鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

上田長尾政景の乱 再考

2025-02-08 16:51:00 | 長尾氏
越後上田庄を拠点とする上田長尾政景は天文後期、家督相続直後の長尾景虎に従わず反攻姿勢を明らかにする。いわゆる長尾政景の乱(以下政景の乱)である。政景が後の上杉景勝の実父であることも相俟ってか、政景の乱があったという事実については広く知られている。しかし、その年次比定や詳細な乱の経過などについての研究は不十分であり、検討の余地がある。これまで通説では天文18年中に景虎・政景の対立が生じ、天文20年初頭に軍事衝突に及んだ結果同年3月に和睦を結び、その後再び関係が悪化するも同年中に和睦が完成したとされる。

私は以前に政景の乱を検討し、天文17年中に政景は長尾晴景・景虎方との対立し、天文18年初頭に軍事的な抗争が生じたのち同年春に和睦、その後天文19年から20年にかけて関係が悪化し、20年秋までに最終的な和睦が完成したと推測した(*1)。しかし、天文19年から20年にかけての対立については通説に拠るところが大きく、今になって文書群をよく検討すると整合性を欠く部分があることに気が付いた。結論から言えば、文書群の検討の結果、天文17年に生じた対立は天文18年初頭の軍事衝突を経て春に和睦を結び、その後再び関係の悪化が見られるも同年7月の景虎による軍事的圧力により同年10月までに政景が事実上の従属を遂げたと推定される。

今回は、通説や以前の私の検討における誤りを訂正したい。その上で次回以降、政景の乱の経過について再構築していきたい。

1>天文17年における政景の乱
まずは通説では指摘されていないものの、晴景・景虎と政景の対立、敵対関係が既に天文17年中において生じていた点についてみる。

同時期の背景を確認したい。天文17年10月以前に「弥六郎兄弟之者ニ、黒田慮外」(*2)なる事態が勃発、守護代長尾晴景へ重臣黒田秀忠が反攻、いわゆる第一次黒田秀忠の乱引き起こした。当乱の年次比定については、前嶋敏氏(*3)が天文17年であることを指摘しており、以前の記事(*4)で詳解している。この状況に当時栃尾城に在城していたと推定される長尾景虎は「遂上郡候、覃其断候処、桃井方へ以御談合、景虎同意ニ可加和泉守成敗御刷、無是非次第候」(*2)、つまり栃尾から晴景と秀忠の抗争の中心である上郡へ参陣し重臣桃井氏と相談の上で「和泉守」=秀忠を制圧すると述べている。天文17年秋(7~9月)に景虎が上郡へ出陣したことは天文18年2月長尾景虎書状(*5)においても「去秋此口へ打越」とあることからも確実である。さらに同書状には秀忠について「可加成敗分候之処、其身以異像之体、可遁他国之由、累嘆之候間、任其旨、旧冬当地へ相移候」とあり、「旧冬」=天文17年年末までに景虎が秀忠を降伏させたことが明らかである。同書状にはさらに「無幾程逆心之企現形之条、即以御屋形様御意、黒田一類悉愈為生害候」とあり、秀忠は再び「逆心」=第二次黒田秀忠の乱を引き起こし、天文18年2月末までに長尾景虎によって殺害されたことがわかる。そして、この間天文17年12月末に景虎が晴景から家督を継承していることが天文18年1月本庄実乃書状(*6)からわかっている。つまり、天文17年9月までに景虎は当時の拠点栃尾城より出陣し、上郡において軍事行動や家督相続に多忙であったことがわかる。

それでは天文17年における政景の乱との関連文書だが、某年9月長尾景虎書状(*7)、某年9月長尾景虎書状(*8)がある。双方年不詳とされるが、宛名の書札礼から年次比定が可能である。前者(*7)は小越平左衛門尉が「殿」敬称で宛名されているが、同人宛の他書状では全て「との」敬称なのである。「殿」と「との」には明確な差異があり、広井造氏(*9)によると「との」は陪臣に対して使われたとされる。小越氏は栖吉長尾氏家臣であるから同氏を継いでいた栃尾城主時代の景虎とは直接の家臣であったが、景虎が晴景の跡を継いで守護代長尾氏となった後は陪臣に位置付けられる。つまり、「殿」敬称の同書状(*7)は景虎が栃尾城在城時期に発給されたと言えるのである。ちなみに、景虎が栖吉長尾氏を継いでいた点については以前の記事(*10)で検討済みである。次に、後者(*8)では薮神周辺の領主らが「大沢殿」、「江口殿」、「福王寺殿」と記される。この書状において「名字+官途・受領名+殿」ではなく、「名字+殿」と記載されより丁寧な表現となっている。家督相続後の景虎は「福王寺兵部少輔殿」(*11)や「江口式部丞殿」(*12)のように彼らを薄礼の書式で記している。そのため、より丁寧な書式で記載された同文書も発給された時期は景虎の政治的地位が低い時期、すなわち家督相続前であったことが推測される。そして、景虎の家督相続前に栃尾城より離れた地域に出陣したという明らかな記録は天文17年の黒田秀忠の乱の他にないため、両文書が天文17年9月に比定される。秀忠の乱が生じた月日とも合致しており、この比定の蓋然性は高いと思われる。

