鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

中条房資の動向

2020-07-12 10:17:38 | 和田中条氏
前回まで、中条景資を中心に見てきたが、今回はその次代房資の活動を史料から読み取っていきたい。

伊達入嗣問題、伊達天文の乱以後、中条氏はしばらく史料上に現われない。天文後期になって中条黒川間の所領相論関係の書状にその名が見られる。所領相論の詳細は省略し中条氏に注目して見ていく。天文21年長尾景虎書状(*1)に「中弥爰元へ被絶音問候」とあるのが注目される。「中弥」は「中条方」と同等の意味で用いられていることからより中条弥三郎を表すのではないか、と考えられる。すなわち、景資の嫡子と考えられ房資のことであろう。天文21年(1552)には中条氏は既に房資を中心に活動していたと考えられる。この時、景資は40歳前後、房資の生年は享禄5年(1532)であるから既に21歳となっていた。

[史料1]『新潟県史』資料編1、1482号
(前略)将亦先年中条弾正忠(景資)伊達之義馳走、(中略) 中条前之義押詰、巣城計ニ成置付、(中略)、境候上郡山引付、弥三郎事重而伊達へ申合、向当地露色事、対国逆意之条、此時者旁々得助成候而、可及静謐之処ニ、只今和融之様承候、更意外ニ候、爰元御塩味簡心ニ候、如被露紙面、一庄之義与云、此比者無別条候、其故者、弥三郎家中有横合、彼進退偏ニ相頼之条、為石井其外令追罰、不移時刻、為遂本意候事、無其陰候、(後略)
天文廿一年
  六月廿一日     黒川実(実氏)
山吉丹波入道(政応)殿

景資と房資の交代時期はいつになるのだろうか。[史料1]は前回も載せた物の後半部分である。ここで「弥三郎」に注目したい。従来色部弥三郎勝長に比定されることが多く、確かに「弥三郎家中横合」は色部中務少輔の反乱とも取れる。しかし、「弥三郎事重而伊達へ申合、向当地露色事」すなわち伊達氏に再び協力し黒川氏と敵対したという部分は色部勝長には当てはまらない。これを中条弥三郎とすれば立場が一致し「重而」という細かい部分も当てはまる。鳥坂城の落城を天文11年(1542)としたが、その際享禄5年(1532)生まれの房資は12歳になっている。若年だが既に元服を終えていてもおかしくはない。さらに、[史料1]において鳥坂城の落城を境に中条氏を代表する人物が「弾正忠」から「弥三郎」に代わっていることが注目される。これは、鳥坂城落城とその復帰に伴う家督交代と捉えられよう。これの例として、永正5年に村上本庄城を落とされた本庄時長が隠居し家督を子房長に譲った(*2)ことが挙げられる。景資も他の揚北衆、長尾晴景、伊達晴宗と周囲の全てを敵に回し、隠居するほかなくなったと考えられよう。ここに、若干10代前半で弥三郎房資が中条氏の家督となった。むろん弾正忠景資は後見として家中にその存在感を示していたことは想定できよう。[史料1]に「中条前」という表現が見えるが、「前」とは『戦国古文書用語辞典』(監修小和田哲夫、編鈴木正人)によれば意味の1つに「(父子の)持前、責任というぐらいの事」とあり、この頃の中条氏が景資房資父子での活動だったことを示唆するのではないだろうか。黒川氏も同じ時期に父清実、子実氏二人が史料上見えていることからも、自然なことといえるだろう。『中条氏家譜略記』『中条越前守藤資伝』において景資の受領名は越前守と山城守が併記されていることから、景資は家督移譲後に山城守を名乗ったと考えられよう。

さて天文21年(1552)に続いて弘治元年(1555)にも中条氏と黒川氏間の所領相論が史料に見える。ここで「中条越前守」が見える(*3)。相手方の黒川実氏も下野守の受領名を名乗っており(*4)、景虎との関わりの中で実氏、房資共に受領名の獲得に至ったと考えられようか。よって、天文末期から弘治元年に中条房資は越前守を名乗ったといえる。

