鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

房長の乱 編年史料集2

2024-10-16 20:10:07 | 長尾為景
前回に引き続き、長尾為景と上田長尾房長の抗争について文書の編年的整理を続ける。今回は、天文5年以降を見ていく。


天文5年
[史料15]『越佐史料』三巻、805頁
就従上田敵相動重注進旨及披見候、申越通雖無余儀候、爰元も造意等申迫候、無手透候上不及合力候、出陣迄は遅々之間不入置人数由、先書ニも露之候キ、重進催促候、為如何其地可捨置候哉、如何共要害堅固相踏候は無越度様可成其助候、在城之衆申合其かせき専一ニ候、為其差越上村小五郎候、委細は彼者可有口上候、尚以自各可申越候、謹言
    五月七日                譲恕 御朱印
     林部右京殿
     福王寺彦八郎殿

・福王寺氏らの籠る下倉城には房長から度々攻撃が加えられていたが、為景も上郡の鎮静化に追われ救援できずにいた。とはいえ当時、既に上条定兼は死去し天文の乱における為景の勝利は確定的であった(*1)。
・為景が下倉城を決して見捨てないことを伝え、堅固に守ることを指示した。
・為景の入道名で見える。署名「譲恕」とあるが正しくは張恕である。福王寺氏宛文書群をはじめ『歴代古案』所収文書は謄写であり細部に誤記が見られる。以下の文書においても同様である。


[史料16]同上、805頁
其地兵糧断絶候由候、中郡江申付候、謹而可為入之候、涯分令用心、堅固可相踏事専一ニ候、謹言
    五月八日                譲恕 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・下倉城の兵糧が不足しており、為景は中郡の味方に兵糧搬入を命じた。


[史料17]同上、806頁
先日飛脚委細申遣候、定可為到着候、仍栃尾事、連々子細も大略相調分ニ候、至于其儀は古志相談、一動被為之、其地堅固可相踏事専一ニ候、兵糧事は以前申付候、定而可入之候、謹言
    五月十二日               譲恕
     福王寺彦八郎殿

・栃尾に関しては大方の調略も進み古志上杉氏と相談し攻撃するので、福王寺氏は下倉城を防衛するように為景が指示。これ以前に房長によって栃尾が占領されていたことがわかる。占領の時期は恐らく[史料13]に見える天文4年9月の蔵王堂の戦いを始めとした房長の中郡攻撃ではないか。
・兵糧搬入は今後実行されることが伝えられた。


[史料18]同上、806頁
以前飛脚委細及返章候、定而可為到着候、其以後上田口敵之動如何、仍栃尾事連々ニ申越子細大概相調分ニ候、到于其儀は古志其他相談、一動も致之候者、自上田差行不可有之候、如何共其口可被相踏事専一ニ候、恐々謹言
    五月十二日                譲恕 御朱印
     下蔵山在城衆中

・[史料17]と同内容。
・栃尾の調略は進み、為景は古志上杉氏らと相談し同城への攻撃を計画していた。それに伴い、為景は諸将へ房長の攻撃を下倉城で防衛するように指示。


[史料19]同上、816頁
為音信樽到来喜入候、栃尾如何ニも堅固候、可心安候、謹言
    七月三日                 房長
     清雲軒

・房長が家臣の古藤清雲軒へ栃尾の防衛を指示している。[史料17、18]に見える為景方による栃尾への圧迫に対応したものと考えられる。


[史料20]同上、817頁
就其地之備重注進、毎度如申遣依当口無手透其口行延来候、下郡衆着陣遅々断而遂催促候、定漸可動出候、於此上も無沙汰候は、爰元見合可差越黒田和泉守候、委細多功肥後守方へ申届候、尚以中嶋内蔵助可有口上候、謹言
    八月四日                 譲恕 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・為景の出陣が遅れていることを伝え、同じく出陣が遅れている下郡諸将へは催促していることを伝えている。下郡諸将の出陣が実現できなければ為景の元から黒田秀忠を派遣するとのこと。
・この時までに天文の乱において敵対した下郡諸将=揚北衆を再び服属させたことがわかる。為景に敵対する勢力は房長のみとなり越後国内において孤立したことを意味する。


[史料21]同上、821頁
今度山吉其外其口へ相動候上、従上田以多人数打向候処、返合及一戦得勝利、凶徒数多討捕候段、各戦功無比類候、此上之儀山吉令談合、其地堅固之備専一ニ候、委細山吉方へ申越候、謹言
    九月三日                  譲恕 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・中郡より山吉政久らが下倉城へ来援し、房長の軍勢を撃破した。[史料22]よりこの戦いは8月28日にあったことがわかる。


[史料22]同上、822頁
去二十八日於上田口一戦之時、蒙疵被走廻之段、戦功無比類候、弥以可被抽忠信候、恐々謹言
    九月三日                  譲恕
     佐藤弥太郎殿

・8月28日の戦いにおける活躍を賞している。「上田口」とのみあり詳細な場所は不明だが、状況から下倉城周辺と考えてよいだろう。


[史料23]同上、825頁
於上田ちうせついたすへき人数交名を以申越候、得其意候、然は如申合忠信至于致候は、上田庄において彼者共相當之地可充行候、此段可申遣候、謹言
    十一月廿一日                譲恕 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・為景方の優勢に伴い房長方を離反し為景方へ帰属を意図する領主の名を福王寺氏が報告し、彼らに対し為景は相応の知行を宛行うことを伝えた。


[史料24] 『越後入広瀬村編年史』中世編、54頁
今度於其口露色 被復先忠之段、注進到来尤無比類候、然者下蔵地、堅固相踏、弥以可被抽忠信事簡要候、恐々謹言
    十二月廿一日                   譲恕
     江口藤五郎殿

・薮神の領主江口氏が為景方へ帰属。為景はそれを賞し下倉城を守るよう指示。


天文6年
[史料25]同上、800頁
依其口様体無聞差越上村小五郎・藤四郎候、如申付候、其地之各并傍輩共相談、下倉山堅固之刷専一ニ候、於備は以前発知大学助方下向之時申含候キ、謹而可出陣候、其間儀不可有油断候、委細之段彼両人可有口上候、謹言
    正月十三日                 譲恕 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・引き続き下倉城を守るように指示。薮神の領主発知氏も為景方へ従属を遂げていることがわかり、薮神における為景の優勢が読み取れる。


[史料26]同上、801頁
去十八日、従上田号大源地江相動押破為始大源伊豆守数十人討死候由、無是非次第候、取出之動無用之段、兼日申越候き、雖然其地堅固簡要候、各相談、弥以無越度様其刷専一候、出陣之儀も可相急候、謹言
    正月廿四日                 譲恕
     福王寺彦八郎殿

