poliahuの旅日記

これまでに世界42ヵ国をフラフラしてきました~ 思いつきで旅先を選んでて、系統性ゼロですが(^^;)

ウズベキスタン篇 その2

2024年02月10日 | アジア
ひき続きサマルカンドからスタート。
旅の第2弾では、下の地図の➋・➌をまわりました(①は第1弾で訪問)。また、後の下線部の数字とも対応しています。


2 サマルカンド (2023年8月23日)

5時50分に起床、宿の屋上テラスから日の出を待った。
ティラカリ・メドレセのドームの横から明けていく。

前夜Cちゃんと話し合い、朝活することに。本日もヤン〇ックス・ゴー(配車アプリ)でタクシーを呼び、6時半頃ホテルを出発。
20分足らずで1.5㎞北東のシャーヒズィンダ廟群に到着【11~15世紀に建立された霊廟群が集合する地。クサム・イブン・アッバース(ムハンマドの従兄弟)に関する伝説が残る。7世紀、クサムはサマルカンドで異教徒に襲われ瀕死となりながら地下に潜り永遠の命を得たといわれ、シャーヒズィンダとは「生ける王」を意味する。10~11世紀、彼がイスラームの聖人及びサマルカンドの守護者として認められると、この地に廟が建てられるようになる。更に後世、ティムール朝ゆかりの人々(君主の親族や家臣)が葬られた】。
7時オープンなのだが、既に係員がいてフライングで入場させてくれた。最初の門をくぐると「天国の階段」が待っている。

階段の途中から振り返る。ドーム下の幾何学模様が目立つ。ちなみに、木の向こう(画像左奥)にあるのが最初の門。

西の方角に目を転じると、巨大な建造物群。その時はレギスタン広場と思っていたが、後で調べたらビビハニム・モスクだった・・・どでかい建物多し

階段をのぼりきると、両側に廟が並んでいる。

漫然と廟に出入りし、美しい造りだなと思うと、君主絡みだった。権力者はお金があり、お金をかければ精緻に仕上がる・・・現実はほろ苦いわ
シャーディムルク・アカ廟【14世紀後半築。帝国を築いたアミール・ティムールの姉と姪が眠る】。

入口上部のムカルナス【幾何学図形を3次元に応用、11世紀頃からイランや中央アジアで見られる。蜂の巣や鍾乳石に似ているとされる】。

個人的に最も青が美しい空間だと思った。

入口側を振り返る。

通路をはさんで向かい側、シリンベク・アカ廟【アミール・ティムールの妹を葬る】。

こちらは白と青のコントラストが美しい。

壁面装飾の一部。小川や植物、鳥などが素朴かつ細やかに描かれている。タイルによらない、こんな表現もいいなぁ




被葬者不明の廟もあった。

来し方を振り返る。下の画像左端が2~6枚上で紹介したシリンベク・アカ廟。1枚上のはその右、タイルがほどこされていないレンガむき出しの廟の。

先へと目を転じる。下の画像左端が1枚上の画像の右端の廟。画像右奥がこの霊廟群の最深部となる。

この廟群の最も奥へ入場。まずはクサム・イブン・アッバース廟。11世紀築、この廟群中で最も古いというが、新しい印象を受ける・・・丁寧に手入れされているのだろう。

植物文様が美しい。

古そうな遺構が露出していた。

最北部への入口(手前を右に進むと、クサム・イブン・アッバース廟)。奥に垣間見えるのはホジャ・アフマド廟。

ホジャ・アフマド廟の入口のタイル。青い花が手描きされている、しかもそれぞれ異なるデザイン

その左手はトゥマン・アカ廟【アミール・ティムールの妃の一人が眠る】。


ひととおり見終えて、来た道を戻る。

最初の門を出てタクシーを待ちながら・・・この花なんだろう

つぶらな瞳が可愛い。足が悪そうなのが不憫だった


8時15分、ホテルに帰着して朝食をとる。野菜の種類が豊富なビュッフェ、最高
手前右はイチジク、その左は白ブドウ。粒が細長くて面白い。


10時半、ホテルを出て観光第2弾へ。例によってタクシーを呼び、町の北東 アフラシャブの丘方面へ向かう。約3㎞也。
まずはウルグベク天文台跡。手前が巨大な六分儀跡(半径40m)、左奥が博物館。

