鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

黒川盛実と菅与吉氏所蔵文書

2020-08-26 09:36:30 | 和田黒川氏
[史料1]『越佐史料』三巻、587頁、
就連々わひこと候て、一筆いたし候、屋しき一けんいたし候、この以後にをいて、ほうこうかんよう候、
  永正9年             (署名欠)
    十一月十八日
  いまい弥九郎方へ

 [史料1]は『越佐史料』において「姓名欠ク、黒川カ」とされる文書である。今井氏に対して屋敷一軒を宛がったものである。姓名を欠いているが、花押は残っている。

その花押は、黒川盛実のものである。『越佐史料』に載せられた花押型と、大永6年起請文(*1)と一致する。よって、この文書は黒川盛実発給の文書であるといえる。

注目すべきはその伝来である。『越佐史料』によれば、「菅与吉氏所蔵文書」だという。これは私が黒川竹福丸が後に政実を名乗ると推測した際に、根拠として用いた文書群である。このように他の所蔵文書も黒川氏関連文書であることから、政実発給文書(*2)が黒川氏の発給であり、黒川竹福丸が後に黒川政実を名乗ったことはより補強されると考える。


以前の記事はこちら


*1)『新潟県史』資料編3付録、花押印章一覧236号
*2)『越佐史料』三巻、324頁

21/4/11リンクを追加

上郡山氏の系譜

2020-08-23 20:40:26 | 上郡山氏
戦国期に出羽国小国を拠点として活動した上郡山氏は、羽越国境という地理的性格から越後、特に揚北衆との関係が深い。今回は所伝や史料類から、その系譜を検討してみたい。


上郡山氏の系譜に関する所伝をまとめたい。

『小国町史』は天授6年(1380)の伊達氏による置賜郡攻略により小国は粟生田氏に任され二代続いた後、上郡山氏に代ったとしている。同史は上郡山氏の系譜を、民部大輔盛為-為家-景為、と示し盛為以前は不明としている。景為の代に伊達氏の移封があったとする。

また、『飯豊町史』は上郡山景為の養子として中津川丹波守実子の右近丞仲為の存在を挙げている。また、その実弟内匠常為も景為の養子となり、子に高為、重常がいたとする。

寛政4年(1792)成立『伊達世臣家譜』には上郡山氏について、常陸介景経-民部大夫景為-内匠常為-内匠高為、という系譜であるとしている。


ここからは、史料から上郡山氏の系譜を探っていく。

天文11年の伊達晴宗書状案写(*1)において、晴宗が「上郡山常陸介」の城を攻撃するよう揚北衆に依頼している。この常陸介は同年の上郡山為家書状(*2)から為家を名乗ったとわかる。


天文22年の『晴宗公采地下賜録』には「上郡山民部太輔殿」が、永禄10年に比定されている上杉輝虎書状(*3)の宛名として「上郡山民部小輔殿」が、天正7年には伊達輝宗書状(*4)中に「上民」が確認できる。民部大輔と民部少輔は小差であり、同一人物と考える。正しくは所見数の多い民部大輔であろう。為家の後継者であり、[史料1]より実名は盛為である。


[史料1]『歴代古案』第一、108号
座敷之儀、以御分別被引上被差置、是畢竟頼入候之間、直山へ能々御入魂、肝要第一ニ候、以上、
 七月一日              上民
                    盛為
 (宛名欠く)

宛名の「上民」は上郡山民部大輔を表す。[史料1]は「直山」が直江山城守兼続を表すことから天正11年以降のものとされる。さらに、「座敷之儀」に注目するとそれは天正11年に本庄繁長が「座敷是又相定上杉十郎席候」とその席次を上げていることと関連があるだろう。上郡山氏に関係するとしたら揚北衆の話題であろうから、揚北衆本庄氏の座敷について言及しているのは自然である。よって、[史料1]を天文11年に比定する。為家の後継者としてみえた盛為は天正11年の段階でも民部大輔を名乗っていたとわかる。