・房長が出陣し、「大源」=大沢が攻められ為景方の大沢伊豆守らが戦死した。大沢氏は[史料21]にある房長から離反した領主の一人と思われ、房長の報復と捉えられる。大沢氏の居城は現魚沼市大沢に残る鉢巻山城と伝わる。
・為景は不用意に反撃せず下倉城の守りを固めるよう指示し、自らの出陣を急ぐことを伝えた。


[史料27]同上、803頁
十一日敵相動候処出人数得利、各被疵由粉骨之至候、努々不可取出由申届候、雖然無越度上は無是非候、弥以其地堅固備簡要候、謹言
    二月十六日                     譲恕
     福王寺彦八郎殿

・2月11日に福王寺氏らが下倉城から出撃し房長軍を破った。為景は籠城の指示を守らなかったことに言及したが、成功したために不問とし、今後は固く防衛に努めるよう指示した。


[史料28]同上、803頁
去廿一日於廣瀬一戦之時、同心被官人粉骨候旨、神妙至候、仍其地之備無油断、各相談簡要候、上田の実説重而注進候、謹言
    二月廿七日                 譲恕 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・2月21日に広瀬の戦いで福王寺氏ら再び房長軍を撃破した。為景はこれを賞し、引き続き下倉城防衛と房長の動向について注進するよう指示した。


[史料29]同上、804頁
去廿一日於廣瀬一戦之時、被抽粉骨候、無比類候、何様一段可感之候、恐々謹言
    二月廿七日                絞竹庵譲恕
     江口藤五郎殿

・広瀬の戦いでは江口氏ら為景に帰属した薮神の領主の活躍があったことがわかる。
・これ以降房長との軍事抗争を伝える史料はない。広瀬の戦いなどで劣勢に立たされた房長は、国内情勢を鎮静化した為景に屈し、和睦するに至ったと推測される。


*1)上条定兼の死去は『越後過去名簿』(山本隆志氏「高野山清浄心院『越後過去名簿』(写本)」新潟県立歴史博物館研究紀要第9号)より天文5年4月であることが明らかである。


房長の乱 編年史料集1

2024-10-04 21:36:51 | 長尾為景
長尾為景と上田長尾房長の抗争は多数の史料が残っていがらこれまで十分な検討がされていない。前回まで、両者の抗争を中心にその実態について考察してきた。それを踏まえて、さらに文書の内容についても網羅的に検討し、それらを編年的に総集することで同抗争の理解を深める一助としたい。各文書の年次比定等の考察は以前の記事を参照してほしい(長尾房長の乱について - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。今回は天文2年から同4年までの範囲をみていく。


天文2年
[史料1]『越佐史料』三巻、794頁
敬白願書、抑今度凶徒乱入、当社悉以放火、併不恐神罰悪行非一、依之当敵上条播磨守并同名越前守、叛逆之張本人中条越前守・新発田一類、速退治事、神慮無私可令守護事、不可有疑、然者今年三カ年之内ニ、味方得吉事、怨敵忽滅却国中静謐所希也、今般之弓箭、早速属本意之上、則社頭如元造営、可励信心者也、仍如件、
    天文二年十月廿四日         信濃守為景
     居多神主

・上条播磨守定兼、長尾越前守房長、中条越前守藤資らと長尾為景の抗争が開始。


[史料2]同上、795頁
敬白願書
抑今度凶徒乱入、当社悉以放火、併不思神罰悪行非一、依之当敵上条播磨守并同名越前守、叛逆之張本人中条越前守・新発田一類、速退治事、神慮無私可令守護事、不可有疑、然者今年三カ年之内ニ、味方得吉事、怨敵忽滅却国中静謐所希也、今般之弓箭、早速属本意候者、則社頭如元造営、可励信心者也、仍如件
    天文二年十月廿六日         信濃守為景
     鵜川八幡神主

・天文3年における房長の動向を示す文書は他に残っていない。


天文4年
[史料3]同上、807頁
宇佐美前々造意連続、至于近日は方々江色々計策共々候、愚老事も雑説等雖申廻候、断而嶋津入道方意見之旨、不可有同心旨被仰切候故失手候、於事切も不可有差儀候、従何其要害用心不可有油断候、仍上田・妻有衆・薮神衆・宇佐美駿河守・大熊以下悉上条江相集候、然者水旱候間、指越案内者河東可打散候、下平方へ申越候、令談合如何共可相挊候、謹言
    五月廿九日             為景 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・房長が軍勢を率いて鵜川庄上条まで出陣。
・定兼方宇佐美氏の調略により信濃島津貞忠との関係も予断を許さない状況にあったようで、為景不利との雑説が巡っていたよう。貞忠は宇佐美氏に同心しなかった模様。ちなみに、島津貞忠は天文5年11月に死去する(*1)。
・為景は福王寺氏、下平氏へ「河東」地域=妻有庄・波多岐庄周辺地域への攻撃を指示。


[史料4]同上、807頁
自上田口其地へ可及行候哉、各致談合堅固可相抱事肝要候、万一敵陣取候は、自此口可成動候、謹言
    六月廿日               為景 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・福王寺氏へ下倉城周辺の敵の動向を問い合わせ、同上の防衛を指示している。
・内容が具体的ではなく年次比定は難しいが、「為景」署名とされることから天文4年6月と推測した。


[史料5]同上、808頁
河東江及行、方々放火之由神妙至候、弥以可相挊候、然は其地用心事各申合不可有油断候、謹言
    六月廿七日              為景 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・福王寺氏は指示通り河東地域への攻撃を成功さ、引き続き下倉城の防衛に努める。


[史料6]同上、813頁
向五十澤口相動之上、秋谷之者共取手之外見合、及一戦得勝利、為始下平次郎太郎、数百人討捕之由、自金子勘解由左衛門所注進到来、粉骨之至、誠無是非心地能候、永々其口為押張陣之由、爰元無手透故、以切紙不申越候、別而相加世具段其聞候、感入候、謹言
    七月十七日              房長
     古藤清雲軒

・波多岐庄下平氏ら為景方が上田庄を攻撃するも五十澤の戦いで房長家臣古藤氏らに敗れ、下平氏は戦死した。
・房長は「爰元」に出陣中で上田庄を留守にしていた。[史料7]にある琵琶嶋の戦いと思われ、下平氏らの攻撃は留守中を狙ったものと推測される。


