ・・・自分的には湾の眺めのほう(3枚上の画像)が好みだった。
【この記事を書くにあたり調べたところ、「世界三大夜景」はいつ・何の機関によって認定されたか定かではないらしい。そこで、2012年に一般社団法人夜景観光コンベンション・ビューローが調査し、香港・モナコ・長崎を「世界新三大夜景」と認定した。さらに2021年の最新版ではモナコ・長崎・上海となり、香港は5位に転落した模様。どんどんアップデートされていくんだなぁ】
ショッピング・モールでお土産を物色などしていると、瞬く間に時間が過ぎていた。
今日中にマカオ行きのターボジェットに乗らねば かくして上環のフェリーターミナルへ急ぐ私たち。
なんとか0時前の船に間に合った、ふぅ
マカオへは1時間かかるので、12月31日に香港出境・1月1日にマカオ入境のスタンプがパスポートに押された。結果的に、南シナ海の上で年を越したのだった。
1 マカオ ⇒出国 (2010年1月1日)
この日は14時半の便でマカオから成田へ飛ぶことになっていた。
やはり、マカオ半島と中国本土の境界が気になるよね、ということでバスに乗って数十分、3㎞ほど北へ向かう。
近代的な税関ビルの前に、かつての石造りの門が残っている【刻まれている1849年というのは、ポルトガルが16世紀から続けてきた清への借地料の支払いを停止し、直轄地とする姿勢を示した年である】。
再びバスに乗り、セナド広場まで戻る。この旅のしめくくりに、足を運びたい場所があった。
新馬路から南西へ勾配のある道を400mほどのぼって行くと、聖ローレンス教会に行き当たる。そこからさらに北へ進むと、聖ヨセフ聖堂にたどり着いた。
正面の祭壇。中央にイエスを抱くヨセフ像、その右手前にはザビエル像。そう、ここはイエズス会の教会なんである【1728年にまず修道院が建てられた後、1758年までに聖堂がつくられた。バロック様式で、うねる柱が特徴的】。
ザビエルにズームアップ。
祭壇の手前には、最後の晩餐をモチーフにした台があった。
祭壇側から後ろを振り返ると、こんな感じ。 ★
さて・・・祭壇に向かって右手前に、聖フランシスコ=ザビエルの右上腕骨が飾られている。 ★
いまひとつピンボケなのだが、アップはこちら【1619年、この聖骨はインドのゴアに保管されている聖遺骸から切り離され、日本へ送られた。迫害下にある日本のキリシタンの求めに応じたものという。しかし凄まじい弾圧の中で安全に管理できる保証がないことから、マカオに送られた。以来 聖ポール天主堂で保管されていたが、1835年の火災の後、聖アントニオ教会を経てコロアンの聖フランシスコ=ザビエル教会に移され、1990年代途中からはこの教会に安置されている】。
大火事に遭っても焼失しなかったんだよなぁ・・・いの一番に聖職者が持って避難したのかな。
そもそも日本からマカオに送られなかったら、どうなっていたんだろうか。失われていたかもしれないし、そうでないかもしれない。
並大抵ではない紆余曲折を経て、この場所にまつられている聖骨にひととき思いを寄せた。
堂内を一歩出た袖廊でも絢爛な調度類が散見された。(以下2枚★)
ん 台座の中央で、心臓が輝きを放っている・・・日本で最も有名なザビエル肖像画(神戸市立博物館蔵)の左胸に描かれているのと似てるなぁ。
いよいよ滞在時間も残り少なくなってきた。再びセナド広場方面に向かって歩を進める。
ヘアサロンの青看板が気になった。理容院のマーク、日本と似てるよな~
【今回調べてみたところサインポールといい、中世ヨーロッパ(12世紀)に遡る歴史があり、世界共通のものらしい。日本では明治初期から看板に出すようになったという】
アパートがひしめく路地はアジアらしい佇まい。
去る前にもう一度 聖ポール天主堂を見ようと、セナド広場北西にある仁慈堂大樓の前を横切る。
聖フランシスコ=ザビエル教会のファサードを見た時も思ったが、西洋然とした建物に、右から読ませる漢字が書かれているのが面白い。
この地最後の食事は猪扒包【マカオを代表するB級グルメのひとつ、ポークチョップ・サンド。骨付きの豚肉を焼いたり揚げたりしてバンズにはさむ】。フードの画像を撮っていないので、画像上部の看板を参考までにご覧あれ。
★ 終わりに ★
マカオにザビエルの聖骨があると知り、いつものノリで訪れた。が、元来は日本に送られたものだったとは知らず、衝撃を受けた。二十六聖人殉教事件の犠牲者の遺骨の一部がマカオに送られたことも知らなかった(中学の修学旅行で二十六聖人殉教地を訪れたので、説明を受けながら耳トンネルした可能性も否定できないが)。ともあれ、マカオとこんなに縁があったとは・・・
ザビエルの死から数年後、明から権限を得たポルトガルはマカオをアジアにおける一大拠点とした。大航海時代というものがスペイン・ポルトガルを中心とする欧州の国々による世界進出(貿易と布教の推進)に象徴されるとするならば、宗教的使命を胸にその波間に身を投じたザビエルがいて、また否応なしにその渦中に巻き込まれ翻弄されたマカオという場所があった。一方で、禁教政策によりその潮流から断固として離脱した日本。
当時、日本のキリシタンにとって最も近い宗教的楽園がマカオだったのだろう。ザビエルの伝道により信者を増やした日本に置くことが叶わなかった聖骨。海禁政策に阻まれ上川島で没したザビエルはマカオの土を踏んでいないにもかかわらず、その地で何百年と遺骨が守られてきた。その厳然たる事実に、歴史のダイナミズムを感じずにはいられない。
おしまい
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