新発田重家の乱に際しての文書である6月18日付上杉景勝書状(*5)に宛名として「上郡山常陸介殿」が見える。「当郡就出馬」と景勝が新発田氏攻めを計画し、「輝宗于今東口御立馬之由、定而可被属素意由、存之候」と伊達輝宗の出陣について記してある。内容から同年のものである遠藤基信書状(*6)に朱書で「天文十一年」とあるが、天文11年の6月時点では景勝は新潟に在陣しており「従府内新潟へ御下向、御備御床敷候処、被返馬候哉、其以後新発田口無何事候哉」という内容とそぐわない。輝宗の隠居天文12年末までの書状であり、『性山公治記録』(元禄16年成立)によれば天正12年の5月に相馬領へ出陣し和睦を締結しており、この年6月に景勝は新発田攻めを計画のみで実現せず終わっているから(*7)から、この書状は天正12年6月のものと考えられる。

よって、盛為は天正12年に常陸介を名乗ったとわかる。

元禄16年(1703)成立の『貞山公治家記録』の天正13年8月28日の項に「羽州置賜郡長井荘小国城主上郡山民部景為」と後藤信康へ伊達政宗から小手森城落城を知らせる、とある。『記録』は続けて「上郡山氏姓ハ藤原ナリ。景為父を常陸ト称す。諱不知。其先不知。」と説明している。天正11年まで民部大輔で見える盛為が常陸介を名乗ると、代わって子である景為という人物が民部大輔を名乗ったと想定できる。

景為の存在を史料的に示しているのが[史料2]である。

[史料2]『大日本古文書』家わけ三の一
近日者無音、心外存知候、仍其口令雑意、雑々申来候、就中御旦方御前、分而世間申成候由承候、是のミ御床敷令存候処ニ、御陣へも被令申分、近比御出陣可有之なとと承候、必定ニ御座候哉、如何承度候、我々事も、長井殿いまニ不罷立候間、先々延引仕候、各々参陣いたされ候者、早々可罷立候者、其刻遂面会、諸事可申承候、恐々謹言、
猶々遠境故、御旦方へ細々御ゆかしき由令申入候事、くれくれ口惜存候、此段御次之刻、御心得頼入候、尚々助さえもんとの有かたかた御ゆかしきよし、しんしやくなから御伝言任たてまつり候、
 林鐘十四日         上郡山
                 景忠
 七々
 萩孫 御宿所

宛名「萩孫」は上杉家中の萩田孫十郎長繁だろう。孫十郎は天正5年2月に謙信から一字を与えられているのが初見であり、天正16年には主馬允に任官している(*8)からこの間のものである。

『大日本古文書』は「景忠」と読むが、これは「景為」ではないだろうか。東京大学史料編纂所データベースにおいて[史料2]の影写本が確認でき、「為」字の斜線や曲線が出ているように見受けられる。影写本の注釈はあくまで「景忠カ」としており実際に「景為」である可能性はあると思う。

所伝において景為の存在は一貫して伝わっていることもあり、盛為の次代にあたる民部大輔は実名景為を名乗ったと考える。


さて、景為の次に上郡山氏としてみえるのは仲為である。天正17年に比定される連署覚書状(*9)の発給者として和久宗是と並んで「上郡山右近丞仲為」が確認できる。また、同年前田利家・浅野長吉連署状の「猶上郡山右近丞方可申入候」とあり、天正18年4月に比定されている木村清久・和久宗是連署状(*10)に「右近」、同じく守屋意成・小関重安連署状(*11)に「上右」が見えている。仲為はその官途名や伊達氏の使者として活動していることから中津川丹波守の実子という所伝は肯定できる。

よって、天文期に常陸介為家、天文後期から永禄、天正にかけて民部大輔/少輔、常陸介を名乗る盛為、天正期に民部大輔景為が存在した。天正後期からは右近丞仲為が確認される。

以上から、戦国期上郡山氏の系譜は

為家(常陸介)-盛為(民部大輔/常陸介)-景為(民部大輔)=仲為(右近丞)

と想定される。その後、景為の養子常為が上郡山氏を継承した。


最後に、盛為、景為に関する所伝に言及したい。小国小坂町の光岳寺にある位牌に「永録五年壬戌八月朔日」の日付で「上高院殿光岳正公大庵主」「上郡山民部大輔殿」とあり、過去帳には「永禄五年八月仙台家の時当処小坂城主上郡山民部大夫盛為・景為開基上高院殿当時開基光岳正公大庵主」とある(『小国町史』より)。永禄5年8月に没した上郡山民部大輔が光岳寺の開基だったという。ただ『小国町史』は、越後湯沢松岳寺は康正2年(1456)に大通俊永和尚によって小国光岳寺と同時に開山したとの所伝があり、また六代目の住職の没年が慶長10年と伝わることからも、光岳寺の創建は永禄より大きく遡るのではないかとしている。先に見た史料からも天文から天正にかけて盛為は所見されており、小国光岳寺の開山とされる康正2年(1456)は上郡山氏が入部したという説とも年代的に合うことから、『小国町史』の見解は支持できる