[史料7]同上、816頁
新山落居之砌、次郎太郎走廻候、定可為満足候、謹言
    七月廿ニ日              房長
     清雲軒

・古藤氏が新山城を落とした際の活躍を房長が賞している。「新山」は詳細不明だが、アラヤマと読み現南魚沼市荒山を指している可能性がある。地理的には五十澤と下倉城の間にあり、五十澤の戦いに勝利した古藤氏が荒山の拠点を攻略し、[史料7]に見える下倉城攻撃へ向かったと推測される。
・この文書については根拠に乏しく確定的な結論は難しいが、総合的に考えて上記推測が最も蓋然性が高いと判断した。


[史料8]同上、814頁
国分方へ之切紙披見、不始其口加せ儀、尤無是非候、上条之者共令同心下倉山へ相重候由、是又肝要ニ候、如何共各令談合、物裏之動、敵之往復、自由不致得之様に其刷専一ニ候、爰元備可御心安候、具自両人方可申届候、謹言
    七月廿五日              房長
     穴澤新右衛門尉殿

・房長方が為景方下倉城を攻撃。穴沢氏が出陣中の房長へ国分氏を通じて報告し、房長はそれを賞している。


[史料9]同上、817頁
河東江凶徒等相集、琵琶島へ及行候間、馬廻者共為助之候、然者其地人数相談、河東江為忍足軽可為放火候、将亦其地無油断可用心候、謹言
    八月二日               為景 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・琵琶嶋の戦い。房長軍が河東地域を拠点に為景方の琵琶嶋上杉氏の拠点琵琶嶋を攻撃し、為景馬廻衆が救援へ向かった。
・[史料5、6]で房長の出陣が確認されており、琵琶嶋を攻撃した上田長尾軍は房長が率いていた可能性が高い。
・[史料3]に上条へ房長、宇佐美氏、大熊氏、薮神・妻有衆が集結していることが見え、上条定兼のもとに房長らが結集して琵琶嶋へ攻勢をかけたことが推測される。


[史料10]同上、820頁
於時宜者、始中終承旧申断候、然は如御望奥衆一筆相調進之候、至于上は任御兼約、早速可被顕其色候、以前之御思惟者彼書中存候歟、尤無拠存候、御動有御遅延者、弥愚拙可失面目候、委曲石勘可被申分候、恐々謹言
    八月十四日              長尾越前守房長
     平子弥三郎殿

・房長が平子氏へ味方に属するよう求める。
・軍事行動へ遅れないようにと念押ししており、定兼陣営への参陣を求めたと推測される。

[参考1]同上、820頁
以長尾越前守方、連々如承者、被属味方可被抽忠信由候哉、尤以簡要之至候、然者、西古志郡内皆以可被抱候事、不可有相違候、委細越前守方へ相断候、定可有伝語候、恐々謹言
    八月十七日              定兼
     平子弥三郎殿

・上条定兼も平子氏を味方へ誘う文書を発給しており、定兼-房長ラインともいうべき政治体制が構築されつつあったことが推測される。


[史料11]『歴代古案』第四、1323号
松苧山之事、各以談合忍取候由、神妙之至候、謹言
    八月十九日              黄博
     福王寺彦八郎殿

・「黄博」=為景は、福王寺氏らが「松苧山」=松之山を忍び取ったことを賞賛している。[史料8]において為景が福王寺氏へ指示した河東地域への攻撃が実行された結果と捉えられる。
・「黄博」の初見であり、為景が天文4年8月に入道したことがわかる。
・黄博の法名については以前の記事で検討している(長尾為景と「黄博」 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。


[史料12]『歴代古案』第四、1324号
於今度高柳口粉骨、殊被官人被疵候由、神妙無比類候、弥以相嗜可走廻候事肝要候、謹言
    八月廿八日              黄博 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・松之山から柏崎方面へ進むと高柳という地名が現在も残る。松之山を攻撃した福王寺氏は琵琶嶋の戦いを援護するためそこから柏崎方面へ進軍していたことがわかる。


[史料13]『越佐史料』三巻、824頁
上田・薮上之人数、大熊彦次郎以下悉打振、蔵王堂口へ出張、其口事は可為留守中候、如何共令調法、妻有・河東を可焼候、為其急度申遣候、謹言
    九月廿二日              黄博 御朱印
     福王寺彦八殿

・蔵王堂の戦い。房長が軍勢を率い蔵王堂を攻撃した。詳しい経過は不明であるが、為景方が琵琶嶋の防衛に成功し房長らは後退、中郡への攻撃に転じたと推測できる。
・為景は福王寺氏へその間に敵が留守であるとして妻有・河東地域への攻撃を指示。


[史料14]同上、815頁
其地之傍輩共與同心、先衆に石坂口へ可相動候、少もらんほう狼藉致間敷候、堅可申付候、委細金子勘解由ニ申含遣候、今泉方をも指添候、能々可申合候、謹言
    九月廿四日              房長
     穴澤新右兵衛尉殿

・石坂口は現在の長岡市石坂地区を指すと推測され、蔵王堂の戦いに伴い房長が穴沢氏へも中郡への攻撃を指示したものと考えられる。



*1)『嶋津代々并庶子法号』(中村亮佑氏「米沢藩上杉家家中『嶋津家文書』について」文書館紀要第三十号)

長尾為景と「黄博」

2024-09-23 21:14:19 | 長尾為景
長尾為景発給文書の中には「黄博」署名の文書が存在する。下掲[史料1~3]の3通が該当の文書であり、全て『歴代古案』なる謄写本に伝来している。ただ、「黄博」の所見は全て福王寺氏へ宛てられるという偏りがあり、『古案』についても謄写本という性格を考慮する必要がある。今回は、為景の名乗ったとされる入道名「黄博」に関する諸問題について検討する。結論から言えば、為景は天文4年8月に入道し黄博を名乗り、その後天文5年5月までに絞竹庵張恕へ改名したことが推定される。


[史料1]『歴代古案』第四、1323号
松苧山之事、各以談合忍取候由、神妙之至候、謹言
    八月十九日          黄博
     福王寺彦八郎殿


[史料2]『歴代古案』第四、1324号
於今度高柳口粉骨、殊被官人被疵候由、神妙無比類候、弥以相嗜可走廻候事肝要候、謹言
    八月廿八日          黄博 御朱印
     福王寺彦八郎殿

[史料3] 『歴代古案』第四、1340号
上田・薮上之人数、大熊彦次郎以下悉打振、蔵王堂口へ出張、其口事は可為留守中候、如何共令調法、妻有・河東を可焼候、為其急度申遣候、謹言
    九月廿二日          黄博 御朱印
     福王寺彦八殿