六分儀跡の入口。

覗くと、地下にこんな世界が広がっている【ウルグベクはこれで恒星を観測して1年=365日6時間10分8秒、と算出したという。600年前、現代と1.6秒差に迫るってすごい

なお、かつてはこんなだったと推定されている(後日、ウズベキスタン歴史博物館にて復元模型を撮影)。

博物館に飾られていた、ウルグベクの肖像画。4代君主でありながら天文学者としても優れてるって・・・天は二物を与えちゃうんだねぇ

敷地内にモサモサ生えていた木の実。何だろう


次の目的地、アフラシャブ博物館へは道路沿いに1㎞。歩けなくもなかったが、日射しの強さにひるんでタクシーを呼んでしまった
入口はこんな感じ。

【この博物館を含むアフラシャブの丘はかつてサマルカンドの中心街で、B.C.8~7世紀には200ha規模の都が築かれたという。B.C.4世紀、アレクサンダー大王が侵攻したソグド国の都マラカンダもここだったとされる。4~8世紀、シルクロードを通じた交易が盛んになってサマルカンドは繫栄したが、13世紀にチンギス・ハンの遠征によって徹底的に破壊された。その後 現在の場所(アフラシャブの丘の南西)に町の中心は移ったが今も発掘作業が続けられており、古い時代の出土品が博物館に展示されている】
ガイドブックを見てフレスコ画に魅かれ、ここを訪れた【7世紀、ソグド人の宮殿壁画】。

上の画像右端の人物の部分をズームアップ。背景の青・・・魂を吸われるのではと思うほど美しい。

たくさんの人物が整然と描かれ、この地が通商で栄えた時代を彷彿とさせる。

内陸の国で舟が描かれているのが面白い。


続いて、他の展示品コーナー。頭蓋骨の下の小さな棺、十字架が刻まれているように見えるのは気のせいか

土鈴??

動物や人間の表情がユーモラス


サイコロは何に使ったのか・・・やっぱり賭け事


次は市場へ。向かう途中、朝訪れたシャーヒズィンダ廟の前を通過したら、行列しているのが遠目にもはっきりと分かった。朝イチで攻めたのは正解
さて、ショブバザールである。廟への道すがら目に留まり、気になっていた。


上の画像、左に見切れているエリアはこんな感じ。奥に下がっている赤いのは腸詰類。

2枚上の画像、中央奥の白い階段の上も市場。色とりどりの野菜が陳列されていた。

民芸品も扱っていた。見るともなしに眺めていたはずが、陶器に魅せられてしまう。何軒かのぞいた後、丼を2枚購入(直径15cm・高さ7.5cm)。
旅の3日目に早すぎるのではと思いつつ・・・売られていた陶器のほとんどは外側が無文だったが、両面に模様がほどこされているのが気に入って 
以下、この記事を書くにあたり撮影。赤いザクロが印象的なお皿【種が多いザクロは子孫繁栄・豊穣・富を象徴し、好まれる意匠】。

その外側。

ペイズリー柄【1800年代にインドからイギリスへ伝わり、スコットランドの都市ペイズリーにてこの模様のショールが量産されたことから名付けられたが、起源はペルシャという。糸杉・ナツメヤシ・松ぼっくり・原生動物(ミドリムシなど)・植物の種子・ゾロアスターの炎を模したなど諸説あり、生命力・霊魂の象徴とされる】。

その外側。


ちなみに、市場の南にはビビハニム・モスクがある。

ウズベキスタンでは各地に特色あるナンがある【ウズベク語で「パン」。インドのナンとは別物、要注意!】。
「王様」といわれるサマルカンドのを食べてみたくて、ズラリと並ぶナン売り屋の中から買う。Cちゃんが「撮影していい?」と聞くと、ナンを手に取りにっこり微笑むおばあちゃま。頼んだわけではないけど、女優だね


ホテルまで1㎞、再びタクシーを呼んで乗車。13時半にホテル帰着。
Cちゃんと交互に洗濯をしながら、1泊目の部屋に付いていたティーバッグとコーヒーの粉でナンを食し、お昼ごはんとする。ツヤツヤのナンはボリューム満点で、2人がかりでも食べきれない。幸い日もちしそうだったので、翌日のおやつにまわす。
前日に合流した時点で既にお腹を下していたCちゃん。自分もいつどうなるやら不安なので、胃腸を慮って1日2食とすることに。