両文書を見ると、前者は栖吉長尾氏家臣庄田氏、小越氏に栃尾城の守備を命じるものであり、後者は福王寺氏など薮神の領主らに下倉城の守備を命じている。後者において景虎は「当郡之様躰大切候間、先以可令越年分候」と述べており、秀忠の乱や家督相続など諸問題で多忙のため上郡で越年せざるを得ない様子が明らかである。

これらの文書では景虎が諸城郭の守備を命じているがそもそも敵は誰なのであろうか。その勢力こそ、栃尾城、下倉城の領域に勢力圏を接する上田長尾政景であったと考えられる。留守中の警備を指示にしては「至于今日も、其元無凶事候事」などと内容が差し迫っており、福王寺氏、大沢氏、江口氏ら薮神の諸領主が領域の主要拠点=下倉城に集結して守備している点も当時軍事的緊張が高まっていたことを示すと思われる。

さらに、天文18年本庄実乃書状(*13)において景虎方より上野氏に対して「御かせ義簡要」=軍事行動が期待されている。後年、天文23年上野家成書状(*14)「其以後黒田方走廻之時分、一両年致押領候」とあり、この時上野氏が実際に軍事行動に及んでいたことが確実である。上郡における秀忠の乱だけでは上野氏の拠る波多岐庄における紛争を説明することは難しいと思われ、波多岐庄に接する上田庄の長尾政景が上郡の秀忠に呼応するように反乱を起こしたことに対する対応であったと考えられば納得がいく。

このように文書的根拠より天文17年9月までに長尾政景は晴景・景虎に敵対していたことが明らかである。秀忠は政景との協力関係を築いた上で反乱に及んだと考えるので自然であろう。

天文17年9月までに越後上郡において長尾晴景と黒田秀忠の抗争が勃発、秀忠へ与した長尾政景も敵対姿勢を明らかにする。同年9月までに晴景救援のため長尾景虎は栃尾城より上郡へ出陣、留守中の政景への対応を諸将に指示していた。ここまで以上のことが推測できる。

2>天文18年秋における終結
ここで政景の乱の終結を天文18年秋とする根拠を示したい。通説では天文20年秋とされるが事実ではないと考える。以下、便宜的にこの最終的な和睦を“秋の和睦”とし、それ以前の春に行われた一時的な和睦を“春の和睦”とする。

政景の事実上従属=政景の乱の終結を示す文書として年不詳10月14日金子尚綱書状(*15)がある。ここには「今度正印被遂出府之上」とあり、一般に主人・主君を示す用語である「正印」が政景を指し、景虎に屈服した政景の出府を表していることと理解できる(*16)。黒田基樹氏(*17)によると統制従属関係を明示する政治的行為として本拠地への出仕、人質の提出などが挙げられており、10月頃政景が出仕し景虎への服属が決定的となったことが理解される。某年5月宇佐美定満書状(*18)に「政景御舎弟被成出府」とあることから、「正印」=政景弟と捉えられがちだが語意に注目すれば誤りであるということがわかる。

よって、金子氏書状(*15)の年次比定がすなわち政景の乱終結の年を示すといえる。同書状では「既春以来府内へ無為被申刻」とあり、既に政景方から景虎方へ和睦の申し入れがなされていたと記されている。「春」とのみあることから和睦は書状と同年の春と考えて良いだろう。つまり、同書状より景虎・政景の“春の和睦”と“秋の和睦”は同年であったことが示されるのである。この点以前の私の検討では認識が不足していた。

では、“春の和睦”はいつであろうか。先にも触れた某年5月宇佐美定満書状(*18)にその根拠がある。同書状は政景方から定満拠点への放火された件について言及されているが、この放火事件は某年7月本庄実乃書状(*19)でも言及がある。この本庄氏書状には天文19年2月に死去する上杉定実が登場することから天文18年7月の書状であったことが確実であり、放火事件も天文18年のこととわかり上記宇佐美氏書状(*18)も天文18年5月であることが確かである。同書状において「上田年内御無計相調之由」、「政景御舎弟被成出府之由」が伝えられており、天文18年5月までに景虎と政景の間で「御無計」=和睦が成立し、政景弟の出府が決定していたことがわかる。これらから、“春の和睦”は天文18年春であったことが確定する。よって、“秋の和睦”が天文18年秋であったことも明らかとなる。