1>「黄博」署名の真偽
まず、『古案』における「黄博」署名の信頼性、正確性について考えたい。『歴代古案』は謄写本であり、原本を書写したものを集成した史料であることから書写した際の誤記などの可能性も考えられる。実際、同史料の署名では多少の誤記が見られる。例えば為景の入道名について、絞竹庵張恕は「譲恕」とされ、桃渓庵宗弘は「宗張」と記されている。「黄博」についても原本の記載であったかどうか、すぐには信頼できないと感じる。とはいえ『古案』の誤記は漢字の一文字程度で、概ね史実に沿っている。全く根拠がない中で「黄博」が記載されたとも考えにくい。

このような問題点を解決するために『古案』の成立過程や編纂事情を考える必要がある。『古案』は羽下徳彦氏、阿部洋輔氏、金子達氏による編集のもと翻刻が出版されている(*1)。同書の解題にて編集者らにより『古案』に関する考察がまとめられている。それによると、作成者は米沢藩関係者であり、成立時期は確定できないものの米沢藩の修史事業が進められた元禄年間と想定されている。ここで「黄博」署名を含む福王寺文書についても言及されている。『古案』は同時期に米沢藩で編纂されたいわゆる『御書集』と内容が重複する部分があり、福王寺氏文書も全32点のうち29点が双方に記載されるという。そして、『古案』にのみ記載され『御書集』から除外された3点が「黄博」署名の文書である。つまり、福王寺氏に伝来した文書を藩へ提出させ書写し集成する際、「黄博」署名が不詳の人物とされ『御書集』への記載は不適当と判断されたというのである。ここから「黄博」署名は書写の段階での誤記ではなく、実際に福王寺氏の家伝文書に記されていたことが確実といえる。よって、為景が「黄博」として福王寺氏宛に文書を発給した可能性は極めて高いといえる。

2>「黄博」文書の年次比定
続いて、黄博として発給された[史料1~3]の年次比定を行いたい。まず、[史料3]については上田長尾房長との抗争を検討した上で天文4年9月であると推定した (以前の記事)。[史料1、2]も[史料3]と近接した時期のものと考えると天文4年8月、もしくは天文5年8月が想定される。

その前後の文書を見てみると、天文4年8月2日長尾為景書状(*2)まで「為景」署名であり、天文5年5月7日長尾張恕書状(*3)において入道名「張恕」が初見される。つまり、[史料3]が天文4年9月である点はと矛盾はなく、[史料1、2]については天文4年8月であれば前後の文書群とも署名の上では整合性がとれることがわかる。

では文書の内容における整合性についても見ておきたい。[史料1]では、黄博が福王寺氏らの「松苧山」=松之山攻撃を賞している。さらに、[史料2]では「高柳口」での福王寺氏らの軍事行動を賞している。高柳は松之山から柏崎方面へ進んだ所に位置する。日付も近い2通が一連の軍事活動であったことは疑いない。そして両通が天文4年8月であれば、同年8月2日長尾為景書状(*2)において「河東江為忍足軽可為放火候」とある点が注目される。すなわち、8月2日の文書(*2)で為景から河東地域への攻撃を指示された福王寺氏は[史料2]の出された同月19日までに同地域の松之山を攻撃し、さらに[史料3]の同月28日までに高柳まで進軍したと考えられる。このように、文中の内容からも天文4年8月として矛盾はなく、むしろ同時期の為景方として活動する福王寺氏の動向を明らかにするものであると考えられる。

3>「黄博」を名乗った意味
上記での年次比定を踏まえると、長尾為景は天文4年8月2日以降、同月19日までに入道し黄博を名乗ったことが明らかとなる。そして、天文5年5月7日までにさらに絞竹庵張恕へ改めている。これら名乗りの変遷についてその意義を考えたい。

まず、これらに上条定兼・上田長尾房長・中条藤資らとの抗争である天文の乱との関係は無視できず、同乱の経過が名乗りの変遷に繋がったことは前提として間違いないだろう。具体的には事実上の越後上杉氏のトップであった上条定兼との直接交戦するにあたり、為景の軍事行動は秩序に反した行動として捉えられる可能性があり何らかの形で責任を取る必要があったと考えられる。これは、守護上杉房能死亡後に為景が一時的に入道し桃渓庵宗弘を名乗った事例と同様のものと推測できる。黄博の所見はごく限定的であり、桃渓庵宗弘と同じくその使用は一時的なものであったと想定され、張恕が初見される天文5年5月までに再び為景を名乗っていた可能性は否定できない。

ちなみに、黄博を名乗った時期には特に琵琶嶋の戦いと呼ぶべき合戦の最中であった。琵琶嶋は為景方の琵琶嶋上杉氏の拠点であり、交通の要衝でもあった。琵琶嶋の攻撃は上条定兼のほか、長尾房長など天文4年5月の時点(*4)で上条に集結していた軍勢が参加していたと考えられ、反為景方の大規模な攻勢であったことが想定される。黄博の初見は琵琶嶋への攻撃を福王寺氏へ報告した直後のことであり、この戦いの詳細な経過は明らかでないがその趨勢が影響した可能性はあるだろう。

その後情勢は変化し、天文の乱は為景の勝利で確定的となるわけだが、為景は政治的な思惑のもとで改めて絞竹庵張恕を名乗ったと推定する。やはり天文5年4月の上条定兼の死去に配慮するという側面があったと考えられよう。形骸化していたとはいえ、当時の秩序において越後守護上杉氏の優位性は依然として残っており、為景としてもそれに対する政治的な対応が必要であったのであろう。



ここまで、長尾黄博の所見に関する諸問題について検討した。その結果、天文の乱において上条定兼、上田長尾房長らとの抗争を繰り広げる最中、天文4年8月に為景が入道し黄博を名乗ったことを指摘した。その後、天文の乱終結に伴い、天文5年5月までに絞竹庵張恕へ名を改めていたことも併せて明らかにした。いずれの入道名においても、越後上杉氏の事実上のトップであった上条定兼との抗争に伴う配慮があったことを想定した。


*1)『歴代古案』、八木書店
*2)『越佐史料』三巻、817頁
*3)同上、805頁
*4)同上、807頁

網鑰相論から見る越後の権力構造

2024-06-15 23:21:33 | 長尾為景
「網鑰相論」は越後における在地の争いと、それらに上位権力がいかに関わっていたかがわかる貴重な事例である。村落の動向と領主層、さらに上位の地域権力の関係は黒田基樹氏の研究(*1)に詳しい。今回は、黒田氏の研究を参考に越後における網鑰相論を掘り下げてみたい。

