鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

八条上杉氏の系譜

2022-10-30 19:27:31 | 八条上杉氏
室町期から戦国期にかけての越後において、八条上杉氏の存在は非常に重要である。特に永正4年の政変が八条上杉氏と府内長尾氏の権力争いという側面を持っていたことは森田真一氏(*1)などの研究によって明らかにされている。しかし、八条上杉氏として所見される人物は多数に及び、その関係や系譜はわかりにくい。今回は、森田真一氏(*2)(*3)、谷合伸介氏(*4)、片桐昭彦氏(*5)、黒田基樹氏(*6)の研究を参考に独自の解釈を加えて、八条氏の系譜を整理してみよう。


1>朝顕/朝憲-満朝-満定-持定
まず、『上杉系図浅羽本』は八条氏の祖を「朝顕 中務大輔」とし、その後、「満朝 修理亮」、「満定 中務大夫」と続いたとする。

「朝顕」は『上杉系図大概』においても「朝顕、八条中書是也」と記される。貞治三年(1364)に朝顕と推定される「上杉中務大輔」が足利義詮から「本知行分」を安堵されており(*7)、森田氏はこれを越後国鵜川庄と想定している。貞治三年1月の文書には「朝顕」との署名が確認される。その後貞治四年10月「関東御所近習連署奉加帳」には「上杉中務大夫朝憲」とあることから、黒田氏は「朝憲」に改名したと推測している。


その次代とされる「満朝」であるが、『上杉系図大概』にも記載があり、「八条修理亮」を名乗ったという。鵜川庄の所領問題に関連する永和4年(1378)足利義満御教書(*8)で「上杉三郎満朝申、越後国鵜河庄事」と言及され、仮名・実名が確認できる。黒田氏は所伝等から、満朝は上杉禅秀の乱までは鎌倉府に奉公し、子満定の代から在京した可能性も指摘している。


永享3年(1431)頃と推定される「永享以来御番帳」という史料や同時期の史料『満済准后日記』に「上杉中務大輔」が散見され、谷合氏は満朝の次代「満定」に比定している。文安2年(1445)には九条満家から越後国白川庄の領家職が「上杉八条入道」へ預けられており、森田氏は満定のことと推測している。


さらに、谷合氏は長禄3年(1459)の上野羽継原合戦に関する足利義政御内書(*9)に見られる「上杉中務大輔」について、寛正6年(1465)『親元日記』に所見される「上椙中務大輔持定」と同一人物と見ている。続いて、『松陰私語』に「八条」が文明4年(1472)に古河足利軍と対峙する軍勢の中に見える。「八条」は八条氏当主を意味し、「中務大輔持定」に比定できるであろう。「持定」は将軍足利義持からの偏諱として、年代的に矛盾はない。


ここまで、朝顕(中務大輔)-満朝(三郎/修理亮カ)-満定(中務大輔)-持定(中務大輔)、という流れが明らかである。


文明10年には毛利安田氏と刈羽郡不退寺の「山」の領有を巡る相論に八条上杉氏が介入している(*10)。具体的な人物は確定できない。八条上杉氏の政治的動向を示す貴重な史料である。

また、文明後期の作とされる『越後検地帳』(*11)において、「八条伊予守」が高波保に所領を持っていたことが確認される。この伊予守は片桐昭彦氏(*5)により明応8年に京都の和漢連句会に参加した「上杉伊予守能重」に比定されている。系譜は明らかではないが、文明期から活動が見られながら長享2年元服の上杉房能から偏諱を受けていることを踏まえると、元服時には将軍家や守護家からの偏諱を受けていなかったと考えられるため、庶流と推測される。


2>持定以降の八条氏
まず持定の次世代のひとりとして、成定がいる。

『東寺過去帳』(*12)に「栄厳清秀禅門」なる人物が「松泉院と号す、永正五年八月九日切腹させらると云々、上杉八条刑部入道、俗名成定」と記され、森田氏は長尾為景との抗争に敗れた八条氏の中心人物と推測している。同過去帳には同月「子息女中衆 上杉八条衆数百人」(*13)ともあり、成定と共に戦死した者たちだろう。

