鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

福王寺氏の系譜

2020-09-05 13:09:23 | 福王寺氏
戦国期越後長尾氏、上杉氏において史料上において度々所見される福王寺氏は注目されるべき一族である。その系譜を整理してみたい。ちなみに、史料上全て府内長尾氏、長尾系上杉氏に味方している。


永正8年に福王寺彦八郎が、上野国沼田庄で山内上杉氏と交戦する長尾伊玄(白井長尾景春)の援軍として見える(*1)。

永正10年の上杉定実挙兵に際しては、福王寺掃部助が敵を打ち破っている(*2)。鮎川式部大輔入道の乱においては福王寺掃部助が陣労をねぎらわれている(*3)。

※23/8/23 追記
以前鮎川式部入道の乱を永正9年に比定していたが、検討の結果大永前期と推定した。


掃部助は彦八郎の後身であろう。『福王寺系図』(以下『系図』)に拠れば、嘉吉元年死去の「持重」とその嫡男「晴重」の跡をその弟「弥次郎 掃部頭」「友重」が継いだとあり、さらにその跡を継承したのが「彦八」「孝重」であるという。上述の彦八郎/掃部助は「孝重」にあたる。「孝重」は天文9年6月に60歳で死去といい、文明12年生まれということになる。妹に「新津大膳」の妻、「加地遠江守春綱」の妻がいたとされる。


天文5年から6年にかけて福王寺彦八郎が上田長尾氏と交戦し(*4)、下倉城を守備していることがわかる(*5)。

天文11年から天文17年の間に、福王寺兵部少輔が妻有進軍を命じられている(*6)。天文19年には、「福王寺殿」が下倉城に在陣していることがわかる(*7)。弘治元年には川中島合戦において福王寺兵部少輔がその活躍を賞されている(*8)。その他、年次不明の長尾景虎発給福王寺兵部少輔宛書状がいくつか存在する。

彦八郎の後身が兵部少輔と推測できる。『系図』には「孝重」の次代として「兵部少輔」「重綱」を挙げる。天正9年9月に死去したという。『御家中諸士略系譜』も、「福王寺彦八郎孝重男」、すなわち「孝重」の子として「重綱」を載せる。


さらに、時代を下り天正6年に福王寺兵部少輔と、福王寺弥太郎が御館の乱において景勝方として活動している(*9)。

天正10年上杉景勝書状(*10)に「福王寺殿」、『文禄三年定納員数目録』には「福王寺大膳助」が見え、慶長2年には福王寺大膳に百石が与えられている(*11)ことが確認できる。

『系図』では「弥太郎」「大膳正」「景重」、『御家中諸士略系譜』では「始弥太郎元重」「大膳景重」が、「重綱」の次代として記載される。『系図』では慶長15年に50歳で死去したとされ、永禄3年生まれとなる。

また、『系図』において妻は、「謙信公御弟長尾左京亮景明公御女」とされる。ただ、上杉謙信に弟の存在は確認されない。長尾景明は、長尾為景期に文書でも確認される人物であるから、その世代の当主と混同した可能性がある。具体的には「重綱」の妻であれば、長尾景明の娘であってもおかしくはない。

もしくは、「長尾左京亮」を誤って景明としてしまった可能性もある。そもそも景明は実際には「右京亮」であることを考えると(*12)、天正後期に活動する「景重」の妻の父としてふさわしい人物は天正6年上杉景勝書状(*13)等に見られる「長尾右京亮」であろう。景明の孫「右京亮景満」と伝わる人物である(*12)。「景重」は江戸時代初期まで生きた人物であるからその妻が長尾氏出身である信憑性は低くはなく、後者の可能性が高いように思える。


以上から、戦国期福王寺氏の人物は次のように想定される。実名は文書では確認されず、系図類においてその名が見える。「」は系図による記載。

「友重」(「掃部頭」)-「孝重」(彦八郎/掃部助)-「重綱」(彦八郎/兵部少輔)-「景重」(弥太郎/大膳)


*1)『越佐史料』三巻、558頁
*2)同上、598頁
*3)同上、583頁
*4)同上、821頁、署名「張恕」よりこの年に比定した。
*5)同上、800頁、署名「張恕」よりこの年に比定した。
*6)『越佐史料』四巻、84頁、年次不詳も長尾晴景発給であることから長尾為景死後から景虎家督までの期間と推定した。
*7)同上、263頁、年次比定は当ブログ「長尾政景の乱」に関するページに詳細する。
*8)同上、120頁
*9)『越佐史料』五巻、474号
*10)『越佐史料』六巻、141号
*11)『上越市史』別編2、3708号
*12)『越後長尾殿之次第』などによる。長尾景明-景信-景満、と代々「右京亮」を名乗る長尾氏の一族である。この一族については別に検討したい。
*13)『越佐史料』五巻、526号

※20/12/16 『福王寺系図』による検討を加筆し、内容もわかりやすいように改めた。