[史料1]『新潟県史』資料編3、208号
就網鑰之義、先度申入候処、返給間敷之由承候、近比不及覚悟題目候、惣別五十嵐方及愚領へ差懸、狼藉緩怠、余口惜候故、渡辺・樫出罷越、其子細相尋可申之候処、御近所之事ニ候とて、至于時御刷無余義候、然彼網鑰、五三日中ニ可渡給之趣被成面語、種々被仰断筋目候間、任其意各罷帰候処、于今不返給候、剰爰元落居之間、可被留置之由候歟、是又更覚外候、五十嵐方与某間之事、当座之御取合者如何、深其方可有御取持子細何事ニ候哉、畢竟当分以御計策おきぬかれ、五十嵐方御引及、歎々敷御刷、他人之嘲、失面目計候、雖事新申事、其方之御事、累年別而互甚深申談候処、如此之時者、以細事等、慥御等閑ニ可罷成事、無曲次第候、縦一旦被成抑留候共、果而不可相止之条、始末御思案不可過候歟、只今不申断而罷過候共、於已後御疎敷可罷成事、迷惑此一事ニ候、依彼返事、可存其旨候、委細猶五十嵐主計助可申宣候条、不能重説候、恐々謹言
  十二月廿五日             弥四郎房景
  長尾平三郎殿

[史料1]は栖吉長尾房景が近隣の領主長尾景行に対して宛てた書状である。いわゆる「網鑰相論」に関する史料である。房景と所領を接する五十嵐文六が房景領へ狼藉を働いたことがきっかけとする。しかし、これは五十嵐文六自身が勢力拡大を目論み侵攻したわけではなく、村落同士による山野河川の用益の確保を巡る争いであったと考えられる。黒田氏によっても村々の争いがその領主たる両者の対立に繋がっていくことが明らかにされている。

具体的な経過を見ていく。まず、五十嵐氏方の勢力により房景支配下の村落が危機に晒された。具体的には河川における漁業権の横領や村落への不当な入部が想定される。この抗争は房景も看過できない事態となり、家臣の渡辺氏と樫出氏が派遣された。領主が家臣を現地へ派遣することが当知行を維持していく上で極めて重要な行為であったことは黒田氏によって指摘されている。子細を尋ねることが目的とあり合戦が目的であったわけではないが、渡邊氏、樫出氏がある程度の軍勢を率いていたことも十分考えられその場合五十嵐氏方と一触即発の事態へと進展した可能性が高い。そこで登場したのが長尾景行である。景行は他に所見がなく詳細は不明であるが、五十嵐保近辺に拠点を持つ房景と比肩する領主という点から下田長尾氏であるとの推測が通説となっている。景行は「御近所之事」であることを名分に両勢力を仲裁し、房景方の「網鑰」を預かり数日で返却することを約束し渡辺氏・樫出氏は帰還する。しかし、景行は預かった「網鑰」を返却せず不審に思った房景が催促に及ぶが応じようとしなかった。房景の催促を「近所之義」の「筋目」を理由に断ったことが[史料2]に見えている。房景はこの事態を景行による五十嵐氏への肩入れと見て不満を露わにしている。ちなみに房景と景行はこれまで長年にわたり良好な関係を維持していたようで、房景は今回それに反する景行の行いを詰問している。

[史料2]『新潟県史』資料編3、166号
如尊意之、其後者不申通候条、御床敷奉存候、仍而彼一義如承候、近所之義与申、貴所へも五十嵐方へも申談候故、あミかき之事預置申候キ、然間、拙者取合之筋目、諸人存知之義候間、先々某ニ被為置候而も不苦候歟、就之公理御越度ニハ罷成間敷候哉、対其方申努々疎義を存子細無之候、恐々謹言
   極月廿一日             平三郎景行
   長尾弥四郎殿

[史料1]の数日前に景行から房景へ出された[史料2]には「其後者不申通候」とあり、相論を仲裁以後景行はしばらく音信不通であったことが窺われる。房景が景行の姿勢を疑うのも尤である。

今回、長尾景行が主張した「近所之義」は中世社会において広く見られた紛争解決のあり方であったとされる。黒田氏の研究では仲裁する第三者は偶然に関わりを持つわけではなく、一方の積極的な要請により調停に乗り出すことを想定している。つまり、網鑰相論においては長尾房景との対立を受けた五十嵐氏の要請によって長尾景行が登場した可能性がある。それを踏まえると、景行が五十嵐氏に有利な処置を行い、房景が不満を表している事態も納得できる。ここに中世の慣例、慣習での紛争解決の限界が見られ、後述のようにより上位の領域権力(越後では長尾為景)の裁定を必要とすることになる。

ところで、景行が預かった「網鑰」が何を表すのか確実なことはわかっていない。網からは漁業に関する用語であることが推測され、通説では漁に使用する道具であるとされている。田畑の収納に関する争いはその収穫時期に多いとされるが、当相論はそこから外れた12月に生じている。このことからも漁業の利権をめぐる相論であったことは首肯される。すると景行は村落の所持する漁業道具を預かり、その漁業権を停止したことになる。これも房景が納得できない点であっただろう。

このように、長尾房景、五十嵐豊六、長尾景行三者間で交渉を進めたわけだが、結局解決には至らなかった。房景は「近所之義」での解決を諦め、さらに上位の領域権力である越後守護代長尾為景に調停を依頼するのである。

[史料3]『新潟県史』資料編3、167号
如仰明春御吉兆、珍重幸甚不可有際限候、為御祝儀、御太刀一腰拝領、祝着候、抑太刀一腰令進候、誠表一儀計候、随而五十嵐豊六方、旧冬以来被抑結子細、度々預御尋候、畏入存候、雖諸公事相止候、雪消候者、被入検見、堺之様体可被仰付事専一候、若又文六方申所も候者、可存其意候、委御使たゝ見方へ申入候間、不能重説候、恐々謹言
    二月廿三日             大江広春
謹上 長尾弥四郎殿

[史料3]は長尾為景の奉行人毛利広春の書状である。長尾房景が府中の長尾為景権力に対して訴訟を起こし、それに対して広春が積雪がなくなり次第現地を確認し房景領・五十嵐領の境界を決定することを伝えられている。翌3月6日毛利広春書状(*2)には「あミかき御相論之事、為景被之聞召、中途分被仰出候」とあり、さらに「御領吉益分」について以前と同じように栖吉長尾氏の支配を認めている。網鑰相論と「御領吉益分」の関係については明らかではないが、大永7年豊州段銭日記にも「吉益領」が見える。以前からの栖吉長尾氏領であり、それを改めて安堵されていることからは網鑰相論における争点の一つであった可能性も考えられる。