そして、永禄2年(1559)『祝儀太刀之次第写』によれば、中条房資は「披露太刀之衆」の第一位に「中条殿」と記載されている。これは「直太刀之衆」の三人に次ぐ、地位を獲得していることを表している。伊達入嗣問題で長尾晴景、他揚北衆と対立し鳥坂城を落とされるまでに至った中条氏が、景虎政権下でここまで地位を向上させたのはいかなる理由であろうか。

『中条越前守藤資伝』において「景虎公兵を栃尾ニ挙ケ玉う時、藤資第一番ニ御味方ニ属シ、逆賊長尾俊景・黒田秀忠等ト大イニ戦フ」とあるのが興味深い。中条景資・房資父子は晴景政権から景虎政権へ転換する時、素早く景虎へ接近しその初期の権力基盤を構成することによって復権を狙ったといえるのではないか(*5)。その際、中条氏が府内長尾氏と姻戚にあったことは有利に働いただろう。『中条氏家譜略記』では景虎引退騒動に際し「藤資無二之以忠信一番出証人」とありここでも親景虎派の一面を見せる。上杉謙信から景勝への権力移行の際に鮎川氏の重用が終わり本庄氏の復権が見られたように、府内権力の移行期に諸将はその政治的立場を大きく変えることになったと考えられる。ただ、親景虎派といっても永禄期から柿崎氏や斉藤氏など領主層の政権への参画がみられる中、中条氏にそのような動きはみられずやはり揚北衆としての自立性は維持されていたと見るべきだろう(*6)。

永禄4年(1561)第四次川中島合戦では上杉政虎より房資へ感状が発給されている(*7)。これがいわゆる「血染めの感状」である。

そして、所伝を参考にすれば永禄11年(1568)2月に景資が死去する。この時、景資は55歳前後。房資は37歳であった。

永禄11年には「夏中茂従本庄弥次郎方之計策之書中指出」と武田信玄らに与した本庄繁長から誘いが来るも上杉輝虎寄りの立場を明らかにしている。11月には本庄繁長に内通した石塚玄蕃允という人物について対処し「輝虎一世中忘失有間敷候」と感謝されている(*8)。そしてこの頃再び、黒川氏との所領相論が勃発する。

この所領相論の関係文書を最後に房資は史料に見えず、所伝より天正元年(1573)8月22日に死去したと思われる。42歳であった(*9)。

以上、中条房資の動向について検討した。伊達入嗣問題や黒川氏との所領問題など複雑な問題との絡みが多く、言及できていない部分も多い。これらの問題は後日の課題としたい。

*1)『上越市史』別編1、99号
*2)『本荘氏記録』、『本庄系図』
*3)同上、130-132号
*4)同上、133号
*5)ただし、伊達入嗣問題及び伊達天文の乱にかけて中条氏は伊達氏に付いたと見られ、景虎の栃尾入城時にはむしろ敵対関係であった可能性がある。景虎の栃尾城主期はその期間の長さにくらべ史料が少なく、慎重に検討する必要があると考える。
*6) 上杉十郎や上条政繁など一門層でも参画がみられず、中条氏も一門として政権中枢から距離を取っていた可能性もゼロとは言えないと考えるが、景虎の近親「おまつ」が嫁いでいる領主層の斉藤朝信の活動は見られることから中条氏の参画がない理由は揚北の独立性故といってよいと思う。
*7)『上越市史』別編1、287号
*8)同上、626号
*9)所伝はこの没年を景資のものとするが、ここまでの考察よりこれは房資のものであろう。

中条景資の動向

2020-07-11 13:16:31 | 和田中条氏
天文4年以降の中条氏の動向を景資を中心に検討していきたい。前回中条藤資の死去を天文4、5年頃としたが、それを踏まえながら進めていく。