16時半過ぎ、再びホテルを出て観光第3弾へ。ビビハニム・モスクへもタクシーを使ったら、車が入れないため正面口ではない場所で降ろされた。
下の画像右に写る横口から入場。すると、チケットを買え、とすかさず声がかかる。先に中を見学して、最後に出て表の門構えを眺めるというヘンテコな順序になった

モスクの正面に、大理石製の巨大な書見台がある【4代君主ウルグベクが寄贈。現存最古のコーランを置いたと伝わる】。

こちらがモスク。中に入れないように入口を塞いである。
【ビビハニム・モスク; 15世紀初頭、アミール・ティムールの命令で最大規模のモスク建築に着手。たった5年で完成させるにあたり、その妃ビビハニムが建築家にキスを迫られたという逸話が残っている。完成後、礼拝中に天井からレンガが崩落する事故が多発し、次第に廃墟となった。工事を急いだのが原因といわれる】

隙間から内部を撮影。手つかずな感じ。上から落ちてくるかもとなれば、観光客を入れるのはもちろんのこと、おちおち修復していられないのだろう。

側面をパシャリ 適度に崩れてて、ナチュラルな風情がいいな~

高さ35mの表門。ファサードの上部はゴッソリ剥げてるけど、これから修復するのかなぁ・・・

道をはさんで向かい側にはビビハニム廟。大きなものばかり目にしてきたので、小ぢんまりとかわいらしく感じる。

これから目指すハズラティヒズル・モスクを遠望する(ビビハニム廟前から)。
【かつてゾロアスター教寺院があったが、8世紀初めに壊してモスクに改めた。ウズベキスタン初代大統領イスラム・カリモフの墓もある】

道路上に架かる陸橋を通り、モスクのたもとに到着。

現在の姿になったのは19世紀半ばとのことで、新しい感じ。

ビビハニム・モスク方面を望む。画像中央手前、屋根の部分が陸橋。


再び陸橋を渡り、ショブバザールとビビハニム・モスクの脇を通ってイスラム・カリモフ通りを進む。両側に飲食店や土産物屋が並んでいるが いかにもピカピカで、古い街並みを壊して新しく造成した感じ。世界遺産化で得た補助金をガッツリ当てて整備したんだろーな・・・
ウィンドウショッピングを楽しみながらボテボテ歩く。ナンを抱えた陶器人形が可愛い


一旦ホテルへ戻り、夕食の時間を待って外出。Cちゃんがチュチュヴァラ【中央アジアでポピュラーなマンティ(ゆで餃子)を小型にしたもの。ロシアではペリメニという】を食べたいということで検索したお店は、レギスタン広場の南エリア(前日に水を購入したmini marketの付近)にあった。店名からしてロシア系の方が経営していると思われるお店は、ウズベク人ファミリーもやって来るローカルな食堂。
私たちは小上がりに腰を下ろした。天井の上に2階席がある。

半露天構造でクーラーはないが、暑さをしのげるようミストが降る仕掛けをしてあった。下の画像中央よりやや上部、何条かのミストにお気づきいただけると嬉しい。
左の客は黄色い袋入りのナンを卓上に積み上げている。売りに来て残ったのを持ち帰るところなのか、大量購入して帰宅するところなのか・・・

前菜8種類から好きなものを選べるので、2皿チョイス。左はナスとズッキーニのサラダ。右がオリヴィエサラダ【1860年代、モスクワのレストランのシェフであるオリヴィエが考案。さいの目状に切ったジャガイモ・人参などの野菜、ピクルス、肉(ハム・牛肉・鶏肉など)をマヨネーズと香草(ディルなど)であえる】。
1997年、サンクトペテルブルクでζちゃん(高校・大学時代の友人)と一緒に彼女の知り合いの老夫婦の家に泊めていただいた時、おじいさまが作ってくださったオリビエサラダを懐かしく思い出した。