よって、この所伝はあまり信用ならないようであるが、その背景として憶測ではあるが何らかの状況を考えると以下の通りである。例えば、上郡山氏が伊達氏の転封に従ったのち上郡山常為が養父景為の菩提を弔うため開いたと伝わる宮城大崎の光岳寺の開山に関係するのではないか。過去帳の「仙台」という語句も何かそれに近いものを示しているような気がする。或いは、永禄は文禄の誤りで、盛為もしくは景為の没年が文禄5年なのだろうか。『小国町史』にある為家の没年文禄2年は、活動時期的に為家では釣り合わず、盛為もしくは景為が文禄年間の死去した可能性はあると思う。この所伝について本当のところはわからないが、盛為や景為の存在が後世にも伝わっていたことは確かであろう。


*1)『越佐史料』三巻、856頁
*2)『新潟県史』資料編4、2045号
*3)『上越市史』別編1、559号
*4)『上越市史』別編2、1843号
*5)『米澤市史』資料編1、461号
*6) 同上、462号
*7) 『上越市史』別編2、2947号
*8) 同上、3263号
*9)『米澤市史』資料編1、584号
*10)同上、605号
*11)同上、606号

黒川為実と御館の乱2

2020-08-20 09:33:56 | 和田黒川氏
前回は天正7年4月に為実が前年に落とした鳥坂城が奪回された時点までを検討した。今回は、その後を辿っていきたい。


[史料1]『中条町史』資料編1、1-609号
急度令啓之候、仍後藤左衛門尉府内へ為使指越申候ける、御挨拶之様体共聞召候而、可為御大慶候、其元御家中衆御相談候而、此上之事御工夫ニ可有之候、万々任彼口頭候、恐々謹言、
 (朱書)「天正七年」
六月五日       遠山
              基信
  黒川殿 御宿所

[史料2]『上越市史』別編2、1843号
来翰祝着之至候、抑近年牢浪候而、其地在留之由、上民内々申理候条、其方進退之儀、今度越国江茂申越候、乍勿論本意之上者、別而当方甚深千言万句候、仍段子一巻到来目出度候、任折節薄板一端進之候、猶遠藤山城守可申候、恐々謹言、
 林鐘(六月)廿五日    輝宗
  黒川源次郎殿

[史料1]と[史料2]は内容から同年に出された文書である。

[史料2]「抑近年牢浪候而、其地在留之由、上民内々申理候」とあり、為実が鳥坂城落城後黒川城でも支えきれずと判断して上郡山氏と共に出羽国小国まで後退したことがわかる。同日に伊達輝宗が上杉景勝へ「近来無音之条、御床敷候処、御懇章快然之至候」(*1)として連絡をとっており、この書状と同じに出されたものであろう。すると、天正7年3月末に上杉景虎が切腹した後まもなくの伊達輝宗と上杉景勝が交信したと考えるのは自然であり、[史料1]の朱書とも合致することから、天正7年6月の書状として良いだろう(*2)。

伊達輝宗は「其方進退之儀、今度越国江茂申越候」とあるように、為実の復帰を上杉景勝へ交渉していた。伊達氏も為実の支援をしていたわけであるから、為実の復帰を含め景勝方との戦後交渉は必須であったと考えられる。

[史料1]では遠藤基信が為実に伊達氏から越後へ使者が派遣されたことを伝え、「此上之事御工夫ニ可有之候」と、復帰に関して為実自身も工夫するようにと伝えている。

よって、天正7年4月の鳥坂城落城を受け為実は小国へ後退、6月には伊達氏の援助により越後復帰の交渉を開始した、とわかった。

ちなみに、この年9月になると、越後において直江信綱が家臣本村新介へ「去年以来様々相稼奉公致候間、黒川分出置候」として、黒川氏の所領を宛がっている。黒川氏は御館の乱後、減封されたと思われるがその具体的な事例が見える。