天文の乱において為景と敵対した中条氏ら揚北衆だが、天文6年には上田長尾房長と戦う為景が「下郡衆着陣遅々断而遂催促候、定漸可動出候」と述べていることから(*1)、為景から出陣要請を受けていることがわかる。この時点までに中条氏ら揚北衆は為景と和睦したと考えられる。

[史料1]『新潟県史』資料編4、1438号
其後者不承候、弾正忠殿令一和候以来御馳走由、松岡申之候、本望至候、弥以御忠節尤簡要候、何様爰元一途之上、各以談合御配当刻、涯分可存其旨候、委細松岡可申分候、恐々謹言、
二月廿三日     絞竹庵張恕
築地彦七郎殿

[史料1]は長尾為景の入道名絞竹庵張恕より天文5年から天文10年の間のものである(便宜上ここでは為景で通す)。宛名の築地氏などから「弾正忠」とは中条弾正忠のことで、中条藤資は「越前守」「越州」と呼称されているのが確認されるからこれはその嫡子中条景資を指すと考えられる。「殿」という敬称が付属しているのは、景資が為景の婿にあたる立場に由来しよう。病気である記事を最後に史料上から藤資が消え景資が登場することは、藤資の没年の裏づけになるであろう。また、「令一和候」とあることから、為景と景資の間で和睦が成立したことがわかる。「各以談合」より他の揚北衆諸将も為景と和睦していると考えられる。この文書の年次は天文の乱後、天文6年8月「下郡衆」の出陣催促の前であろうから天文6年の2月に比定されよう。為景は天文5年8月下旬から本格的に上田長尾氏との抗争に突入することから、それ以前に揚北衆との交渉がなされた可能性もある。以上より、天文5年に天文の乱を終結させた為景は直後から中条藤資を失った揚北衆と交渉し和睦、情勢を整えてから上田長尾氏との抗争の開始へと進んでいったことが推測されよう。

[史料2]同上、1482号
(前略)
将亦先年中条弾正忠伊達之義馳走、就中時宗丸殿引越可申擬成之候、剰彼以刷、伊達之人衆本庄・鮎川要害把之条、彼面々大宝寺へ退去、已他之国ニ罷成義、難ヶ敷候間、色部令同心、揚北中申合、中条前之義押詰、巣城計ニ成置付、落居之砌、伊達従晴宗無事為取刷、被及使者之上、従拙者も府へ及注進候つ、従府内も承筋目候条、任其意候き、然処ニ先弓矢之以威気、境候上郡山引付(後略)
天文廿一年
  六月廿一日     黒川実
山吉丹波入道殿

[史料2]は後年黒川実氏が中条氏との対立を振り返っている書状である。伊達入嗣問題は天文7年に守護上杉玄清が伊達稙宗の子時宗丸を養子にしようと計画し、揚北衆と伊達氏を中心とした軍事的混乱を招いた事件である。この問題について景資を中心に考えていく。

この時、長尾為景・晴景父子は上杉玄清側にあり養子計画を押し進めていたことは、「自伊達御曹司様御上為御要脚」(*2)を名目に段銭徴収が行われていたことから明らかである。そして、[史料2]「中条弾正忠(景資)伊達之義馳走、就中時宗丸殿引越可申擬成之候」より伊達氏との関係を取り持ったのは景資であるとわかる。中条氏と伊達氏には婚姻関係があったという所伝があり、『上杉氏年表増補改訂版』(編池亨・矢田俊文)では「この説の根拠は明快ではない」としながら藤資の妹が伊達稙宗に嫁ぎ時宗丸の母となっていた可能性を示している。すなわち、長尾為景、伊達稙宗の双方と婚姻関係にあった景資が養子計画を進めるにあたって重要な役割を担っていたことになろう。