天文20年3月長尾景虎判物(*20)に「先年不慮之鉾楯在之節、被抽忠信条無比類候」とある。この「不慮之鉾楯」を通説のように天文19年末から20年秋にかけての抗争とすると「先年」という表現は不自然であり、上述した天文17年末から天文18年秋にかけての抗争を指すと考えられるのである。

さてこのように “秋の和睦”についても天文18年秋であったことを示すことができた。政景の乱の終結が天文18年秋であれば、その関連文書についてもその多くが天文18年秋以前であると考えられ、通説の大きな見直しが必要であると思われる。以下、政景の乱の主要な出来事について触れていきたい。

3>抗争の経過
発智右馬允が在城する城郭を巡る攻防について言及される某年1月15日長尾政景書状(*21)を初見として、同時期に魚沼郡を中心とした景虎方、政景方の軍事活動を示す文書が多数存在する。通説では天文20年1月とされていたが、上記の推論を踏まえると景虎の家督相続後かつ“秋の和睦”以前であるから、天文18年1月であることが確実といえる。

某年1月長尾景虎書状(*22)では栖吉長尾氏家臣小越氏が「村松要害」を攻略したことが記される。同要害は現長岡市村松に位置したと想定される。立地としては景虎勢力の内部に位置していることから政景の乱が終結し安定しつつある中での出来事とは考えにくく、政景の乱に関連した抗争と推測される。通説では天文20年とされてきたが、上述の経過を踏まえると、これも天文18年1月とみるのが妥当であろう。某年11月長尾政景判物(*23)を見ると「去正月、従古志郡之動ニ、祖父入道并父清左衛門討死」とあるが、同文書も同様に天文18年11月に比定することが妥当と考えられ、天文18年1月において景虎方と政景方において古志郡においても抗争があったと推測できる。

某年2月長尾景虎書状(*24)を始めとして、2月に政景方が波多岐庄を攻撃している様子が文書から読み取れる。これも上記と同様の考え方で天文18年2月と考えられる。先述のように天文18年1月本庄実乃書状(*13)において波多岐庄上野氏に軍事活動が期待されていたが、実際に翌月に波多岐庄が攻撃されており、当時の波多岐庄が軍事的に緊迫していたことが推測される。

政景が波多岐庄へ攻勢をかけた理由はなんだろうか。当時、景虎方の拠点である越後府中と上田長尾氏への前線の下倉城はいくつかの動線で結ばれていたと思われるが、恐らく最短かつ最重要であったものが府中から松之山を抜けて妻有庄・波多岐庄へ抜ける安塚街道や松之山街道と呼ばれる経路であったと考えられる。府中から関東へ抜けるルートとしての重要性は以前の記事(長森原合戦比定地を妻有庄・波多岐庄とする検討の提示 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)で検討したことがあるが、十日町、魚沼方面へ抜けるルートとしても有用であったことは間違いない。もし波多岐庄が政景方の手に落ちれば景虎は主要な街道を失うことで下倉城や俎板倉城といった前線拠点への支援が難しくなり、戦況は一変する可能性を秘めていた。そういった意味で波多岐庄の戦いが天文18年初頭における景虎・政景の抗争のクライマックスとなったことは地政学的にも首肯できるといえよう。

4>“春の和睦”
先述の天文18年5月宇佐美定満書状(*18)、10月金子尚綱書状(*15)などより天分18年「春」=1~3月に和睦があったことが確実であり、上記で見たように2月末までは抗争が続いていたから、“春の和睦”は天文18年3月のことであったと推定できる。

その契機としては、魚沼郡、波多岐庄での敗戦はもちろんあったと思われる。さらに天文18年2月に長尾景虎書状で黒田秀忠の死亡が伝えられており、政景としても重要な協力者である秀忠が制圧されていしまったことは大きな痛手であったと考えらえる。政景としても単独で越後守護代である晴景・景虎勢力に対抗できるとは思っていなかったであろう。景虎としても家督相続後に無用な混乱は避けたいだろうから、和睦で済むなら拒否する理由はなかっただろう。

条件としては、天文18年5月宇佐美定満書状(*18)にあるように政景弟の出府があり、10月金子尚綱書状(*15)には「所帯方以下互ニ被申定」とあり土地の領有権についても一定の指針が定められたようである。天文18年4月長尾景虎書状(*25)では平子氏へ宇賀地の領有が認められており、このような“春の和睦”を受けた論功行賞の一環と見ることができる。