[史料3]『上越市史』別編2、1892号
就今度黒川帰郷、貴札并以中津丹波守方御口上之趣、委曲承之候、已前度々如申上、彼進退更非覚悟之外候、御威機躰黙止存、相任 御意候、(後略)
 (朱書)「永禄十一」
 極月廿八日     雨順斎
             全長
 米澤江 貴報人々御中

そして、為実の復帰が決まったのは天正7年の12月であった。[史料3]は為実が伊達輝宗の後ろ盾の元黒川へ復帰することが本庄全長へ伝えられ、全長がそれを認めた書状である。朱書は永禄11年とするが明らかな誤りである。署名雨順斎全長は天正9年までの繁長の名乗りであり、[史料1][史料2]との繋がりで天正7年に比定できるであろう。

まとめると、次の通りである。天正7年4月鳥坂城落城した後、上郡山氏拠点の出羽小国まで後退する。その後、伊達氏の支援で6月頃から交渉が開始され12月までには復帰が決まった。

以上、ここまで数回に渡って黒川為実について検討した。

四郎次郎(竹福丸)では謙信との関係性、為実では伊達氏との関係性が深かったという考察を行ってきた。ただ、それは二人の性格や思考によるものではなく、時期と周辺情勢によるものだったと考える。まず、大前提となるのは黒川氏が領主として独立性を持つ存在ではあったが、完全に独立することは不可能であったと言うことだ。すなわち、領主として上位権力からの干渉を抑えながらも、自らの存在維持のために上位権力の後ろ盾は不可欠だったと考えられる。これを踏まえると、四郎次郎(竹福丸)が上杉謙信という強力な上位権力に抱合され、謙信死後為実が伊達氏という戦国大名に接近したのは必然であろう。伊達氏とはまた地理的な近接関係も作用したと考えられ、戦国時代の地域性を考える上で示唆的である。

黒川氏の動向は、戦国大名と領主の関係を考える上で良い例であり、戦国大名上杉謙信の存在形態の一端を示すものとして重要なものと考えられよう。


*1)『上越市史』別編2、1842号
*2)ただ、[史料2]の「近年穿浪」の表現より為実の亡命は複数年に渡り越後復帰と伊達氏上杉氏の交渉は天正8年かとも捉えられるが、景勝が蘆名氏と交渉したのは天正7年であり、伊達氏とも天正7年に交渉を始めたと考えるべきである。

黒川為実と御館の乱1

2020-08-12 11:05:55 | 和田黒川氏
御館の乱における黒川為実の動向を検討したい。

御館の乱は天正6年5月に上杉景虎が御館へ入ってから本格的に抗争が開始され、天正7年3月に景虎切腹し上杉景勝が家督継承、天正8年中頃までに三条神余氏や栃尾本庄氏の抵抗を制圧し、終結する。

まず、天正6年7月の上杉景勝書状(*1)に「黒川之地一途不及届候」とあり、この時点で為実に景勝方に与する意思がなかったことを示す。


[史料1]『上越市史』別編2、1649号
其地へ下着、種々相稼候故、鳥坂之地押詰、城中令折角之由、簡要候、雖無申迄候、弥々入計策候得共、城内引破、与次遂本意候様ニ被相稼専一候、扨亦、爰元備堅固候間、可心安候、猶巨細与次可申越候、謹言
九月二日           景勝
  築地修理亮殿

[史料2]『中条町史』資料編1、1-606号
態令啓之候、仍御簾中御仕合ニ付而、先日以使者申入候ける、御取合之時分令校量、以書中不申候、然者、其元可為御蒙昧候、さ様ニ候而者、隣端之覚も如何ニ候、縁辺之事者時之御取合ニ候、貴所御進退、従当方相挊被申候事、都鄙無其隠候間、於末代ニ相捨被申間敷候、明日ニも御手詰之事候者、当国人数払而指越可被申候、尤上郡山之事も、一点如在不可有之候、少も不可有御疑心候、此等之儀、御家中衆へも慥に可被仰聞候、努々不可有偽候、万吉期後音候、恐々謹言、
(朱書)「天正七年」
三月二十五日        遠山
                基信
  黒川殿 御宿所

[史料3]『上越市史』別編2、1809号
急度申遣候、仍去月廿四日館落居、三郎切腹、其外始南方衆、楯籠者共一人も不洩討果候、去年以来之散鬱憤、大慶不過之候、扨又、有其許涯分走廻、越前守身上可令馳走事、肝用候、猶越前守可申越候、穴賢、
尚々、此度越前守雖可指下候、其元未落居之由候間、如何共とつさかの地於計策仕者、其上必可指下候、無油断可令才覚候、以上、
 卯月八日          景勝
  築地修理亮とのへ