しかし、[史料2]「剰彼以刷」とあるように景資と伊達氏が協力し軍事行動を開始してから揚北内の混乱が増していく。伊達氏は天文8年には本庄房長を追い、小泉荘の色部領以外をその影響下に置いたと考えられる。[史料2]より、その後黒川清実、色部勝長が中心となって伊達氏に協力する景資を攻撃したことがわかる。この頃には長尾晴景が中条攻めを支持している(*3)。伊達入嗣問題の結果揚北諸将により居城を攻められた景資であるが、伊達晴宗の仲介もあり存続することができたようである(*4)。後年、山吉豊守書状(*5)において「先年とつさか御帰城之子細」とあり、これはこの時に鳥坂城が落城しその後復帰したことを指すと考えられる。この鳥坂城落城の年次は、揚北衆と伊達晴宗、長尾晴景が協調していることから天文11年に比定されると考えている。

これ以後、中条氏として史料にみえるのは「弥三郎」であり、景資の活動は確認できなくなる。伊達入嗣問題に関連して隠居を余儀なくされたといった理由が考えられるであろう。鳥坂城落城の年次比定を含め、伊達入嗣問題についてはまた別の機会に詳しく検討したい。

さて、先に景資は大永6年(1526)時点で婚姻と軍役従事が可能な10~15歳程度と仮定した。よって、その誕生は永正10年(1513)前後ということになる。父藤資も20歳前後であり妥当である。景資は享禄5年(1532)20歳前後で嫡男房資が生まれており、天文5年(1536)24歳前後で家督を相続したわけだが、どちらも適当な年齢である。『中条氏家譜略記』などに中条藤資の没年は永禄11年(1568)2月とあるが、藤資は先述の様に天文5年頃に死去しているから、これは景資の没年と想定できるだろう。享年55歳程であった。

次回に景資の晩年と次代房資について考察していきたい。

*1)『越佐史料』三巻、817頁
*2)同上、845頁
*3)『新潟県史』資料編4、2076号
*4)同上、1056号
*5)同上、1906号

※23/6/18 天文の乱・三分一原合戦に言及した部分について修正した。
※23/9/8 為景の入道名を絞竹庵へ修正した。

中条藤資の動向3

2020-07-04 09:31:23 | 和田中条氏
享禄3年(1530)に上条定憲(後定兼と改名するが便宜上定憲で通す)と長尾為景が対立し享禄の乱が勃発する。藤資を始め揚北衆は為景に味方し、享禄4年(1531)藤資40歳の時、為景方の武将たちによって越後衆連判軍陣壁書(*1)が作成されるに至る。

天文2年(1533)には上条定憲が再び挙兵し、天文の乱が勃発する。この時藤資は他の揚北衆と同様に、為景方を離反し上条方に味方するようになる。藤資が為景に敵対するのは初めてのことであり、それは為景が祈願文(*2)において「当敵上条播磨守(定憲)并同名越前守(長尾房長)、叛逆之張本人中条越前守(藤資)、新発田一類速退治事」と述べていることからも衝撃の大きさがわかる。数年に渡り為景と定憲の抗争は続くが主戦場は上郡から中郡であり、しばらく藤資の動向は史料に現われない。

天文4年(1535)になると上条定憲が蒲原津を拠点に揚北衆ら味方の結集を図る(*3)。6月25日の定憲書状(*4)には「奥山・瀬波之衆明日廿六至于蒲原津着陣、不及休息可遂越河候」とあり奥山荘を拠点とする中条氏の存在がみえる。8月には定憲と長尾房長が平子氏を勧誘する中「奥衆一筆」を望まれたことから、藤資が本庄房長、鮎川清長、黒川清実と共に平子氏へ西古志郡内の知行を認めている。9月には羽前庄内の砂越氏維へ藤資、本庄房長、色部勝長、鮎川清長、水原政家、新発田綱貞、黒川清実が連署して援軍の要請を行っている(*5)。伊達氏、大宝寺氏の援軍(*6)や蘆名于氏の援軍(*5)も確認でき揚北衆の関わりが想定されるだろう。この年藤資を始め揚北衆が上条定憲を頂点とする政治体制を支えていたことが窺われよう。しかし、翌天文5年には藤資、定憲の活動は見えなくなり、越後国内を巻き込んだ反乱から為景と上田長尾房長の抗争を中心とした局面へと移っていく。天文6年8月には上田長尾房長と戦う為景が「下郡衆着陣遅々断而遂催促候、定漸可動出候」と述べており(*7)、揚北衆がこの時点までに再び為景と和睦し出陣要請を受けていることがわかる。