「成定」という実名は将軍足利義成(在任:文安6年-文明5年/1449-1473、享徳2年/1453に義政へ改名)からの偏諱である。元服は将軍が義成を名乗った頃と考えると、享年が60~70歳になる文安年間頃の誕生と考えられる。

このように活動時期から成定が持定の次世代であることは確かである。


ここでさらに時代を下った話になるが、永正期に活動が確認される八条氏の中でも幕府との政治交渉や越後の権力中枢に関わっているものとして中務大輔(実名不明)、尾張守房孝の二名がいる。

中務大輔は、文亀2年(1502)には長尾輔景が京都伊勢氏の所領松山保を横領したため、「上杉中務大輔」へ将軍足利義澄が「直務無相違様、民部大輔申達者、尤可為神妙候也」と、上杉房能への取り成しを依頼していることで確認される(*14)。この件で上杉房能、長尾能景へも将軍始め京都関係者から届けられている(*15)。すなわち、中務大輔は守護代長尾能景と並ぶような政治的立場にいたといえる。

ちなみに、上杉中務大輔が文書上で八条氏を名乗るものはないが、その官途名より八条上杉氏であると推定されている(*2)。上記史料で見える政治的立場からも中務大輔が八条上杉氏の主要人物であると考えられる。

また、尾張守房孝は延徳3年(1491)上杉房定一門・被官交名(*16)に初見さる。のちに息子龍松を上杉房能の養子としたことが森田氏によって明らかにされており、房孝の格は八条上杉氏当主クラスと見て間違いない。


さて、房孝は延徳3年時で既に受領名尾張守を名乗っており、それより後に官途名で見える中務大輔とは別人であることは明らかである。しかし、両人ともが上記のような活動から八条上杉氏を代表する人物であることも理解できよう。このことは、戦国期八条上杉氏の主要な系統として二系統が存在した可能性を示唆している。


これを証明するものが、文明4年と推測される『松陰私語』の「五十子陣之こと、官領上杉、天子之御旗依申請旗本也、当方者京都公方之御旗本也、桃井讃岐守・上杉上条・八条・同治部少輔・同刑部少輔・上杉扇谷、武・上・相之衆、上杉廳鼻和、都合七千余騎」という記載である。

この内「八条・同治部少輔・同刑部少輔」が注目すべき点であるが、これについては以前も疑問に思いいくつかの仮設を立てながら検討した。そこでは、八条上杉氏の人物が複数記されることに違和感を覚え、犬懸上杉氏の存在なども想定しながら考察を行った。しかし、後述のように八条上杉氏の系譜を改めて考えると、上記の記載において3名すべてが八条上杉氏であると考えられる。以前の検討における認識は訂正したい。

以前は八条上杉氏は一系統と考えていたが故に誤った推測をしてしまった。戦国期越後において主要な八条上杉氏は二系統に分岐しており、『松陰私語』の記載こそ八条持定より二人の息子、治部少輔と刑部少輔に分家している様相を如実に示しているのではないかと考えるのである。


『松陰私語』では三人が併記されている五十子陣に関する記載の他にも、児玉塚での軍事活動においても「為御代官官御息男兵庫頭殿、桃井讃岐守、上杉治部少輔、同名刑部少輔」とあるように、八条上杉氏兄弟の二人が共に行動していると考えられる。


「刑部少輔」は活動時期からも成定のことで間違いない。治部少輔については実名不明である。『松陰私語』の記載順をみると治部少輔が兄で、刑部少輔成定が弟であろうか。

彼ら兄弟と中務大輔、房孝といった次代の人物のつながりは史料上確実ではないが、房孝、中務大輔、共に史料上からは政治的に重要な役割を担っており単なる庶子とは思えず、
治部少輔、刑部少輔成定の二系統を継承する人物であるとの推測が妥当であると考える。

永正期に八条房孝と八条成定はそれぞれ別個に行動していることから、両者は別系統という印象を受ける。よって、主要な二系統として治部少輔の次代として房孝が、成定の次代として中務大輔が存在したと推測する。


[史料1] 『上越市史』資料編3、577号、東寺過去帳
上杉治部大輔其外数十人
  同御曹司五才八条尾張守一家衆
「永正四八三与同名一族其外若党以下腹切或生涯
   越後国 為長尾被生涯         」