5>関係の悪化と“秋の和睦”
“春の和睦”は講和条件が履行されなかったことが5月宇佐美定満書状(*18)からわかっており、さらには同月までには定満の拠点へ放火を行うなど明らかな敵対行動に及んでいた。政景としては“春の和睦”は秀忠の死亡による劣勢を受けての一時的な方便であり、秀忠のような反景虎勢力結集し抵抗を続けるつもりであったと考えられる。家督相続後の間もない景虎が広い越後に存在する多数の独立的な領主たちをまとめ上げるには時間がかかるという見込みもあったであろう。

しかし、実際には天文18年7月大熊朝秀等三名連署状 (*27)において「上田御行」=上田庄攻めの決定が伝えられ、同月長尾景虎書状(*28)においても「落着之義、兎角延引」を理由に政景が攻めることが伝えられている。これらの以後は政景の従属を示す10月金子尚綱書状(*15)まで抗争の経過を示す文書はないことから、景虎の全面攻撃を目前にして自身の不利を悟り“秋の和睦”=事実上の降伏に至ったと推測できる。“春の和睦”では弟の出府だった条件が、“秋の和睦”では政景自身の出府がなされていることを見ても和睦における力関係が景虎有利に傾いたことがわかる。

家督相続後まもない景虎が国内の反抗分子を抑えて政景攻撃に専念できた理由は何かあるのだろうか。私は天文18年における山内上杉憲政(当時は憲当)の関東出陣要請が関係していると考えている。天文18年6月本庄実乃書状(*29)において「関東之屋形様御音信」があり、翌7月本庄実乃書状(*19)で「関東出陣」が決定され諸将へ指示がなされた様子が確認できる。その直後、景虎は目的を関東出陣から上田庄の長尾政景攻めへと切り替え、“秋の和睦”へとつなげたのである。ちなみにこれら関東出陣計画が天文18年である点は、先述のように本庄実乃書状(*19)が天文18年の文書であることが確実であるから間違いない。

同年5月の時点で政景は宇佐美氏拠点へ放火するなど反抗姿勢を明らかにしていたから、実際には政景の拠点上田庄を通過する必要がある関東出陣は難しかっただろう。その中で景虎が関東出陣を宣言した理由は、対政景政策において関東管領山内上杉氏の威光を利用するためだったのではないか。家督相続後の若い景虎に従う者は多くなかったかもしれないが、当時小田原北条氏に圧迫され苦境に立っていたとはいえ関東管領山内上杉氏の権威を健在であり、それを大義名分として景虎は諸将へ出陣の命令を下したのではないか。つまり、これにより政景も大人しく関東出陣へ加わればそれでよし、反抗すれば関東出陣の進路を阻む政景は景虎だけではなく関東管領の敵となる。日和見の諸将もこれだけの大義名分の上で景虎か政景かの選択を迫られれば、景虎の元に参陣し政景攻撃に参加する他なかったであろう。

景虎は上記書状(*28)で上田庄への出陣を8月1日としたが、軍事衝突を示す文書はなく、同年10月金子氏書状において“春の和睦”を根拠に所領問題が論じられていることを見ても、大きな衝突はなく政景は“秋の和睦”=事実上の従属に応じたと推測される。政景としても関東管領を奉じた景虎が越後の諸将を纏めた上で攻めてくれば勝ち目のないことは承知していたのであろう。そして、やはり景虎の目的は政景の制圧だったと思われ、同年中の関東出陣は立ち消えとなる。結局関東出陣の実現は天文21年を待つことになる。

これ以降政景は、景虎権力へ取り込まれ弘治期以降重臣としての役割を果たしていくこととなる。その背景に“秋の和睦”を契機とした景虎の姉仙洞院との婚姻があったことは前回検討した(*30)。


ここまで、政景の乱に関する再検討を行った。その後重臣として活躍する政景との抗争は、景虎の治世のいわば出発点でもあり、より詳細な検討が必要であろう。今後も継続的に関連文書等の検討を行っていきたい。


*2)『上越市史』別編1、3号
*3)前嶋敏氏 「景虎の権力形成と晴景」(『上杉謙信』高志書院)
*5)『上越市史』別編1、5号
*6)同上、11号
*7)同上、237号
*8)同上、36号
*9)広井造氏「謙信と家臣団」(『定本上杉謙信』、池亨・矢田俊文編、高志書院)
*11)『上越市史』別編1、151号
*12)同上、222号
*13)同上、11号
*14)同上、115号
*15) 同上、21号
*16)鈴木正人編『戦国古文書用語辞典』東京堂出版
*17)黒田基樹氏 「戦国期外様国衆論」(『戦国大名と外様国衆』戒光祥出版)
*18)同上、51号
*19)同上、20号
*20)同上、49号
*21)同上、40号
*22)同上、47号
*23)同上、56号
*24)同上、48号
*25)同上、14号
*27)同上、53号
*28)同上、54号
*29)同上、19号