ここで注目するのは、先述した天文4年9月16日中条藤資等7名連署状(*5)である。使者に桃井氏がみえるなど上条氏の関与がはっきりし、揚北衆が上条方として軍事活動しようという意思がみられる。しかし、藤資の署名には花押がなく、追而書には「藤資事歓楽故不能判形候」とある。広辞苑を引くと歓楽とは「①よろこび楽しむこと。②ぜいたくに楽しくくらすこと。③病気の忌詞。」とある。ここでは③の意味で用いられたと考えられよう。文明年間に、黒川氏実入道応田が自ら「病気」(*8)としているものを家臣団が「入道殿様就御歓楽」(*9)と表現しているという例があり、応田はそこで「歓楽故弥々煩候間、不能判形候」と述べており、藤資の場合も病気により花押が書けない状況であったと考えられる。そして、これ以降史料上に「藤資」が見られず「越前守」も弘治元年まで所見がなく、その間中条氏として「弾正忠」や「弥三郎」が見える。これらの人物は次回以降詳しく検討するが、「弾正忠」は次世代景資、「弥三郎」や弘治期以降の「越前守」は次々代房資である。つまり、藤資の所見は史料上天文4年が終見であり、藤資は天文5年頃死去したと考える。

没年について考察を進めると、天文5年以降上田長尾氏が反抗を続ける中揚北衆の抵抗が見られないこととの関連が推測される。天文4年に上条氏の中心として活動していた揚北衆であるが、その後は目立った活動を見せず、そのまま天文6年の和睦に至る。天文の乱における揚北衆の中心は、この頃色部氏や本庄氏で家臣の反抗による混乱が見られたことを考慮すると為景祈願文(*2)にも上条氏らと並んでその名見える中条藤資であったと考えられよう。すると、今考察した藤資「歓楽」の件と揚北衆の動向が一致してくる。すなわち、揚北衆の反為景連合は、天文の乱において中心的存在であった中条藤資の病気もしくは死去によって崩壊したと考えられる。その後の文書上に藤資が確認できないことから、この時点で藤資の武将としての活動が不可能な程重病であったと見ることができよう。先に例に挙げた黒川応田もその後死亡しており「歓楽」は重病を表すとみてよく、藤資も遠くない時点で死亡したと考えられる。藤資の死が揚北衆を為景の和睦へ向かわせたのなら、死去は天文4年末から天文6年半ばの間だろう。天文4年(1535)で藤資44歳であった。『中条氏家譜略記』『中条越前守藤資伝』に伝わる没年永禄11(1568)年77歳までの生存は考えにくいだろう。これは次代景資の没年にあたるのではないだろうか。

以上、中条藤資の動向を追ってきた。長尾為景へ接近し婚姻関係を結び中条氏の立場を盤石にしつつあった前半生が明らかとなり、享禄天文の乱の混乱に際しては反為景の重鎮として活動するも病に倒れ、それが乱の趨勢にまで影響及ぼしたことが想定されるに至った。今後、次代景資、次々代房資と考察を続けていきたい。


*1)『越佐史料』三巻、781頁
*2)同上、794頁
*3)同上、811頁
*4)同上、812頁
*5)同上、822頁
*6)同上、604頁
*7)同上、818頁
*8)『新潟県史』資料編4、1898号
*9)同上、1337号

※23/6/18 これまで三分一原合戦を天文5年4月とし天文の乱に関連したものとしきたが実際は永正11年4月と考えられるため、言及部分を修正した。三分一原合戦については記事参照(三分一原合戦の実像 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)