次いで、[史料1]から天正6年8月末までに黒川為実が中条氏の鳥坂城を落としたことがわかる。中条景泰、築地修理亮共に府中に在陣している隙を狙ったものだろう。9月2日付で「其地へ下着、種々相稼候故、鳥坂之地押詰」と景勝が記述しているから、8月中に既に鳥坂城を巡る攻防が活発化していた。

鳥坂城落城が天正6年であるのは[史料3]に天正7年の上杉景虎切腹の記述と共に鳥坂城攻めが併記されていることからわかる。また黒川氏によるものという理由は、鳥坂城周辺に黒川氏の他に敵対勢力が見られないこと、[史料2]の「明日ニも御手詰之事」という記述と[史料3]にある鳥坂城攻めの様子が一致していることが挙げられる。

そして、築地修理亮宛の4月21日付上杉景勝書状(*2)に「其方以稼鳥坂之地則事、誠以忠信比類無候」とあり、この時点までに築地修理亮が鳥坂城を奪還したことがわかる。ちなみに、中条景泰は結局府中に在陣を続け鳥坂城攻めには参加しなかった。[史料3]に見えるように上杉景虎の切腹と時を同じくして鳥坂城が落城することから、中央における抗争の帰趨が関係したことは十分に考えられるだろう。

さて、もう少し黒川為実の鳥坂城攻防について考察したい。[史料2]に注目する。前後の状況とも合致するため天正7年の比定でよいと考える。これは伊達氏重臣の遠藤山城守基信が鳥坂城を防衛中の為実に宛てた書状である。この中に「当国人数払而指越可被申候、尤上郡山之事も、一点如在不可有之候」とあり、伊達氏の軍事的支援があったことが読み取れる。その背景として、文中に「御簾中」や「縁辺」というように婚姻関係を表す語句が見られることが関係しているだろう。遠藤基信が「貴所御進退、従当方相挊被申候事、都鄙無其隠候間、於末代ニ相捨被申間敷候」と述べている所を見ると、伊達氏関係者との姻戚関係が想定されよう。黒川氏の在地的な繋がり見えてくるのではないか。

伊達氏の軍事的支援の中心は地理的近接性により黒川氏と関係の深い上郡山氏であった。天正7年3月の村山慶綱書状(*3)において「今度三郡山(上郡山)方・黒川方乱入」と表現されていることから、それは明らかである。

[史料2]において基信は「其元可為御蒙昧候、さ様ニ候而者、隣端之覚も如何ニ候」、すなわち物事の判断に暗く、近隣の覚えも悪くなる、と手厳しい。また、基信は「此等之儀、御家中衆へも慥に可被仰聞候」とあり黒川家中の人々へ気遣いを見せており、黒川家臣団の影響力の大きさを示していると考えられる。このように「縁辺」、「隣端」や「御家中衆」などの存在が感じられる所に、やはり為実が地縁的枠組みの中に制約されているような印象を受ける。


以上より御館の乱における為実の鳥坂城を巡る攻防についてまとめると、次の通りである。天正6年8月頃に為実が上郡山氏の軍勢を始めとする伊達氏の援助を受け、鳥坂城を落とす。9月までには中条氏家臣築地修理亮が鳥坂城攻めを開始。翌3月になっても鳥坂城は落ちなかったが、上杉景虎の切腹が伝わったころ鳥坂城も落城した。

次回は鳥坂城落城後の為実の動向を確認していきたい。


*1)『上越市史』別編2、1577号(「甲州和与之義も入眼候」より天正6年に比定される)
*2)同上、1811号
*3)同上、1801号

黒川左馬頭と「為実」

2020-08-11 11:43:45 | 和田黒川氏
四郎次郎(竹福丸)の次代にみられるのは黒川為実である。『越佐史料』始め多くの資料や書籍において「為実」という実名に比定されているのを見るが、それを示す一次史料は多くない。今回は周知のことではあろうが、黒川左馬頭、豊前守の実名と伝わる「為実」について掘り下げていきたい。

