長尾房長は永正期から天文期にかけて活動した上田長尾氏の人物である。越後守護代長尾為景とは当初良好な関係を築いていたが、天文の乱において上条定兼、中条藤資らと共に反旗を翻す。天文期における房長と為景の抗争については多数の文書が残る一方で、年次推定など細かな検討は進んでおらずその全貌は掴みづらい印象がある。今回、天文の乱に端を発した長尾為景と上田長尾房長の抗争を主眼におき、文書群をもとにその経過について検討していきたい。一連の抗争は後年の長尾政景の乱と対比し、長尾房長の乱と呼んでおきたい。
1>天文期以前の両者の関係
永正6年7月に山内上杉可諄が越後へ進軍し、長尾為景らを越中へ敗走させる。この抗争において、房長の叔父で先代にあたる上田長尾顕吉は山内上杉氏方として見える(*1)。しかし、為景らの反攻により可諄は永正7年6月に戦死する。この際に上田長尾氏が寝返り退路を断ったとの俗説があるが、それを示す史料はなく以前検討したように前後の状況からも史実とは考えられない(長森原合戦比定地を妻有庄・波多岐庄とする検討の提示 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。永正7年11月に顕吉が後継者房長を越後府中へ出仕させており、同時期に為景へ帰属したことが推測される(*2) 。これ以降は越後国内の情勢は安定しており、顕吉から代替わりした房長も為景方として活動している。
2>天文の乱における抗争
比較的安定した為景の治世のなかで、房長が反抗するに至るのは上条上杉定兼(定憲)が挙兵した天文の乱においてである。当乱において、両者の交戦は天文2年9月より所見される(*3)。同年10月居多神社宛長尾為景書状(*4)に「當敵上条播磨守并同名越前守、叛逆之張本人中条越前守・新発田一類速退治」とあることから、房長が揚北衆中条氏らと共に定兼へ与しその旗幟を鮮明としたことは明らかである。この房長の行動は国内の所領や利権の都合もあるだろうが、房長の母が上条氏出身と考えられるためその血縁関係が定兼との共闘に関係した可能性がある(上田長尾氏の系譜1 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。
天文2年9月以降、天文3年中においても為景と定兼の抗争は続き史料上は頸城郡を中心にその軍事的衝突が認められる(*5)。天文4年5月になり定兼方の勢力が結集し、妻有衆、薮神衆や宇佐美氏、大熊氏と共に上田長尾氏の軍勢が定兼の本拠鵜川庄上条へ参陣したこと同月長尾為景書状(*6)からわかる。後述するが同年7月坂戸城近辺で生じた五十澤口の戦いについて房長は「注進到来」(*7)として把握しているから、房長自身が坂戸城を留守にして上条へ出陣していたと考えられる。敵が上条に集結した事態に際し、為景は下倉城福王寺彦八郎、波多岐庄下平氏に「河東」への攻撃を命じている(*6)。「河東」とは信濃川右岸、現在の十日町市の信濃川以東の地域を指すと推測されている(*9)。これらから推測される点は、上田長尾方の勢力圏が自身の拠点上田庄と妻有、薮神で構成されていたということである。為景方の前線は福王寺氏の下倉城、下平氏らの十日町であり、地図に当てはめれば両者の前線は噛み合うこととなる。山内上杉氏の影響下にあった妻有、薮神と上田長尾氏の関係は天文期まで続いたといえる。
さて、この後為景は同年6月に治罰の綸旨を獲得し(*10)し、政治的な対応もこなした上で揚北衆も従えた上条定兼軍の進行を迎え撃つ準備に追われていたと考えられる。その中で上述の為景方と房長方の境界も緊迫度を増す。
天文4年7月17日までには「五十澤口」にて両勢力が衝突し古藤清雲軒ら房長方が勝利し為景方下平次郎太郎が戦死している(*11)。五十澤という地は坂戸城の麓にありこの時は為景方の下平氏らが攻勢に出たところを房長方の古藤氏らが迎撃したという構図が想定される。そして、この勝利を受けて同月房長は穴澤新右兵衛尉に下倉城を攻めることを命じている(*12)。同書状には「上条之者共令同心」とあるが、これは上条上杉氏ではなく穴澤氏の近隣の広瀬上条の地侍=「広瀬契約中」を指すと思われ、房長が薮神の在地勢力を味方につけていたことがわかる。
同年8月には上条定兼が平子弥三郎を味方に誘い、房長、中条藤資ら揚北衆からも同様の内容の書状が送っている(*13)。また、房長は同年9月22日までに古志郡蔵王堂周辺を攻撃したことが同日長尾張恕書状(*14)からわかる。上条定兼や揚北衆と連携しながら、中郡の為景方の勢力へ圧力をかけていたことが想定される。また、同書状で為景は福王寺氏へ敵は出陣中で留守となっているだろうから「妻有・河東」を焼くように、と命じている。同書状は従来天文5年とされてきたが、後述のように天文5年9月では房長は下倉城周辺において劣勢となっており中郡蔵王堂まで進軍することは困難であったと思われ、天文4年9月のものと考えられる。