※24/8/24 一部わかりにくい表現を改訂した。


中条藤資の動向2

2020-07-03 11:55:47 | 和田中条氏
大永6年(1526)には長尾為景が蒲原郡から奥郡にかけて新津氏色部氏本庄氏黒川氏といった領主に起請文を提出させ、藤資も起請文を提出している(*1)。他の領主は「致不儀奉引弓事、不可有之候、於国役等儀も、各前不可見合申候」というものであるが、藤資は五項に渡る詳細な内容で、それは揚北衆でも為景に近い存在であったことが関係しているだろう。この起請文を検討してみたい。

第一項は前々回検討した。第二項は「本庄・色部・黒川、其外親類共前不及見合申、国役等何時も不可致無沙汰事」とあり、他の領主と同様の制約である。第三項には「御出陣之時、各々事者、番替致在陣候共、某事者、親子一人しかと可致在陣事」とあり、府内長尾氏に対し軍役を課せられていたとわかる。第四項は「至于縦御子孫而、御親類御家風雖心替申候、以夜継日急致出府、可走廻事、其外、他国御出陣候共、召連人数、早速罷立可致馳走事」とある。第二から第四項まで軍事行動に関する制約であり、為景が中条氏を軍事的支配下に掌握しつつあった状況を物語っている。第五項は「或与力或親類、至于公事沙汰も不及贔屓、可任府内御下知事」とあり、為景が裁判権に関することへも介入しつつあったことがわかる。以上より、為景は中条氏に対し軍事指揮権と裁判権を行使しえる立場であり、藤資の従属の度合いは高いといえる。藤資は親為景路線を取ることによって、その後ろ盾を基に近隣の揚北衆または支配する在地に対しての優位性の獲得を指向したと想定されよう。


[史料1] 『新潟県史』資料編4、1858号
(礼紙ウハ書)「遠州 御尊報      小山実繁(以下三名)」
就彼一儀、御札致披見候、仍蘭室存生之時、被申入筋目至于今不被指置、被仰越候、誠以忝次第候、然去夏下野所へ被仰届候哉、相替以前御返事被申候由、被顕御書中候、御要之段、為申聞候処ニ、先年在府之時節、霜台為御意見、息女之事、中条牛黒方被仰合候、以斯如義、蘭室も談被申事候、忝も此筋目之外争歟替人躰別而可申定候哉、以前も此段御返事為被申由候、前後之儀お被仰分、条々示給候、御芳情忝奉存候、乍去御いろい之外可奉談方無之候、偏御取合親類家風満足令存候、如何様以人躰可申上候之条不能具候、恐々謹言、
御意之段、修理亮為申聞候、定従是可被申候、
十一月廿日     小山実繁
          浜崎実広
          松浦長澄
          西実助

起請文の第一項では前々回見たように中条氏と府内長尾氏の間に婚姻関係があったことがわかるが、ここでそれを補強する[史料1]西実助等四名連署状に注目する。これは当時の書き入れより永正16年のもので、黒川氏の家臣四名が「遠州」に宛てたものである(*2)。「蘭室」なる人物の正体は不明であり内容もこの文書だけでは捉え難いものであるが、「先年在府之時節、霜台為御意見、息女之事、中条牛黒方被仰合候」は注目すべき部分である。

これは、「霜台」が長尾為景であり「中条牛黒」は幼年の中条景資と捉えられる。『新潟県史』や『中条町史』は「霜台」を中条藤資に比定するが、永正10年から藤資は越前守を名乗っており「在府」という表現や文意を加味すると、この時弾正左衛門尉を名乗っていた為景に比定するべきであろう。「被仰合」や「牛黒」という幼名から、婚約の成立であったと考えられる。また、景資の相手が「息女」とあり為景の娘であったこともわかる。

この点は『中条氏家譜略記』『中条越前守藤資伝』に景資の妻は実父高梨刑部大輔政頼とする上杉謙信の養女とし、『中条家由緒書』には藤資入道梅坡の妻は高梨政頼の娘とある。『由緒書』において藤資を「房資(秀叟)四代之孫」とするが、房資(秀叟)-朝資-定資-藤資-景資と続く系譜であるから実際の「四代之孫」は景資にあたり、梅坡も景資の法名と推定した通りである。従って、三つの所伝において景資の妻について同様の内容を伝えており見過ごせず、妻は高梨氏の娘と考えられよう。


