goo blog サービス終了のお知らせ 

鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

三条山吉氏の系譜2

2020-09-13 14:52:07 | 三条山吉氏
前回に引き続き、三条山吉氏の系譜を検討してきたい。

長尾為景が登場する頃には山吉能盛の活躍がみえる。永正4年には長尾為景と築地氏の間を能盛が取り次いでいる(*1)。同年12月には中条藤資へ「山吉孫左衛門尉能盛」の名で打渡状を出している(*2)。年代的に正盛の次世代が能盛と考えられる。守護代長尾能景の一字を戴く能盛は、能景が守護代であった文明14年(1483)から永正3年(1506)の間に元服したとわかる。山吉正盛の生年を1450年頃と想定したから、正盛と能盛を父子関係としても矛盾はない。能盛は天文5年に長尾為景が色部氏、本庄氏らと抗争した際、「山吉孫左衛門尉至于中途令出陣其庄」とある同年5月22日長尾為景書状(*3)が終見である。

※23/8/23 追記
天文5年5月22日長尾為景書状について、以前は鮎川式部大輔入道の乱に関連した文書とした上で永正9年に比定していた。しかし、式部入道の乱を検討した結果、乱自体が永正9年ではなく大永前期であった可能性が高いこと、同書状が式部入道の乱ではなく永正5年の奥郡抗争に関するものであったことを示した。修正しておく。


明応期以降に上杉房能が作成したという『蒲原郡段銭帳』(*4)の中に「山吉孫四郎」という人物が見える。上述した能盛の推定元服時期とも合致することから、孫四郎は能盛であろう。父正盛が四郎右兵衛尉、能盛が孫四郎、後述する政久も孫四郎であるから、山吉氏嫡流は代々孫四郎を名乗ったと見られる。よって、能盛が明応年間(1492~1501)頃に元服したと考えられるから、その生年は文明年間(1469~1487)だろうか。次代政久の初見である永正16年(1519)までの死去であろう。

永正6年8月国分胤重書状(*5)には、山吉孫次郎という人物が見える。注目すべきは孫次郎が長尾為景と敵対する関東管領上杉可諄・憲房方の一人として挙げられていることである。この書状中に「蔵王堂、三条、護摩堂者、同六郎(長尾為景)殿味方に候」とあり、三条山吉氏自体は為景に味方していた。よって、この頃の山吉氏は上杉定実・長尾為景方と上杉可諄・憲房方に分裂していたと考えられる。この孫次郎であるが、庶子の名乗りであると推測する。


[史料1]『越後三条山吉家伝記之写』
以前両度如申遣、此時抽忠信候者、恩賞之事ハ、可任望候、子細石河駿河入道可申越候也、
二月十七日    憲房公御判形
 山吉孫五郎殿

[史料1]は『越後三条山吉家伝記之写』に筆写された家伝文書の一つである。上杉憲房の発給であり、石川駿河入道は(*5)文書においても山内上杉氏方の中に「石川駿河守」として見えている。永正6年または7年に比定できる文書であろう。この文書は、山吉孫五郎という人物が上杉憲房から陣営への参加を誘われている。ただ、孫五郎はこの後も為景方としてみえ誘いには乗らなかったようだ。

山吉孫五郎は永正7年の上杉可諄戦死後の8月に長尾為景が長尾伊玄の要請で上野国へ軍勢を派遣した際、福王寺氏と共にその軍勢の指揮官として見える(*6)。正盛と談合するように求められている記述もあり、三条山吉氏の一族であったことは確実である。山吉豊守弟の山吉景長が『越後三条山吉家伝記之写』において孫五郎を名乗ったとされるから、孫五郎も庶子の名乗りであるように思える。

後に山吉孫四郎の弟として孫次郎豊守、孫五郎景長が見えることを踏まえ、活動時期を考慮すると永正期の孫次郎、孫五郎の二人は能盛の兄弟と推定できるのではないか。


永正16年には山吉孫四郎政久が見える(*7)。孫四郎を名乗ることから、能盛と政久の父子関係を想定する。大永7年山吉政久書状(*8)において政久は「先規之義、若輩故無存知候」と、若年であったことが推定される。

ここまで山吉氏数代を検討し、

行盛の後、久盛-正盛-能盛-政久

という系譜を想定し、能盛の兄弟として孫次郎、孫五郎が存在したと推測した。

追記:2024/3/2
山内上杉憲房について検討した結果、憲房についての表現を一部修正した。

*1)『新潟県史』資料編4、1435号
*2)同上、1857号
*3)同上、1436号
*4)佐藤博信氏「戦国大名制の形成過程」(『上杉氏の研究』吉川弘文館)、これによると、文明後期に守護上杉房定が「古志郡検地帳」などに見られる検地を行い、それを受けて次代房能が明応期以降に「段銭定納帳」、「国衙之帳」、「蒲原郡段銭帳」を作成した、とする。
*5)『越佐史料』三巻、519頁
*6)同上、558頁
*7)『新潟県史』資料編3、451号
*8)同上、452号