しかし、同年9月に揚北衆の首魁中条藤資が病気となりそのまま死去し、定兼の軍勢は維持が困難となったと思われる (中条藤資の動向3 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。房長も定兼方の軍事力が低下したことを見て、自領へ帰還したことが推測される。翌年4月に定兼が死去したことが『越後過去名簿』に記載されていることから定兼は戦没した可能性が高く、これを以て天文の乱は為景の勝利で終結したと考えられる。
ここまで、房長は上条定兼らと共に為景に反抗し、上田庄から出陣し上条や蔵王堂など上郡から中郡にかけて軍事行動を展開しながらも、内部事情も絡んで上条方が不利となったために上田庄への退陣を余儀なくされたと考えられる。また、五十澤の戦いなど房長の留守中における上田庄を巡る戦闘も確認できた。
3>天文5、6年における抗争
上条定兼と長尾為景の抗争=天文の乱が終結した後も、房長と為景の対立は継続する。天文5、6年における両者の抗争を示す史料は多数残るがまずそれら文書の年次比定が必要であり、ポイントは署名となる。入道以前の「為景」としての終見は天文5年3月長尾信濃守宛柳原資定書状(*15)である。従来天文5年8月に為景から晴景に家督が相続され同時に入道したと考えられてきたが、前嶋敏氏の研究(*16)などにより正しくは天文9年8月であったことが指摘され必ずしも入道が天文5年8月というわけではなくなったが、私は入道の契機は天文5年4月頃上条定兼の死去にあったと以前に推測した(長尾為景から晴景への家督相続について - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。そうであれば「為景」なら天文5年4月以前、「入道絞竹庵張恕」であれば天文5年月以降となる。このような現状を把握した上で当抗争に関する文書群をみていくと概ね矛盾なく成立するため、以下で具体的に整理していく。
まず、通説を確認する。『増補改訂版上杉氏年表』(*9)では、天文5年8月に福王寺氏、山吉氏らが上田長尾氏と戦い、9月には上田長尾氏が古志蔵王堂まで進攻したとする。翌年1月には大沢を上田長尾氏が攻撃したため、翌月福王寺氏らが広瀬で合戦に及んでいる。広瀬合戦では前年12月には為景方の調略により内応した江口氏も活躍した。5月には上田長尾氏が下倉城を包囲したが為景は中郡の諸将によって兵糧運搬を試みる。8月になっても状況は好転しなかったが、為景が娘仙洞院を上田長尾政景に嫁がせることで講和したとする。以上が通説であるが、房長有利の情勢で講和に至ったという印象である。これは為景の入道を天文5年8月以降とした結果であり、天文5年4月以降とした上で抗争の経過を再構成してみたい。つまり天文6年4月~8月とされていた文書が天文5年4~8月であった可能性があり、実際には上記通説とは異なる経過であったと思われる。
[史料1]『越佐史料』三巻、805頁
就従上田敵相動、重注進旨及披見候、申越通雖無余儀候爰元も造意等申追候、無手透候上不及合力候、出陣迄は遅々之間不入置人数由、先書ニも露之候キ、重進催促候、為如何其地可捨置候哉、如何共要害堅固相踏候は無越度様可成其助候、在城之衆申合、其かせき専一ニ候、為其差越上村小五郎候、委細は彼者可有口上候、尚以自各可申越候、謹言、
五月七日 張恕
林部右京殿
福王寺彦八郎殿
[史料2]同上、805頁
其地兵糧断絶候由候之間、中郡江申付候、謹而可為入之候、涯分令用心、堅固可相踏事専一ニ候、謹言
五月八日 張恕
福王寺彦八郎殿
[史料3]同上、821頁
今度山吉其外其口へ相動候上、従上田以多人数打向候処、返合及一戦、得勝利凶徒数多討捕段、各戦功無比類候、此上之儀山吉令談合其地堅固之備専一ニ候、委細山吉方へ申越候、謹言、
九月三日 張恕
福王寺彦八郎殿
まず、[史料1][史料2]に見える天文6年5月とされる房長による下倉城包囲を天文5年5月と推測する。文中からは兵糧も逼迫するほど房長方の攻勢は激しく、この後間もなく講和するような戦況だろうか。天文5年5月であれば天文の乱直後でもあり、房長の攻勢が活発である一方、為景が頸城郡の鎮静化に追われ下倉城への援助が行き届かない状況も理解できる。年不詳5月12日福王寺彦八郎宛長尾張恕書状(*17)には「兵糧以前申付候」とあることから[史料2]で兵糧搬入計画を伝えた直後と想定される。同内容の5月12日下倉山在城衆宛長尾張恕書状(*18)も同日に比定される。8月4日長尾張如書状(*16)では以前「当口無手透、其口行延来計」と自身の出陣が叶わないことを、遅くなっているが下郡諸将へ援軍を要請していること、下郡諸将が動かない場合は黒田秀忠を派遣することを述べている。すなわち、これらの文書は天文5年5月から8月にかけての文書であったと推定される。
上述の5月12日張恕書状(*17、18)では「栃尾事連々ニ申越子細」とあり、年不詳7月長尾房長書状(*19)では栃尾城を古藤清雲軒が守備していることが明らかであるから、天文5年5月頃に房長は下倉城に圧力をかけながらさらには栃尾城を攻略していたことがわかる。上記張恕書状(*17、18)からは為景が古志上杉氏と相談して栃尾地域の奪還を目指していた様子がわかる。