この頃の高梨氏を見てみると、大永3年に高梨澄頼が死去し(*3)、次代政頼が跡を継いだと考えられる。志村平治氏(*4)によれば『歴名土代』より天文6年に「形部大輔」に任じられているといい、前々代政盛、前代澄頼の活動時期も加味すれば、政頼の家督相続は若年であった可能性がある。すると、政頼の娘は永正から大永にかけては幼少であったと想定できる。これをどう捉えるかであるが、高梨氏と府内長尾氏の婚姻関係が重要と考える。

志村氏(*4)や片桐昭彦氏(*5)は両氏の婚姻関係について、高梨政盛娘が長尾能景に嫁ぎ、能景の娘が高梨政頼に嫁いだ、と推測している。「林泉寺文書」に残る戒名書上である「公族及将士」にも長尾為景の頃の女性として「芳林香公大姉 たかなしとの御ろうバ」、すなわち、高梨殿御老母、が挙げられ、片桐氏(*5)は政頼妻の可能性を指摘している。

以上から、中条景資の妻として高梨政頼の娘が選ばれた理由はその娘の母が府内長尾氏出身であり為景とも血縁関係が深かったからと推測できよう。婚姻が永正16年に決まりながら実行が大永6年頃までずれ込んだのは、為景が中条氏との関係深化を急ぎながらも、政頼娘と景資が共に幼少であったためではなかろうか。

まとめると、永正16年に為景は中条氏との関係強化を狙い、自身の姪にあたる高梨政頼娘を養女とし中条藤資の子牛黒と婚約させる。双方幼少のため、しばらく時をおき牛黒が元服し活動し始めた大永6年頃に婚姻が実現することとなった、といえる。そうすると、景資という実名も元服時に為景から与えられたものと推測することができる。


[史料1]において黒川家中もこの婚約について反応していることから、それは揚北衆諸将へ大きな影響を与えたことだろう。[史料1]の「遠州」を色部遠江守昌長と仮定すると、中条牛黒の婚約に際して従来の筋目を見直していると捉えられ、それは為景に接近する藤資への警戒の現われではないだろうか。


*1)『新潟県史』資料編3、237号
*2) 伝来が山形大学所蔵中条家文書であるが、「遠州」は色部遠江守昌長のことであろう。牛黒丸が「中条牛黒」とわざわざ名字を書いていることからも中条氏関係者ではなく、色部昌長と比定できる。
*3)『高梨氏系図』
*4)志村平治氏『信濃高梨一族』
*5)片桐昭彦氏「謙信の家族・一族と養子たち」(『上杉謙信』高志書院)


※20/11/4 景資と為景養女の婚姻について加筆した。

中条藤資の動向1

2020-06-30 19:37:18 | 和田中条氏
和田中条氏の系譜が藤資-景資-房資=景泰であるとした前回を踏まえ、これから複数回にわたり藤資の動向について考察していきたい。

明応3年(1494)上杉常泰安堵状(*1)で中条弥三郎として父定資よりの土地譲与が認められたものが藤資の初見である。この時定資から藤資へ譲状が出されたということだろうか。『中条氏家譜略記』などに藤資当時三歳とあるのは、明応3年後も定資の活動が史料上見られること、過去に定資も幼年で寛正5年(1464)に父朝資より譲状(*2)を受けている例もあることから、妥当である。それらの資料に伝わるように、藤資は明応元年(1492)生まれであろう。

明応9年(1500)に胎内川の戦いで当時中条氏を率いていた「中条土佐守」の討ち死が確認できる(*3)が、これは藤資祖父で土佐守を名乗る朝資とみられる。朝資は宝徳2年(1450)もしくは享徳2年(1453)に父房資から譲状を受けこの時既に弾正左衛門尉を名乗ることから10代から20代と思われる。とすると、討ち死の時は60代から70代となり高齢での出陣であったことが窺われる。胎内川の敗戦後幼少にして藤資が中条氏を率いることとなる。