上述した以前の検討にて私はこの文書の上杉治部大輔を、犬懸上杉氏の人物である可能性があるとした。しかし、今回八条上杉氏を検討した結果それは誤りであり訂正したい。

結論から言えば、これは上杉民部大輔房能の誤記であると考えらえる。当初はなぜ「治部大輔」なのか説明がつかず、安易に誤りと判断できずに様々な検討を加えたものである。しかし八条尾張守の先代として治部少輔が存在するのであれば、その混同であると説明がつく。

混同の理由が推測通りならば、尾張守房孝、龍松が治部少輔の系統であり、中務大輔が成定の系統であるとの仮説も補強されよう。


まとめると、持定の次代に治部少輔と刑部少輔成定の兄弟で二系統に分岐し、(治部少輔)-房孝(尾張守)-龍松、成定(刑部少輔)-(中務大輔)、とそれぞれ系譜が続いたことが推測される。そして、永正の政変に関連して房孝、龍松、成定の死亡が確実である。中務大輔については所見が少なく活動時期の詳細は不明であるが、永正期に高齢の成定が中心となって活動していることを踏まえると永正期以前に死去している可能性があろう。


3>永正の政変後の八条氏
山内上杉可諄、憲房らの越後進出を伝える永正6年8月国分胤重廻文(*17)に、「八条修理亮、同左衛門尉」が山内上杉氏方として所見される。

永正7年6月上杉可諄書状(*18)には、この頃黒滝城に「八条修理、桃井一類」が在城していたことが記される。

さらに永正11年1月長尾為景書状(*19)にて六日町合戦では「八条左衛門佐殿」を討取ったことが伝えられている。

八条成定、八条房孝という主要な人物が戦死した後、修理亮と左衛門佐という二人が八条氏として活動していたことがわかる。しかし、詳細な系譜関係までを推定することは不可能である。両者がそのまま主要二系統を継承した可能性や、永正の政変による嫡流の没落により庶家が台頭していた可能性など様々なことが考えらえる。


その後史料上八条氏はしばらく所見されないが、『高野山清浄心院越後過去名簿』に「雲高居士 白川庄八条憲繁 天文十一 八月三日」と確認できる。よって、府内長尾氏の支配が確立した後も、白川庄を拠点に八条氏が存在していたことがわかる。文安2年に京都九条満家が「白川庄領家職」を八条上杉氏に預けており、白川庄との繋がりは天文期まで続いていたようだ。

同じく、『名簿』に「理帝宗郭 蒲原水原八条弥四郎殿 天文十一 十月廿三日」とある。「蒲原水原」が居住地を表すから、八条弥四郎も白川庄を拠点とする八条氏の一族であったとわかる。或いは、日付も近いことから憲繁と弥四郎は父子関係といったところだろうか。

白川庄と八条氏の関係は満定の代から確認されるが、天文期に白川庄を拠点としていた八条氏の系譜上の位置については明らかでない。


この『越後過去名簿』の所見を最後に越後において八条上杉氏は確認できない。天文10年前後の越後国内の抗争において八条上杉氏は越後から完全に没落したと想定できるのではないか。八条憲繁、弥四郎の両人が天文11年に立て続けに死去していることもそれを示唆しているように思う。

※追記 2022/12/3
八条修理亮、八条憲繁らについて追加で検討を行い、修理亮から憲繁へ白川庄八条氏の系譜が繋がっている可能性も考えられることを示した。


4>まとめ
ここまで、八条上杉氏の系譜について嫡流を中心に検討してきた。京都での活動が中心であった八条氏が享徳の乱をきっかけに越後へ下向し、主要な二系統を中心に繁栄、守護上杉氏へ養子を出すまでになる。その後、永正の政変を契機に没落、天文10年代前半に完全に越後から姿を消したと考えられる。