続いて、 [史料3]をみると山吉政久らが下倉城へ派遣され同城を攻める房長方と交戦し撃退している様子が見える。三条の山吉氏らこそが[史料2]で伝えられていた中郡からの援軍ではないか。つまり、[史料1][史料2]を受けて為景が山吉氏ら援軍を派遣し[史料3]にある下倉城救援を行ったと考えられ、同文書は天文5年9月と推測できる。従来、この頃とされてきた房長の蔵王堂攻撃はこのような下倉城での敗戦を考えれば難しいと考えられ、先述のように天文4年9月のことと想定される。
天文5年11月には為景から福王寺氏へ「於上田ちうせついたすへき人数交名を以申越候」、「上田庄において彼者共相當之地可宛行候」(*20)と述べられ、為景方から房長の味方へ調略が仕掛けられていたことがわかる。同年12月21日長尾張恕書状(*21)にて江口藤五郎が「今度於其口露色被復先忠」と調略に応じ下倉城の防衛を為景から命じられており、天文6年1月13日長尾張恕書状(*22)には発智大学助が味方として見えるから、為景方の反攻に伴い薮神の領主の中に為景へ帰属する者がいたことが明らかである。
天文6年1月18日には下薮神の大沢城が房長方により攻略され、大沢伊豆守が戦死する(*23)。『越後入広瀬村編年史』は大沢氏も江口氏と同様に為景の調略に応じて房長方から為景方へ転じた領主と推測している。つまり、この房長の攻撃は相次いで離反する領主らへの報復であり、薮神での影響力低下を打開するためのものだったと考えられる。これに対し為景方の福王寺氏、江口氏らが反撃し、2月21日広瀬の戦いにおいて房長方を破っている(*24)。
これまでの年次推定を踏まえると、これ以降は抗争に関する所見はない。薮神における為景方の勝利が決め手となり、まもなく為景と房長の間で講和が結ばれたと見てよいだろう。史料はないがその後も状況から栃尾を始めとする古志郡における房長の占領地も奪還もしくは返還されたと推測される。
まとめると、天文の乱終結後も為景と房長の抗争は継続し、天文5年5月から7月にかけて房長が活発な軍事行動を見せ栃尾城を落とし下倉城も包囲するが、9月に山吉氏らの援軍が派遣され為景方が反撃を見せ、年末頃には江口氏など薮神の領主も味方につけるなど為景方が有利な状況へと展開していった。天文6年2月の広瀬の戦いにおいて挽回を目指した房長と為景方の決戦となり、それに為景方が勝利したことで講和へと至ったと考えられる。
史料が不足しているため、講和条件については不明である。
為景と房長の抗争は古志郡や下倉など薮神を中心とし、上田庄や妻有庄へは依然として房長の影響力が色濃く残ったと思われる。為景は天文の乱直後で国内の鎮静化が最優先であったと思われ、この講和は房長を完全に屈服させたわけではなかった。よって、為景の優勢を以て講和に至ったと考えられるが、上田長尾氏の勢力は維持され、それがのちの長尾景虎と上田長尾政景の抗争へとつながっていくと考えられる。
*1)『新潟県史』資料編4、1630号
*2)『越佐史料』三巻、612頁、上田長尾顕吉の動向 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~
*3)『新潟県史』資料編4、1556~1558号
*4)『越佐史料』三巻、794頁
*5)同上、 796~799頁
*6)同上、807頁
*7)同上、813頁
*9)『増補改訂版上杉年表』、池亨・矢田俊文編、高志書院
*10)『越佐史料』三巻、808・809頁
*11)同上、813頁
*12)同上、814頁
*13)同上、818~820頁
*14)同上、824頁
*15)同上、828頁
*16)前嶋敏氏「戦国期越後における長尾晴景の権力形成」(『日本歴史』第808号)
*17)同上、806頁
*18)同上、806頁
*19)同上、816頁
*20)同上、825頁
*21)『越後入広瀬村編年史』中世編、54頁
*22)『越佐史料』三巻、800頁
*23)同上、801頁
*24)同上、803~804頁
*25)『上越市史』別編1、18号
※24/8/30 追記 25/1/18リンクを追加
年不詳7月22日長尾房長書状(越佐史料3-816)に見える古藤清雲軒の「新山」攻略を天文5年7月に比定していたが、その後検討した結果天文4年7月であるという考えに至った。そのため、天文5年7月の「新山」攻略についての記述を削除し栃尾城を巡る状況についての記述を一部変更した。「新山」攻略の詳細については、下記の[史料7]で提示している。
※25/1/28 追記
上田長尾政景と長尾為景の娘仙洞院の婚姻を天文6年の講和を契機としたものと推測していたが、その後検討した結果天文18年10月から翌年にかけてのことであったという考えに至った。そのため、仙洞院に関する記述を削除した。