簡単に整理すると、黒川竹福丸/四郎次郎の次代として史料上現れるのは天正7年の黒川源次郎である(*1)。そして、天正12年に比定されている直江兼続書状写(*2)に黒川左馬頭が宛名にみえる。黒川左馬頭は文禄年間まで確認できる(*3)。年不詳ではあるが上杉景勝書状(*4)には黒川豊前守がみえる。

[史料1]『新潟県史』資料編5、2868号
今度様々詫言致之付而、別而中使之儀申付候、如前々之本持之史面出之候、於向後も只今不相替奉公可為肝要候、若誰人成共横合申候共、彼状為先召置者也、仍如件、
天正十三年
  八月三日           為実
   鈴木蔵人佐殿

[史料2]『中条町史』資料編1、1-645号
其表昼夜之軍功無比類候、因茲本領粟生津・上条両村返置者也、仍如件、
天正拾弐年
  七月廿四日            (景勝朱印)
     黒川左馬頭殿

[史料1]は為実なる人物が鈴木氏へ中使の職を安堵したものである。[史料2]より粟生津は黒川左馬頭に与えられているから、黒川左馬頭の実名は為実であったことがわかる。「返置」という表現や上条の領有が以前に確認されること(*5)から、粟生津や上条は御館の乱の混乱によって没収され新発田重家の乱の活躍により返還されたものと推測できる。

また、『本荘氏記録』には本庄繁長三女が「黒川豊前為実室」であると記される。本庄繁長の乱の記述には「黒川左馬頭」が登場する。実際この頃の黒川氏の当主は四郎次郎(竹福丸)であるから誤りであるが、豊前守の以前に左馬頭が所見されることから生じたものと考えられる。よって、これらは為実が左馬頭の次に豊前守を名乗ったことを補強するものとなろう。

そして天正7年に見える源次郎は、左馬頭が天正12年から所見されることから為実の仮名として矛盾はない。御館の乱後の黒川氏の状況を伝えるものに本庄全長書状(*6)があり、その中で全長は「就黒川今度帰郷」について伊達氏と連絡を取っている。御館の乱での黒川氏の動向は次回検討するが、これは伊達氏配下上郡山氏の元に逃れていた黒川源次郎の復帰を指すと考えられる。よって、黒川源次郎が越後に復帰したのち左馬頭を名乗ったと考えられよう。

また、『伊達貞山治家記録』に天正12年伊達政宗家督相続を祝したとされる人物に黒川為重がおり、そのときの書状(*7)がある。ここには署名として「黒川左馬頭為重」とあるとされるが、「左馬頭」より為実を指すと考えられる。[史料1]より天正13年には「為実」を名乗っているおり、くずし字の場合「實」(=「実」)と「重」は似ている場合があるから、この書状も正しくは「為実」ではなかろうか。後に黒川左馬頭宛伊達政宗書状(*8)もあり、黒川氏と伊達氏の通交は続いていく。

ちなみに、先代四郎次郎(竹福丸)は25歳頃の死去と推定されるため、その後まもなく活動する為実は四郎次郎(竹福丸)の子とは考えられない。それは為実が名乗った源次郎、左馬頭、豊前守のどれもが歴代黒川氏に見られないものであることからもわかる。『中条家分家系譜』の「黒川家系譜」に元和8年の死去と伝わることから、家督継承時はまだ若かったようである。例えば、享年60とすると生年は永禄5年となり、初見の天正7年には17歳である。黒川実氏の死去が弘治年間から永禄初期であるから、実氏の子すなわち四郎次郎(竹福丸)の弟だとしても矛盾のない範囲である。(*1)書状が収められている「覚上公御書集」においてその綱文は、源次郎は黒川為実の次男であり書状は新発田重家与して小国へ逃れた際のものであるとしている。新発田重家の乱で黒川氏が景勝方であったのは[史料2]からも明らかであり誤りであるが、源次郎が次男というのは示唆的である。為実が四郎次郎(竹福丸)の弟であった可能性を仮説として提示しておきたい。

以上、黒川為実の実名についての史料的根拠を紹介し、源次郎、左馬頭、豊前守と名乗りの変遷を確認した。

*1)『上越市史』別編2、1843号
*2)『中条町史』資料編1、1-642号
*3)『上越市史』別編2、3648号
*4)『越佐史料』六巻、504頁
*5)『上越市史』別編1、119号
*6)『上越市史』別編2、1892号
*7)『大日本古文書』家わけ三の一、331号
*8)『上越市史』別編2、3073号