多分に推測を含むものとなってしまったが、それだけ八条上杉氏の研究には史料的制限がある。系譜の細部については後考に拠るところが大きいといえよう。



*1)「上杉房能の政治」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)
*2)「越後守護家・八条家と白川荘」(同上)
*3)『上杉顕定』戒光祥出版
*4)「八条上杉氏・四条上杉氏の基礎的研究」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)
*5)「房定の一族と家臣」(同上)
*6)「扇谷上杉氏の政治的位置」(『扇谷上杉氏』戒光祥出版)
*7)『新潟県史』資料編3、1008号
*8)『新潟県史』資料編3、1009号
*9) 『越佐史料』三巻、103頁
*10)同上、232頁
*11)同上、277頁
*12)『上越市史』資料編3、589号
*13) 同上、588号
*14)『新潟県史』資料編5、3894号
*15)『新潟県史』資料編5、3894~3903号
*16)『高野山正智院文書集一』82
*17)『越佐史料』三巻、519頁
*18) 同上、539頁
*19) 同上、605頁

長森原合戦比定地を妻有庄・波多岐庄とする検討の提示

2022-10-02 14:00:44 | 山内上杉氏
永正7年6月20日、関東管領山内上杉可諄(顕定)が「長森原」にて討死する。前年から越後へ侵攻し府中まで制圧するも、長尾為景の反撃に合っての結果だった。

通説では、「長森原」は現在の南魚沼市長森に比定される。当時の上田庄に位置する場所である。その根拠は、可諄の墓所と伝わる塚の伝承である。管領塚と呼ばれ史跡公園となっている。

しかし後述するが、実際には確実な史料はない。

『越佐史料』所収の編纂史料においても上田庄長森原と示しているものは、『新編会津風土記』が記す伝承が唯一の所見である。むしろ、『越後名寄』や『北越略風土記』においては妻有庄長森原と伝えられている。上田庄、妻有庄共に魚沼郡であり、「魚沼郡長森原」ではどちらかわからない。

『越佐史料』では上田庄長森原と推定し妻有庄長森原を誤りとしているが、その根拠は明らかでない。現在にも地名が残るのは上田庄の長森原であり、そこからの逆算的な考えであれば危うい。ここでは既存の固定観念を捨てて、「長森原」が実際にはどこであったか検討してみたい。

そして結論からいえば、戦場は現在の津南町と十日町市の接する地域、具体的に言えば波多岐庄のうち信濃川、中津川、清津川、十二峠に囲まれた領域に位置していたと考えられる。


1>中世妻有庄と近世妻有庄
はじめに「妻有庄」について説明する必要がある。というのも、中世妻有庄と近世妻有庄では指す領域が大きくこと異なるのだ。織豊期において荘園制は完全に実態を失い、それまでの荘園地域ごとの呼称が変化したことが示されている。「妻有庄」の変遷は『津南町史』の研究に詳しい。

まず、近世妻有庄は戦国期まで妻有庄波多岐庄に分かれていた。近世妻有庄は旧十日町市、旧中里村、旧川西町、現津南町のことを指す。

中世妻有庄は現津南町のうちでも中津川、志久見川に形作られた地域とそれに相対した信濃川北岸の地域であり、その他の地域は波多岐庄と位置付けられていたこと指摘されている。

つまり、戦国期妻有庄と江戸期の史料における妻有庄は別物であることに注意していく必要がある。ちなみに、波多岐庄だった領域が妻有庄に含まれる初見は文禄5年より行われた上杉景勝による魚沼郡検地である。この違いが歴史的認識の齟齬を生む原因になり得るため、便宜的に近世妻有庄を赤色、中世妻有庄、波多岐庄を青色に表記して差別化しておく。


2>長森原合戦前後の山内上杉氏の動向
それではまず、長森原合戦前後の山内上杉氏の動向を整理したい。

[史料1]『越佐史料』三巻、541頁
(前略)
上条弥五郎相馳砌、寺泊要害為始、長茂張陣之衆被除以来、各屋敷打明候之間、同名六郎至于寺泊出張、先衆号椎谷山地執陣間、一昨十日、憲房被及進陣候、然而平五郎上州一揆相重軍不可延引、勝利不可疑、去六日、於蔵王堂同名弥四郎遂一戦、六郎傍輩被官宗徒者百騎人討捕、験到来不知数、残党百、信濃川へ追入候、如斯間、揚河南者、三条、護摩堂計敵相踏候、其外悉復候、黒瀧要害之事者、八条修理、桃井一類在城堅固に候、寺泊六郎等取不除様廻行候、去月信濃口高梨衆同牢人等打出、上郷に相散、号板山地に執陣候間、廿八、九両日、自当府遣勢、可被懸之所敗北、是又可心易候、(後略)
  永正七年六月十二日      可諄
   長尾但馬守殿