餃子にはビールよね、ということで中ジョッキ。これが容器ごとよく冷えてて、1万スム(≒120円)。

メインのチュチュヴァラ。画像中央奥のヨーグルトソースをつけて食した。

スープには牛テールと思われる肉が入っていた。コンソメのような味わいは自分好みだったが、Cちゃんの検索情報では浮いている白い脂は飲まないようにすべしとのこと 
酔いも手伝って次第によけるのが面倒になり、アク取り網ほしいな~と思ってしまった

2人でしめて10万5千スム(≒1,260円)、とにかく安あがり。前夜のような小綺麗なお店と両方楽しめて大満足

19時40分、宿に戻って各々が洗濯(第2弾)・入浴を済ませた後、屋上テラスに上がった。ライトアップ・ショーを90度西から眺めつつ、前夜の残りのペットボトルビールをすすった。本当に絶好のロケーション・・・探し出して予約してくれたCちゃんに感謝


2・3 サマルカンド ⇒ブハラ (2023年8月24日)

この地を発ち、ブハラへ発つ日。やはり朝は日の出観賞からスタート。この日ははっきりと太陽が見えた。

太陽が姿を現すまでは気を揉むほど長く感じるのに、ひとたび昇ると瞬く間にググッと高度が上がる。
前日は一人で静かに鑑賞していた日本人らしき女性、この日は中学生くらいの息子と夫も登場。Cちゃんが女性と言葉を交わすと、夫が取材しているところへ来たと言っていた。現地に暮らしているのではなく、夏休みを利用して単身赴任先へやって来たようだった。

6時半、散歩に出かける。まずは宿から5分足らずのレギスタン広場view spotへ。
早朝・午前・夕方・夜、それぞれの時間帯で異なる顔を見せてくれる。滞在中は何度も足を運びたい場所だ。

花壇越しに、ウルグベク・メドレセ。

シェルドル・メドレセの東の通りに出ると、カートが停まっていた。ビビハニム・モスク~レギスタン広場横までを結んでいる模様で、前日から気になっていた。乗ろうとしたら5,000スムと言われ・・・3,000スムと掲げられているのを前日見ていたので、なんとなくやめた。

イスラム・カリモフ通りを前日とは逆方向に進む。両脇のお店は閉まっていて、街路を掃除する人のみ。閑散としている。
歩くこと数百m、ビビハニム・モスク前に到着。


隣接するショブバザールは5時から開いているらしく、買い物袋を提げたおばちゃんとすれ違った。その材料でこれから料理するのだろうか。
こちらはバザールの南側入口(撮影は前日)。

市場に足を踏み入れ、前日はまわらなかった場所へ。独立した平屋建てとなっているのは精肉売り場だった。
豪快に吊るされているのは・・・サイズからして羊 (他の判断基準を持たない私


前日にタクシーで降ろされたビビハニム・モスク裏の小路から なんとなく南へ向かい、緑地にぶつかったところで道なりに西へ進むと、前々日ディナーしたレストランが見えてきた。壁の向こうはレギスタン広場。

7時20分、ホテルに戻って朝食。
念のため、左上に見切れているのはワインじゃないですよ~ 水です ビュッフェ会場に水の小型ペットボトルが置いてあったので、ワイングラス状の器に注いだ。
野菜てんこ盛りにしちゃった、ぐふふ 時計でいう10の位置にあるウィンナーは、皮がないのかと思うくらいソフトで臭みゼロ、美味だった。

ダイニングルームに飾ってあった陶器の装飾。ここでもザクロ。ハッピーシンボルとして重宝されているらしい。老夫婦の人形は日本でいう「高砂」


ブハラ行きの列車は11時15分発。1時間少々前にサマルカンド駅へ着くように逆算して、10時に宿をチェックアウト。
宿の方は鷹揚でとても感じが良かった。日本人が訪れるようになったのはわりと最近だけど、礼儀正しい人が多いね と言っていたのが印象に残った。
配車アプリ(ヤンデッ〇ス・ゴー)で呼んだタクシーは駅まで1万8千スム(≒216円)。往きは交渉したうえ4万スム(≒480円)だったんだよな・・・現地人と同じ価格っていいなぁ。労力いらないし、オトクで合理的
20分ほどで駅に到着。もはや荷物のX線検査に驚きはしない。

2日前の到着時はホームから直接構外へ出るよう促され駅舎に入れなかったので、初めて入場。

窓の高い所、ステンドグラス風の装飾が気になった。独断と偏見で棟方志功っぽい・・・。羽が生えてるってことは天使なのか?? 