三条山吉氏の系譜1

2020-09-10 20:19:33 | 三条山吉氏
上杉謙信の重臣として山吉豊守が有名であるが、山吉氏についての系譜は不鮮明である。系図としては元禄16年(1703)成立(*1)の『越後三条山吉家伝記之写』が最も古いが、詳しい記述が載るのは「政久」以降の当主からである。文書類を始めとする諸史料を検討して、山吉氏の系譜関係を整理してみたいと思う。

山吉氏初見は応永29年(1422)山吉行盛免許状(*2)である。次いで、応永31年から久盛が見える。行盛と久盛の関係は不明である。

[史料1]『新潟県史』資料編5、2687号
当寺之事、任亡父久盛判形之旨、諸役等事、不嫌甲乙人等令停止之、但三ヶ条之人躰出来之時者、科人計渡給、家財已下之事者、可為御計者也、仍件如、
永正八年九月十七日      正盛
本成寺

[史料1]は山吉正盛発給の本成寺宛安堵状である。「亡父久盛」とあり、父が山吉久盛であるとわかる。しかし、山吉大炊助久盛の発給文書が確認できるのは応永31年(1424)(*2)から文安3年(1446)(*3)であり、その後の山吉氏の所見明応元年(1492)(*4)とは半世紀の開きがある。ちなみに、本成寺文書は「不慮之焼失」により「鼻紙程度モ不残」(*5)と言われるように天文年間や永禄年間に文書群の焼亡が想定され、『新潟県史』も「本文書群は、後年の蒐集書写かどうかも含めてなお検討を要する。2665号~82号は紙質・筆跡の似る者が多い。」としている。そういった関係で史料残存にも偏りがあるのかもしれない。

正盛は永正7年(1510)9月の長寿院妙寿書状(*6)中にその名が見られるから永正年間の生存は確かであり、山吉久盛も中条秀叟記録(*7)に応永33年の項に見え応永年間に活動していたことは正しいとわかる。父久盛の活動時期や永正年間には山吉能盛や山吉孫五郎といった人物も活動していたことから正盛は高齢であったと考えられる。久盛の初見時20歳だとして1450年頃久盛40歳程度で正盛誕生とすると永正8年には正盛60歳程度となり、久盛と正盛の父子関係は成立する。世代間が離れているため山吉久盛という同名別人が存在した可能性もあるが、花押型について山吉久盛発給の応永31年(1424)段銭請取状(*2)と文安元年(1444)打渡状(*8)の花押を比べるとほぼ同じであり、残存史料からは山吉久盛は一人と捉えられる。

冗長になったが、山吉久盛と正盛の父子関係を肯定する。

[史料1]に「三ヶ条之人躰出来之時者」とあるように正盛は大犯三ヶ条に対する検断権を持つ蒲原郡郡司であったことがわかる。また、文亀3年長尾能景が山吉四郎右兵衛尉へ書状(*9)を発給していることから、正盛は四郎右兵衛尉を名乗ったと考えられる。四郎右兵衛を後述する正綱に比定する向きもあるが、この書状は水原氏の「知行分不入」や「済物多少相論」などから蒲原郡司の職に由来するとされ(*10)、郡司であった正盛に宛てられたものと考えている(*11)。

明応元年には山吉四郎右兵衛門尉宛長尾能景証文(*12)を受けて、弥彦神社へ山吉正綱打渡状(*13)が発給される。『三条市史』は江戸時代の作成の写しと推定し、さらに『新潟県史』は改元が反映されていないことから「検討を要する」としている。正綱に関しても他に所見がなく、或いは正盛の誤りであろうか。ただ花押型は正盛と異なっており、正盛から偏諱を受けた一族であろうか。

次回は、正盛の次代能盛から検討する。


*1)現存する写本の成立が元禄16年であり、原本の成立はさらに遡る。
*2)『新潟県史』資料編4、1813号
*3)『新潟県史』資料編5、2683号
*4)同上、2882号
*5)同上、2700号
*6)『越佐史料』三巻、559頁
*7)『新潟県史』資料編4、1316号
*8) 『新潟県史』資料編5、2669号
*9)『越佐史料』三巻、451頁
*10)中野豈任氏「越後上杉氏の郡司郡司不入地について」(『越後上杉氏の研究』吉川弘文館)
*11)正綱が久盛・正盛父子の間に郡司として存在した可能性は、正綱が正盛の偏諱を受けていることから考えづらい。
*12)『新潟県史』資料編5、2882号
*13)同上、2883号