これ以降、網鑰相論に関する史料はなく結果については明らかではないが、為景の調停によって解決を見たと考えるのが自然であろう。房景、五十嵐氏のどちらかが利益を得たか、はたまた痛み分けであったかは不明であるが、重要な点は「近所之義」で解決できない紛争が長尾為景という越後における最上位権力の裁定をもって終結した点である。

そもそも、房景や五十嵐氏も戦争を望んでいたわけではなく、村落の在地勢力の抗争をきっかけに引くに引けなくなったと見るべきである。領主が対立に及ぶ理由は、在地の要請に応えられない領主は領主失格と見なされ支持を失いその立場を維持できなくなるからである。黒田氏は在地の紛争は領主を呼び込み領主同士の紛争に発展したことが指摘されており、今回の事例にも当てはまるといえる。中世においてこういった紛争は近隣の第三者の仲介=「近所之義」によって解決される慣習があったわけだが、上記でみたようにそれぞれの思惑を持って動く領主たちの間では問題解決には程遠い様子が認められる。こういった状況を打開するために必要とされたものが領主の上位権力にあたる領域権力であり、当事例では長尾為景にあたる。黒田氏は、領域権力が在地勢力から権利を保証してもらう存在として必要とされていた事実を明らかにしており、領域権力ひいては戦国大名が在地を抑圧するような存在ではなく、在地勢力の維持を目的に産み出された権力という側面が浮かび上がるとする。栖吉長尾氏といった領主層が為景に従う理由もここにあると考えられる。網鑰相論により越後においても例外ではなく、長尾為景を頂点とする権力構造の一端を示すといえよう。



*1)黒田基樹氏「常陸江戸崎土岐氏の領域支配と村」、「九条政基にみる荘園領主の機能」、「甲斐穴山武田氏・小山田氏の領域支配」(『戦国期領域権力と地域社会』岩田書院)
*2)『新潟県史』資料編3、168号

伊達入嗣問題3 抗争の経過とその終結

2023-12-10 14:01:53 | 長尾為景
伊達入嗣問題に引き続き、奥山庄・小泉庄周辺で生じた紛争の天文8年以降における動向について検討したい。

天文8年9月に本庄氏、色部氏周辺で紛争が生じ、「不慮之再乱」と呼ばれる事態となる。それに乗じて伊達稙宗が侵攻、同年11月に本庄房長が敗死し小河長資、鮎川清長らが伊達氏の影響下に入ったことは前回までで見たところである。

1>天文9年における羽越国境での抗争

[史料1]『越佐史料』三巻、853頁
態令啓候、抑連々可有其聞候、上杉名跡之儀、時宗丸可有相続分候、於愚老者、遠慮之旨、数々度雖及辞退候、定実骨肉之間ニ可被致猶子方無之候上、頻競望候而、先年平子豊後守為迎被越置候キ、雖然彼国之乱劇未落去候故遅延、去々年已来両使節差越、国中一統之調法候上、違背之族候も、一両輩及退治、残徒色部一ケ所迄候条、近日向彼口、可致出馬候、然者御合力之義申述候、就中田村・相馬両所境辺如何様之鬱憤之義、雖出来候、御堪忍候様ニ、重隆江御意見可為欣悦候、邪正之儀者、帰陣之上可申合候、心緒之段、正覺院任口説不能詳候、恐々謹言
    六月十四日         左京大夫稙宗
   謹上 神谷常陸介殿

[史料2]『越佐史料』三巻、854頁
態啓達一書候、仍伊達息時宗丸越後江上国此度示定候、依之稙宗父子出馬之事、以使者承候、尤目出度候、其方可有同道之旨聞得候、爰元大儀此事候、彼是以床敷存候条、為使郡中務丞指越候、精彼口上申含候、恐々謹言
    林鐘十六日         義直
     留守相模守殿

天文9年6月に伊達稙宗、晴宗が出陣を計画し越後へ攻勢をかけたと推測される。前年に小泉庄の多くを影響下に置き、それを橋頭保にさらなる侵攻を目指したのだろう。

[史料1]「一両輩及退治、残徒色部一ケ所迄候」と表現される状況は天文8年11月以降のことであるが、その下限が重要である。天文10年2月には小泉庄内の領主間で「如前々申談」(*1)とあるように色部氏と鮎川氏、小河氏らが和解しており、それ以前と推定される。よって、[史料1][史料2]は天文9年6月と考えられる。「田村・相馬両所境辺如何様之鬱憤之義、雖出来候」「邪正之儀者、帰陣之上可申合候」つまり田村氏らへの対応は越後から帰陣後に行うとある点も、天文10年4月における田村氏の伊達氏服属(*2)以前のものであることを示唆している。天文11年に比定されることもあるが、前後に羽越国境で抗争が生じている様子はなく、「去々年已来両使節差越」が長尾氏と伊達氏が敵対後の天文9年のこととなってしまい不自然である。[史料1、2]からは天文8年後半から9年にかけて越後長尾氏と伊達氏の対立は激化していたことが窺える。

同じ頃、越後国内においても天文9年6月長尾氏に敵対する勢力が信濃市川より「松山四籠之要害」を攻め落としたため為景は板屋藤九郎を派遣し奪還したという(*3)。このように羽越国境の動揺と対立する伊達氏の存在は、他方面における反乱分子をも刺激し蜂起する契機となり得たと推測される。つまり天文9年において長尾為景・晴景父子は、伊達稙宗とそれに味方する揚北衆に加え国内の不穏分子の蜂起にも直面し、それらを打倒する必要があったと考えられる。

そのための一手として、為景・晴景父子は朝廷工作に乗り出す。天文9年8月5日に為景が天文4・5年の綸旨の御礼として朝廷へ五千疋などを献上している(*4)。そして、それと同時に新たな綸旨を申請していたことが次の史料からわかる。

[史料3]新999
尊書祝着之至候、抑為先年 綸旨御礼御申段珍重存候、次対私五百疋被送下候、御懇之儀畏存候、只今又弥六郎殿御申綸旨之儀、内海被申候条、随分被申調被遣候、希代御面目候、急度御礼御進上之儀可然存候、巨細内海可被申候条、不能詳候、恐々謹言
   九月廿七日         宗頼
  長尾信濃守殿 尊報