相変わらず、モニターに発車ホームは表示されていない。椅子に掛けてボーッとしていると、同じ列車に乗るであろう観光客らしき人々が次々とやって来る。
そして発車20分前くらいに、駅員が何がしか喋ると人々は一斉に移動しはじめた。2番線らしく、地下通路へみんな潜っていく。一応心配だったので、2番ホームにいた駅員にチケットを見せると、ここでよいと。そうこうするうち、列車が入場。

指定の号車の扉から無事乗り込んだ。
タシケントからサマルカンドまで乗った時はお菓子&飲み物のサービスがあったが、今回はなかった。座席クラスが違うのか、乗車時間が30分短いからか、始発から乗った客限定なのか、理由は定かではない。

車窓から見た感じ、どこまでもどこまでも草原だったタシケント~サマルカンド間よりも開発が進んでいるようで、人口も多そうだった。
220㎞西のブハラへ1時間40分で到着。例によって駅構内を通らずに出口へ向かうように促されたが、Cちゃんはトイレに行きたいと駅員に訴えて駅舎に入れてもらった(オマケの私も)。
ブハラ駅構内には両替所があった。隣国トルクメニスタンからの列車が通るから?と思ったが、後で見返したらサマルカンド駅構内の両替所が画像に写っていた。大きな駅にはマストで存在するのだろう。
待合所に座っているウズベク人女性たちのスカーフ(ヒジャブ)が目に入った。下の画像右上のベージュの方のように正式な巻き方をしている人もいるが、この国では簡略化したスタイルも見受けられる。手前左のような三角巾状や、その右のようなヘアバンド状。

右のようなナイトキャップ状も。暑い気候風土に合わせて、耳やアゴを出すのが許されているのかなぁ・・・


駅舎を出て通りへ向かう途上で白タクの客引きに何度か声をかけられたが、「〇ンデックス」と口にすると途端に退いていく。魔法の言葉だなぁ、すごい威力
アプリで呼んだタクシーのドライバーは、ウズベクは初めてか?と世間話から始まり、今日は39℃だってよ、めっちゃ暑いよ~ と喋りかけてくる。Cちゃん曰く、ここブハラはタシケントやサマルカンドに遅れて、ヤ〇デックスが導入されたのは最近らしい。目的地へ運ぶことに徹しどこか割り切った感のあったサマルカンドのドライバーたちよりも、まだ前代の交渉タクシーの名残りがあるというか、フレンドリーな印象。