文亀3年(1503)藤資12歳の時中条弾正左衛門尉の名で伊達尚宗より援軍要請を受け(*4)、長尾能景、黒田良忠より伊達氏の動きと府内情勢について報告を受けている(*5)藤資が中条氏家督として活動していることがわかる。永正4年(1506)の長尾為景と上杉房能、八条氏らとの抗争に際して、揚北衆でも色部氏本所氏竹俣氏が為景に反抗するが藤資は為景に付き戦後上杉定実より知行を宛がわれている(*6)。特に色部氏との戦いでは「就色部要害落居之儀(中略)中条弾正左衛門被官人等数十人討死之由候、無是非候」といわれるように被害を出しながらもその鎮圧に貢献していた(*7)。永正6年(1509)の関東管領上杉可諄の越後侵攻に際しても一貫して為景・定実に味方した(*8)。

永正9年(1512)と思われる鮎川式部入道の反乱でも、為景に味方し派遣された山吉能盛らと共に鎮圧にあたった(*9)。

さらには永正10年(1513)の為景と定実が対立した時には9月に「対為景御名字御余儀有間敷候」と起請文を提出し、その立場は鮮明である(*10)。ただ、その前8月19日に長尾為景より藤資へ起請文(*11)が届けられており、領主としての独立性が確認できる。直前の8月8日には弾正左衛門尉の名で見えており(*12)、これが越前守の初見である。同じく8月には大見安田氏の安田弥太郎実秀から藤資へ別心無いことを起請文で表し(*13)、10月に為景と定実が交戦に入ると揚北衆の一人新発田能敦より「何篇にも御覚悟を承可致其心得候」と頼られるなど揚北で藤資の存在感が増していることを窺わせる(*14)。11月には為景方に敵対する大見安田但馬守を水原氏ら共に攻め落とした(*15)。藤資は為景味方としてさらに進軍し翌年1月16日には上田長尾房長、古志長尾房景らと共に上田庄六日町で上杉定実に与する「八条左衛門佐殿、石川、飯沼以下千余人被討留」という戦果を挙げ、藤資自身も「殊其方御手へ七十余人討捕、験(首)注文越給候」とある活躍をした(*16)。数字に誇張はあるだろうが、乱終結に藤資が大きく貢献したのは間違いないだろう。

また、藤資が伊達氏と関係あり為景からも伊達氏の動向について尋ねられる場面が度々確認される(*17)

[史料1]『越佐史料』三巻、641頁
就越中発向之儀、長尾弾正左衛門尉方江合力之事申談候、可然様自他御取合馳走憑入候、尚委細能登守可被申候、恐々謹言、
七月十日     勝王
中条殿

[史料1]永正15年(1518)には長尾為景、能登畠山義総と協力し越中制圧を目指し出陣していた畠山勝王より藤資への協力要請である。藤資が国外からも認識される一勢力であったことを示し、長尾為景への「合力」と「御取合馳走」が求められていることから、藤資が自立した存在であったと同時に長尾為景への従属関係が深化を遂げている様子が示唆される。[史料1]からも、永正16年、17年の二度にわたる畠山氏と為景の越中出陣に藤資も従軍したことが想定されよう。


*1)『新潟県史』資料編4、1852号
*2)同上、1826号
*3)同上、1317号
*4)『中条町史』資料編1、1-484号
*5)『新潟県史』資料編4、1318号
*6)同上、1320号
*7)同上、1426号
*8)同上、1322号、『越佐史料』三巻、519頁
*9) 『新潟県史』資料編4、1432号
*10) 『越佐史料』三巻、590頁
*11) 『新潟県史』資料編4、1861号
*12)同上、1324号
*13)同上、1862号
*14) 『越佐史料』三巻、596頁
*15)同上、603頁
*16)同上、605頁
*17) 『新潟県史』資料編4、1427号1431号