長尾晴景に下知するとした後奈良天皇綸旨(*5)、「私敵治罰綸旨」の発給を伝える長尾晴景宛広橋兼秀(*6)も残っている。天文9年の綸旨は長尾晴景が申請し、晴景宛に発給されたことがわかる。これが為景から晴景への家督移譲に起因していることは以前言及した(*7)もちろん、[史料1]などから為景が主導していたことは間違いない。天文9年1月に為景は献上品運搬のため加賀通行の許可を本願寺証如に求め翌月に通行が保障されているように(*8)、為景によって綸旨獲得のための事前準備がなされていることからもそれは示される。

[史料4]『新潟県史』資料編3、104号
其地敵退散、奥方所々御本意之由、其聞得候、如此頓道行候事、誠以きとくまで候、御留守中無何事候、おそなき御かたがた御堅固候、可有御心安候、恐々謹言
  十月廿三日          玄清
  信濃守殿

ここまで天文8~10年の発給と考えられる文書だが、天文8年は黒川氏、中条氏に出陣を促しているのみで為景出陣の事実はなく、天文10年には後述するように小泉庄領主間での和解が成立し越後長尾氏の支配に復帰している。このことから[史料4]は天文9年10月と推定される。伊達稙宗・晴宗父子の出兵に対して、綸旨を後ろ盾とした為景自らが揚北へ出陣していたことが推測される。つまり[史料1、2]で述べられたように稙宗の羽越国境出陣が実現していれば、天文9年秋から冬にかけて奥山庄、小泉庄の周辺で伊達稙宗と長尾為景の対陣があったことが想定される。これまでの局地戦とは異なり戦国大名レベルでの軍事衝突が生じていた可能性がある。

そして、「其地敵退散、奥方所々御本意之由」からは為景が伊達軍の侵入を許さず、再び小泉庄への影響力を強めたことが理解される。天文10年2月から始まる小泉庄内の領主間交渉は、天文9年10月に長尾為景の元へ再帰属したことが契機となったのであろう。ここでいう帰属とはあくまで上位権力と国衆の比較的ルーズな関係であり、それ故に領主間の独自の交渉に拠る部分も大きかったのだろう。


ここで領主層と越後長尾氏の関係を考えたい。天文10年8月小河長資宛色部勝長書状(*9)には「府内之儀者不及申、其外ニ被見捨候共、相互不可有別条候」とあり、長尾氏の介入を嫌い領主間の結束を強めたことを示すと解釈されてきた。しかし、「府内之儀」とあるように上位権力として長尾為景・晴景が存在したことは明らかであり、この一文はむしろ小泉庄が再び長尾氏の影響下に戻ったことを示しているとみて良いだろう。彼らは領主間で連携しながらもそれは完全な独立を目指していたわけではなく、上位権力の庇護を受けながらもそれが権利を侵害に繋がる場合には抵抗するためのものだったと考える。簡単にいえば、長尾氏と揚北衆の緩い従属関係を維持するのが目的といえよう。

これまで通説では中条氏が上杉氏への時宗丸入嗣を進める一方、他の揚北衆が反対し軍事的な混乱がおこったとされていた。しかし、ここまで古文書を検討してみると彼らが注目していたのは支配下にある土豪層の動向と所領の維持である。現代の視点で、当時の議題は入嗣問題であるから当然領主層にとっても重要案件であったと勝手に思い込んでいたが、実際に彼らは自領を維持するだけで精一杯でありそれが叶うなら上位権力は長尾氏でも伊達氏でもよかったのではないか。


冗長となったがここまでをまとめると、天文8年から9年にかけての伊達稙宗の攻勢と国内の反乱勢力の抵抗を長尾為景は軍事行動、政治工作の両面を以て乗り切り、天文10年初めまでには再び小泉庄の主な領主を従属させ、その後反乱勢力の鎮圧にも成功したと推測できる。

治罰の綸旨の効果については諸説あるが、結果からみれば綸旨は効果があったと考えられる。もちろん軍事力がなければ権威も無意味であったと思われるから、為景の実力が前提にあることは付け加えたい。


2>晴景の登場と伊達入嗣問題の終結
ただ、完全に伊達氏勢力の排除が完成したわけではなかった。天文10年7月には下渡島城に拠り敵対する勢力を色部氏、鮎川氏が討伐している(*10)。長尾氏へ帰属していなかった残党勢力だろう。さらに忘れてはいけないのは一貫して伊達氏に味方していた中条氏である。周囲が長尾氏の影響下に戻った後も、中条弾正忠は頑固に抵抗を続けていた(*11)。そんな中、天文10年12月に長尾為景が死去する。息子晴景が後を継ぎ、政権を運営していくこととなる。

晴景に代替わりしてからの大きなイベントは鳥坂城中条弾正忠を巡る戦いである。色部氏重臣に宛てられた天文11年9月長尾晴景書状(*12)に「至于中条度々一戦勝利、併忠信無是非候、定落居不可有程候」とあり、晴景方が中条氏を追い詰めていることがわかる。年次比定については以前の記事を参照してほしい(*11)。ちなみに、次掲[史料4]の存在から逆算しても鳥坂城落城は天文11年であることが示される。

[史料4]『新潟県史』資料編4、1056号
従伊達為使門目丹後守方上府、中弾前事、雖被申之候、各へ時宜談合申、於其上可及御返事之由、於其上可及御返事之由、令挨拶候、依之先日以使者申宣候き、定可為参着候、恐々謹言                長尾弥六郎
   十一月廿一日            晴景
   色部弥三郎殿 御宿所

[史料4]は天文11年のものである。「去秋門目丹後守為使」とある伊達晴宗書状(*13)が洞の乱勃発時の天文11年12月に発給されているから、確実である。内容は「中弾」=中条弾正忠について各々へ相談し返答するとした文書と読め、9月時点で落城間近であった鳥坂城が落城し中条弾正忠の去就について揚北衆に確認し決めていこうとする晴景の意向を示していると考えられる。一連の動向は、天文21年黒川実氏(平実カ)書状案(*14)における「揚北中申合、中条前之義押詰、巣城計ニ成置付、落居之砌、伊達従晴宗無事為取刷、被及使者之上、従拙者も府へ及注進候つ、従府内も承筋目候条、任其意候き」に一致する。

さて、この戦況の変化をもたらしたのは天文11年6月に勃発した伊達稙宗・晴宗父子の抗争=天文の大乱・洞の乱であること想像に難くない(*15)。伊達氏内乱の隙を衝く形で中条氏が攻撃されたと推測され、混乱する伊達稙宗陣営から十分な支援が受けられなかったことが中条氏の降伏に至った原因である可能性がある。