13時50分、狭い路地で降ろされた。Cちゃんが選んでくれた宿はかつてメドレセ(神学校)だった。小路の奥にひっそりと入口がある。

フロント。

私たちの部屋の入口。

入ると両脇にベッド、奥にソファーのあるスペース。

天井には彫刻の彩色が残っていた。鮮やかなラピスラズリ色は紺碧の空を彷彿とさせる。よく眠れそう、な~んて

歴史的に古い建物でも、水まわりはしっかりしている。シャワー&トイレ。

ソファーのある空間に自前のロープを張り、洗濯した衣類を干す。さらに暑さが収まるのを待ちがてら、ガイドブックをめくりつつ部屋でゴロゴロ

16時過ぎ、ホテルを出て件の配車アプリを利用。ところが、呼んだはずのタクシーがなかなか見つからなくて、ずいぶん待たせてしまった。たぶん10分くらい・・・
【運転手が停まりやすい場所にいることが多く、自分たちが立っているドンピシャの場所に停車してくれることは稀(何度も利用した中で、反対側の車線に停車していたケースもあった)。利用者が画面上で位置を確認しながら、車のナンバーと照らし合わせつつタクシーを探すことになっている。日本と違ってナンバーの桁数が多いのも難易度に拍車をかける】 今になって思えば、交通量が少なくない通りだったので、邪魔にならないような場所に停車していたのだが、それゆえ目立たなくなっていた
やっと乗車した時にはドライバーはかなり機嫌が悪くて、ブツクサ言っていた。車内の空気の険悪さに、Cちゃんが翻訳アプリを立ち上げてドライバーに音声で喋ってもらうと、相当待った、と怒っていた。これはマズイとCちゃんが話しかけると、誠心誠意謝っているのが通じたらしい。気を取り直したドライバーはBGMのスイッチを入れ、かかったのはNHK「おしん」の主題歌。???な自分に対し、事前予習済みのCちゃんがガッツリ反応して話題を盛り上げるとドライバーはみるみるご機嫌になり・・・目的地に着いても尚3分は「おしん」について熱く語っていた。いや、気まずいまま終わらなくてよかったぁ この国では「おしん」が再放送されていたらしく、中高年層に絶大な人気を誇っているらしい。運転手は20代後半~30代前半くらいだったけど【おしん; 1983年4月から約1年放送されたNHK朝の連続テレビ小説。1901年、山形の貧しい農家に生まれた主人公が明治~昭和を生き抜く一代記。年間平均視聴率52.6%。1984年秋のシンガポールに始まり、現在まで世界60以上の国・地域で放送、ウズベキスタンでは2000年代に放送された】

この日は中心街から外れた場所から巡ることにした。
まずイスマイール・サーマーニー廟【9世紀末~10世紀前半、サーマーン朝2代目君主イスマイールが建てた。中央アジアに現存する最古のイスラム建築。1220年のチンギス・ハン侵攻時、砂に埋もれていて破壊を免れた。側面の4つのアーチ(柱状)・四隅の副ドームはササン朝ペルシャのゾロアスター教神殿の様式を踏襲】。
一辺9mほどの小ぶりなサイズだが、外壁はこの国で見てきたどの建物とも違っていた【日干しレンガを複雑に組み、凹凸で陰影をつける】。

天井の様子。

ここの入場料を管理しつつ本やハガキを売るおじいちゃんはとても綺麗な英語を話す。迷ったが、日本語の本を買った(12万スム≒1,440円)。サマルカンドで見かけたのは汚れているなけなしの1冊だったりサマルカンドのみの特集だったりしたが、ウズベク全体を包括する内容だったのが気に入った。しかし、本ってどの国でも高額よね。

ざっくり東へ歩いていると、チャシマ・アイユブに遭遇【チャシマ=泉。水不足の折、旧約聖書などに出てくる預言者ヨブが杖で地面をたたくと泉が湧き出たという伝説があり、今なお水が出ている。眼病に効くという。現存の建造物は、14世紀に捕虜となりアミール・ティムールの命令により移住させられたホレズム(アラル海南東部のアムダリア川下流域。中心都市はウルゲンチ)の職人たちが建てたという。その後19世紀まで建て増しを繰り返したため、アンバランスな外観となっている】。

屋根の上にはコウノトリの像があるようだった。てか、急斜面で羽を休める鳩たち・・・ワザ持ってるなぁ。

泉は水道状になっていた。

敷地内で気持ちよさそうに眠る犬。犬派の私、この横パタンにめっぽう弱い。キュンキュンする

数百m東のボロハウズ・モスクへ向かう途中、あまりの暑さで呼吸するのが苦しいほど。我慢しないで、冷たいものを飲みに目の前のお店へ入った。夕食にはいまひとつ早い時間帯、開店休業中のところを電気つけてもらって(笑) 惜しみなく1.5リットルのペットボトルを買う。アルコール以外冷たいものをほとんど口にしない自分が陥落するとは・・・モロッコはマラケシュもこんなだったわ~ 体温超えの気温はハンパない

ボロハウズ・モスク【かつてこの地を治めたブハラ・ハン王国の歴代王の専用モスクとして18世紀前半に建立】。

20本のクルミ材の柱頭には鍾乳石状の彫刻がほどこされている。木目の天井も美しい。

いまだ現役のモスクはちょうど礼拝の時間にあたり、中に入れなかった。ムスリムたちが続々と自転車に乗ってやって来ては中へ吸い込まれていった。

ボロハウズ・モスクのすぐ前にはブハラタワー【高さ40m。ウラジーミル・シューホフ(ロシア・ソ連のエンジニア)が創出した、鉄線を格子状に組む双曲面構造をもつ給水塔。20世紀前半に完成、半世紀も経ずして火災に遭う。修復後、観光スポットとなる】。レストランも営業しておらず、すっかり荒廃していた。コロナ禍の影響か??  