[史料2]『越佐史料』三巻、542頁
渡海以後其口之儀不聞候、無心元候処、飛脚到来去月廿日一戦得勝利、糸魚河張陣之由候、各動神妙之至候、此口之事、度々合戦切勝至于柏崎進発、府中口へ先勢差遣候、本意不可有程候、可心安候、委細長尾六郎可申遣候、謹言
   六月十九日     定実
    村山源六殿


[史料3]『越佐史料』三巻、560頁
(前略)
抑去月六月十二日、於椎谷一戦失利候、所存之外候、然処長尾六郎、高梨摂津守競来候間、同廿日遂一戦可諄討死、不及申次第候、椎谷一戦之後者、妻有之庄ニ某立馬候、国中如此之上者、力不及、関東江入馬白井ニ候、(後略)
   八月三日      藤原憲房
  拝呈 上乗院


これらが当時の一次史料である。まず、山内上杉憲房が妻有庄にいたことは文書より確実である。では、系図類ではどうであろうか。

『上杉系図大概』
四郎顕定、越後国守護相模守房定実子、法名可諄、道号告峯、号海龍寺殿、為房顕養子、応仁元年丁亥任管領、永正七年六月廿日、於越州長森原合戦討死、年五十七

『高梨系図』
憲房椎屋ト云所へ押寄合戦アリ、憲房打負妻有荘へ引籠、上野ノ勢ヲ待、重テ退治スヘシトテ軍勢を催ケルニ、高梨・長尾勝誇タル勢ニテ逆寄シケレハ、同廿日ニ可諄長森原へ打出合戦アリテ長尾六郎ヲ追立ラル所へ高梨突懸戦ヘバ、可諄打死シ、悉敗軍シケル、


次いで、江戸期の編纂物を見てみたい。

『関八州古戦録』
山ノ内管領民部大輔顕定入道可諄斎、永正七年六月廿日、越後ノ国魚沼郡長森原ニ於テ、長尾六郎為景、高梨攝津守政盛等ト戦テ討死

『関東管領記』
(椎谷合戦にて)顕定父子軍ニ打負テ、妻有庄へ引退テ、猶上州ノ勢ヲ招キ、暫時令逗留処ニ、為景並ニ高梨摂津守、椎屋ヲ払テ、千二百騎大軍ヲ将テ押寄ス、顕定出向テ、同国長森原ニ於テ合戦ス、顕定入道可諄長刀ヲ持テ、敵兵ニ切懸ル処ニ、高梨摂津守馬ヲ駆寄、組テ落、終ニ顕定を討取ル


以上をまとめると、それまで越中や佐渡に逃れていた長尾為景が永正7年4月に越後蒲原に上陸し寺泊を制圧、その後上杉憲房を椎屋に破り、劣勢となり越後府中を退陣してきた上杉可諄を高梨政盛と共に討ち取ったことがわかる。編纂物では可諄は妻有庄にいたとするものが散見される一方上田庄の名前は全く見当たらない。


さらに上杉可諄戦死の場所を伝える史料を見てみたい。

『新編会津風土記』
越後国魚沼郡之五 六日町組 長森村 長森原
村南ニアリ、永正七年六月二十一日、管領山内ノ上杉民部大輔顕定入道可諄打死セシ古戦場ナリ、(中略)、此合戦ニ打死セシ屍骸ヲ埋シ所ト見エテ、今田園ノ間ニ数十ノ堆土累々トシテ連レル者所々ニアリ、其辺ヲ耕ス者、時々白骨ヲ見ルコトアリト云フ