そして、結果的にこの伊達天文の乱が伊達入嗣問題にも終止符を打つ。天文11年12月色部氏、黒川氏ら晴景方の揚北衆に宛てられた伊達晴宗書状(*16)にて「時宗殿就上国之義、去秋門目丹後守為夫覚悟之旨申越候き、具可致閑談候哉、已前も如申候、被抛万障、早々御無為無事肝要存候哉」とあり、稙宗に敵対した晴宗が時宗丸入嗣は「御無為」であると主張し、それは使者門目氏を通じて長尾晴景にも伝えられたと想定される。つまり、伊達天文の乱勃発後、時宗丸入嗣の中止という点で長尾晴景、伊達晴宗は合意に至ったと考えられる。さらに「(晴景方の揚北衆は)被対当方、無御余儀候由其聞候、本懐之至候」とあり、晴景は敵対する伊達稙宗へ対策として晴宗と協力関係を結んだとみられる。

ちなみに、「御無為無事」という部分だけでは解釈が難しく、上記で見たような時宗丸縁組解消とするものと、無事に時宗丸の入嗣を実現する、という二通りが提唱されている。しかし、南東北地方を二分する伊達天文の乱において時宗丸入嗣の方針が敵対する父子間で一致するとは思えず、そもそも他国への入嗣政策を進める稙宗に対して伊達家中内で基盤を固めるべきと考える晴宗の対立の結果が伊達天文の乱である。つまり、時宗丸入嗣を推進する稙宗に対して、晴宗は反対の立場あると考えられ、「御無為無事」についても入嗣計画の解消を問題なく進めていくという意味であったと推測される。黒嶋敏氏(*17)によると伊達晴宗は伊達家中内での婚姻を進めており、稙宗が行った他勢力への積極的な縁組政策から転換したことを指摘している。この推論は、晴宗が上杉氏への時宗丸入嗣に反対の立場であったとする推測を補強する。

まとめると、伊達天文の乱の勃発後、時宗丸入嗣を掲げる伊達稙宗に対し、長尾晴景はそれに反対する伊達晴宗と協調し戦況を有利に進めたことが理解される。


しかし、伊達稙宗も一方的に負けていたわけではなく、伊達領内での抵抗はもちろん越後へ揚北衆の取り込みを図っていた様子がある。天文11年11月黒川四郎次郎宛上郡山為家書状(*18)にて、山形最上義守の他長井庄の勢力が悉く稙宗に属したことや為家が羽越国境の小玉川を攻め落としたことが伝えられ、黒川氏へ稙宗方に味方するよう勧誘していることが読み取れる。黒川氏は誘いに乗らなかったが。天文11年末頃に晴景陣営へ降伏したばかりの中条氏はほどなく再び伊達稙宗の元に味方し長尾氏を離反し、「上郡山引付、弥三郎事重而伊達へ申合、向当地露色事、対国逆意」と表現されている(*14)。つまり、中条氏は上郡山為家を通じた稙宗の工作に乗じて再び稙宗陣営についたと考えられる。この「弥三郎」は中条弾正忠の後継、中条弥三郎房資(後に越前守)である。中条氏は天文11年末までに「巣城」まで追い詰められたため降伏したわけだが、逆に言えば「巣城」は無事な状態での開城であることで拠点や軍事力の致命的な損傷を回避しており降伏後まもない離反を可能したと考えられる。

また、天文12年3月色部家中八名連署起請文(*19)にて色部家臣団が色部中務少輔の誘いに乗らず色部勝長に従うことを誓約しており、稙宗の勧誘に対して色部中務少輔が離反したことがわかる。色部中務少輔は天文10年7月鮎川家中連署起請文(*20)に色部家中の筆頭として見るほどの有力者である。当時、色部中務少輔の他にも本庄亀蔵院、矢羽幾旅次郎らなど稙宗派の勢力が存在していたことが明らかである(21)。


このような戦況につき、長尾晴景は再び朝廷の権威を用いる。それが「当国中令静謐為豊年、 震筆御心経一巻可奉納神前」とする天文13年4月20日後奈良天皇綸旨(*22)の発給である。実際、その後史料上伊達氏との抗争は認めない。伊達稙宗も内乱の対応に忙殺され伊達晴宗と結んだ越後・長尾晴景への攻勢は諦めるほかなかったのであろう。事実上の晴景の勝利であったといえる。黒川実氏(平実カ)案文(*14)には「旁々得助成候而、可及静謐」とあり、晴景に敵対した中条氏などの勢力も天文12、13年頃に降伏したと推測される。



以上が伊達入嗣問題に端を発した奥山庄、小泉庄を周辺とした抗争である。周辺領主はもちろん長尾為景・晴景、伊達稙宗・晴宗らの出陣も認めるように軍事抗争として規模の大きいものであったことは間違いない。揚北領主間の独自交渉、為景から晴景への家督継承、伊達天文の乱などと重なりその経過はかなり複雑である。ここまでそれらを踏まえながら当時の抗争の経過を素描できたと思うが、今後も検討を要する部分も多々ある。特に天文10年前後における越後国内での抗争については検討を続けていきたい。


*1)『新潟県史』資料編4、1126号
*2)天文10年における田村氏の伊達氏服属については佐藤貴浩氏「田村氏の存在形態と南奥の国衆」(『戦国時代の大名と国衆』戒光祥出版)に詳しい
*3)『越佐史料』三巻、854頁
*4)『新潟県史』資料編3号、979、981、982、997号
*5) 同上、775号
*6)同上、998号
*8)『加能史料』戦国10、239頁
*9)『新潟県史』資料編4、1086号
*10)同上、1125号
*12)『新潟県史』資料編4、2076号
*13) 同上、2045号、ちなみに、『新潟県史』によると宛名は「色部、竹俣、荒川、黒川、加地、安田、水原、鮎川、新発田、五十公野、小河」とある。これがこの時点での長尾晴景方の主要な揚北衆であり、敵対した中条氏の名がないことも一貫して中条氏が稙宗方につき抵抗していたことを示す。
*15) 『晴宗公采地下賜録』奥書に「天文十一年六月乱之後」とあり、伊達天文の乱の勃発が天文11年6月であることが確実である。
*16)『新潟県史』資料編3、2045号
*17)黒嶋敏氏「はるかなる伊達晴宗」(『戦国大名伊達氏』戒光祥出版)
*18)『越佐史料』三巻、856頁
*19)『新潟県史』資料編4、1089号
*20)『新潟県史』資料編4、 1084号
*21)『越佐史料』三巻、860頁
*22)『新潟県史』資料編3、776号