横断歩道の向こうにはアルク城【紀元前4世紀にはここに城があったという。13世紀のチンギス・ハン侵攻時に破壊された後も再建を繰り返す。1920年、ソ連によりブハラ・ハン王国は滅亡。その際の爆撃で木造の多くが燃え、18世紀の石造の部分が現存】。

広場ではラクダに乗るアトラクションも展開。

入場してすぐの通路にはかつて囚人の部屋があった。蝋人形で様子を再現。

民族衣装の展示コーナーもあり。

木製の屋根と柱が堂々とそびえる。

順路に沿って進む。

謁見の間はかなりの広さ。

玉座には「小皇帝」が鎮座。この国では歴史的スポットにて衣装を貸し出し撮影するのが流行っているようで、そこかしこで見かけた。

その一角に、ロマネスクも真っ青の獅子像がポツンとあった。なんでこれだけここに

こちらは鋭意修復中。


宿へは戻らず、そのままディナーへ行くことに。旧市街のレストランまで数百mだったが、ここでもタクシーを呼んだ。ところが全然たどり着けず、ドライバーは降りて周囲の人に聞き、少し運転してまた降りて聞いて、を繰り返した。Cちゃんが翻訳アプリを差し出し喋ってもらうと、「どこへ行くの?」と表示される(爆)
どうやら、同名を冠するホテルやらレストランやら複数あってややこしいのと、結果論になるが車で乗り付けられない場所なのだった、タキ【屋根でおおわれた大通りの交差点。昔も今もバザールがある。3ヶ所現存】の中にあって。
結局、タキ・テルパクフルションの前で尋ねたおっちゃんが、そのレストランはこの奥だよ、って言ってくれたのでタクシーを降りた。たった8,000スムで、ドライバーにはちょっと気の毒なrideだった気がする

ワインを出すとガイドブックに載っていたため、私がリクエストしたお店。
ギリシャ・サラダ。

この国で初めて飲んだ白ワインはシャルドネな気がした(Cちゃんが撮ってくれた自分にモザイクをかけた)。

お店のウリというカザン・ケバブ【骨付きラム肉とジャガイモの蒸し焼き】。

濃厚で複雑な味わい・・・カベルネ・ソ―ヴィニヨンを思わせる赤。

汁なしラグマン【小麦粉をこねて手打ちした麺料理。うどんに似ている。トマトベースのスープに入った汁ありも一般的】。かなり赤味がかっているが、辛くはない。

グラスで注文し注がれて運ばれてきたのでボトルを見る機会はなかったが、レベル高いな、ヴィティス・ヴィニフェラか??【ワイン用欧州系葡萄品種。原産地コーカサス地方から交易の拡大に伴い広がった。仏伊など伝統的なワイン産地で使用される歴史ある品種】 とはいえ気のせいかと思わなくもなかったが、出国時に空港でそれらの品種のワインボトル群を見かけたので、ブラインドの感触はあながち間違いではなかったかも

宿へはゆうに1㎞あった。酔いざましがてら歩きながら 途中で水を買い、通り沿いのレストランで晩酌用のビールもゲット。
Cちゃんの地図アプリ(ヤン〇ックスはmapも展開している)に従って何も考えず進んでいたのだが、つい数時間前にタクシーを探してワタワタしていた場所へ戻って来たと気づいたら、一挙に自分の頭の中でブハラ市街地図がつながった スペクタクルな瞬間だった。
洗濯第2弾&入浴の後 Cちゃんは早々に床についたが、自分はソファーのあるスペースでビールをあおった。
【一番ポピュラーというSARBASTはデンマークのCarlsbergと提携。赤の他にも青・緑などラベルが数種類ある】

ここのソファーがまた居心地良く、ゆったりくつろぐことができた。頭上にはためく洗濯物を仰ぎ見ながら、明日の今頃は駅に向かっているんだなぁ、Cちゃんともお別れだわ、4日間ってあっという間だな・・・とめどなく思いが去来するのだった。

★ 中締め ★

次回はブハラ観光の後、Cちゃんと別れて夜行列車でヒヴァへ向かいます。
お楽しみに

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