『北越風土記』
古戦場 魚沼郡
長森原 妻有 山中なり、永正七年六月廿日上杉顕定と高梨攝津守政頼と合戦、顕定敗北討死

『越後名寄』
古戦場魚沼郡妻有庄
長森原 山中也、永正七年六月念日戦場ナリ

『北条五代記』
翌年一揆おこつて府中をはいぐんし給ふ、えちごしなのさかひながもり原にをいて、たかなし落合、おなしき七年六月廿日、とし五十七にしてしやうがいなり

『本土寺過去帳』
越後国関山ニテ薨去、武州管領 可准尊霊 永正七年庚午六月廿日申酉刻討死


このように具体的な場所を伝えるものの記述は注目に値する。まず、『新編会津風土記』
であるがこれが現在の通説である。しかしよく読めば、塚については雑兵の屍骸を埋めたものと伝えており、通説とは食い違いがある。つまり、可諄の遺体を埋めたことが記された史料は認められない。

そして、『北越風土記』、『越後名寄』は長森原を妻有庄と伝えている。

さらに、『北条五代記』は「越後信濃境長森原」としている。信越国境であれば、上田庄ではなく妻有庄のことである。

『本土寺過去帳』は現南魚沼市の関山で死去したことを伝えている。ここまで見ない所伝だが、これについては後述する。

このように通説とは異なり、一次史料や所伝類においても妻有庄の存在は大きく、反対に上田庄との関連は乏しい。尤も先述したように、江戸期史料の「妻有庄」は中世における妻有庄+波多岐庄であることに留意して利用する必要がある。


3>戦場を妻有庄・波多岐庄とした場合の整合性
ここから、長森原が近世妻有庄妻有庄+波多岐庄であったと仮定して整合性を確認していく。最も重要なことは、この地域が越後府中と関東の経路上にあることを認識することであると思っている。

越後府中と関東を結ぶ街道は複数あり、越山後に南魚沼から柏崎へ抜けるルートと南魚沼から松之山を通り直峰へ抜けるルートに大別される。後者が安塚街道や松之山街道と呼称され妻有庄を通過する経路であり、越後府中‐関東を結ぶ最短ルートでもある。

さて、永正6年8月11日国分胤重廻文(*1)には抗争当初上州から進行してきた山内上杉可諄・憲房を高梨氏ら長尾為景に味方する信濃の軍勢が志久見口、白鳥口から妻有庄に出陣し迎撃したとある。つまり、越後入国の際に可諄らは妻有庄を経由するこの最短ルートを用いたことがわかる。妻有庄は山内上杉氏の領有する土地でもあり、自然な選択である。

問題は、可諄らの退却経路だろう。椎谷の戦いに可諄は参戦しておらず、スタート地点は越後府中だ。

ここで上田庄長森原を通るには府中出発後柏崎を通り、小千谷もしくは十日町を経由し南魚沼に出たことになる。しかし、椎谷は柏崎に近く、その後の経路も遠回り且つ危険性が高い。わざわざ敵の近くを遠回りして退却することは非合理的であり、入国時と同様に妻有庄を経由する松之山街道が退却に使用されたと考える方が自然である。そもそも憲房が妻有庄にいたわけであり、可諄も合流したと考えるべきであろう。

この場合、もちろん上田庄長森原は経由しない。


ここからは、さらに退却路について根拠を示したい。

 [史料1]「去月信濃口高梨衆同牢人等打出、上郷に相散、号板山地に執陣候間」に注目する。「板山」は現津南町外丸字板山の丸山に位置する板山城のことであり、「上郷」はその板山の西側に現在も地名が残る。つまり永正7年5月時点でも高梨政盛が妻有庄で軍事活動に及んでいたことが明確である。

この時は5月28、29日に山内上杉軍に敗北し退陣したとあるが、長森原の戦いが起きた6月近くも妻有庄山内上杉軍によってしっかり防衛されていたことの証拠であろう。とすると、6月近くまで信越国境にいた高梨政盛が強固な防衛線が引かれていた妻有庄を飛び越えて上田庄長森原に進軍し可諄を討取るというのも考えにくく、戦場は妻有庄・波多岐庄である方が自然である。


また可諄の退却経路の参考として、永正4年8月上杉房能の事例がある。房能は長尾為景と対立し越後府中から関越国境方面へ退却したわけであるが、逃げ切れずに現十日町市松之山天水にて自害する。この天水という場所は、雁ケ峰峠を越えると妻有庄・波多岐庄に至る。つまり、房能が使用した経路こそ松之山街道である。

先に見た板山城はこの峠を絞扼する位置にある。高梨政盛の板山城を巡る攻防も越後府中と妻有庄の分断を意図したものと見れば、可諄が特に書状に記すほど重要視したことも理解でき、妻有庄は可諄の退却においても重要な拠点とされたことは容易に想像できる。


ここで、『津南町史』を参考に可諄の退却路についてさらに詳細に検討する。府中-直峰-松之山・天水と通過し、雁ケ峰峠を越えると、外丸-鹿瀬へ出て信濃川を渡河する。さらに、その後関東へ出るには十二峠、栃窪峠、切明越など複数の経路があるが、栃窪峠は北上して遠回りする必要があり、切明越は江戸期に至っても通行困難といわれる悪路であるから、可諄は十二峠を越えて南魚沼へ進出し、三国峠から関東への退却を図ったと思われる。

さて、この十二峠についてさらに注目する。『津南町史』における渡河後の推定経路は、津南原-所平-田代-倉俣-小出-葎沢-十二峠-関、という。これは近世妻有庄に位置し、中世では波多岐庄に属する領域である(*2)。合戦が行われるとすれば、この領域と推測される。

さらにここで先ほど掲示した『本土寺過去帳』の記載に注目する。可諄は「関山ニテ薨去」、関山という地にて死去したと伝えるのである。現在、十二峠の麓南魚沼市石打に関山神社が残り、その周辺の地名は「関」である。

長森原合戦が松之山街道を退却する過程で生じたとすると、実際可諄の死亡確認や遺体整理などは戦場ではなく、十二峠を敗走し自勢力が残存する上田庄内で行われた可能性が高いであろう。

越後府中-松之山-妻有庄・波多岐庄-関-三国峠-関東、という関連地が街道に沿って矛盾なく並んでいることが理解できるであろう。

ちなみに、上田庄は永正7年6月以降も山内上杉氏勢力が残っていることが確認できる。上田長尾氏が寝返った結果、可諄は上田庄長森原に追い詰められたというような俗説も見るが、これは根拠がない。妻有庄・波多岐庄であれば山越えで行軍が遅延した所を追いつかれたという流れが想像できるが、平地である上田庄長森原では合戦の生じる理由がなかったため、上田長尾氏が寝返り挟み撃ちになったのだろうという妄想にすぎない。長森原合戦に上田長尾氏の動向が伝えられていないことも寝返ったと邪推された一因だろうが、戦場が上田庄でないのならそれも当然である。

上田長尾氏の寝返りは史料上確認できず、可諄戦死後も上田長尾氏は山内上杉氏方として交戦を続けていた可能性が高いことは以前も検討済みである。

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4>まとめ
このように、諸史料類を吟味していくと長森原古戦場は上田庄ではなく、近世妻有庄、中世における波多岐庄に属する十二峠手前の地域だったと考えられる。


そもそも関東管領ほどの人物が戦死したからといって戦場に放置され、その場で塚に埋められるとは考えづらい。

上田庄は長年に渡り様々な合戦の舞台となっており、それにより放置された雑兵の遺体を埋葬した塚なども散見されたのであろう。そういった塚のひとつが偶然にも地名が一致していたため、著名な長森原合戦と結び付けられ、関東管領の塚などという尾鰭までついて現在に伝承されたと考えられる。中世において交通の要衝だった津南地域だが、現代においては南魚沼地域に主要な交通路が発達し津南地域は山間部の難所といったイメージがありそれをそのまま中世に投影してしまった可能性もあろう。

現在、上田庄に比して妻有庄・波多岐庄についての史料は少ない。これも妻有庄・波多岐庄が見過ごされた一員であろう。しかし、史料が少ないから歴史的価値が低いわけではない。むしろ要地であったが故に山内上杉氏や越後上杉氏の支配が強く、両氏の没落によって史料が失われたのではないか。

山内上杉氏、越後上杉氏だけでなく、上杉謙信の代においても軍事・経済の基盤として重要視されていたことは間違いない。妻有庄・波多岐庄の再評価が今後必要になってくるだろう。


*1)『越佐史料』三巻、519頁
*2)正応4年鳥山氏が「波多岐庄」の深見、倉俣などに関する譲状を発給している。