山吉孫五郎は永正7年の上越国境における紛争において活躍している。その詳細を整理して、孫五郎の動向を把握してみたい。
永正7年6月長森原の戦いにおいて山内上杉可諄が戦死し同憲房が上野国白井城へ退却したことにより一年にわたる長尾為景・上杉定実と山内上杉可諄・憲房との抗争が終結する。すると、抗争末期に為景と相模国において連携を取っていた長尾景春入道伊玄が上野国へ移動、援軍を要請し、為景は援軍を派遣した。7月28日には伊玄と為景派遣軍の福王寺彦八郎が宮野(みなかみ町、猿ヶ京)で山内上杉軍に勝利している(*1)。8月3日に上杉憲房が「長尾左衛門入道伊玄起逆意、彼同名六郎致一味、沼田之庄内ニ打入、号相俣地ニ令張陣候」(*2)と述べており、長尾伊玄と派遣軍が沼田庄内、相俣(みなかみ町)に着陣したことがわかる。[史料3]より沼田氏も味方しており、伊玄が沼田庄を拠点としたと理解される。
[史料1]『越後三条山吉家伝記写』
自伊玄之切紙委細披見、先以足軽於山中被置候者、可然候、其方之事者、諸軍打着之上、時宜調可被遣候哉、何様其庄江寄陣可申合候、其有無之切紙返申候、謹言
八月十三日 定俊御判形
山吉孫五郎殿へ
[史料2]『新潟県史』資料編5、2457号
御折□(御折紙カ)披読、則及披露候、仍小森沢弥二郎在所へ、近辺地下人等令乱入候処、□□制止被相静由、可然候、随而上田庄被成其御刷上、落居不可有程之由被仰越候、専一候、先書如申欠く各被差越候条、能々被遂御相談、御武略簡要候由、可得御意候、恐々謹言、
長尾
九月廿五日 為景
兵部まいる人々御中
[史料1]は古志を拠点とし上杉定実の実父とされる上条定俊(*3)発給の孫五郎宛書状である。長尾伊玄からの書状が孫五郎を介して越後へ送られたこと、伊玄らが足軽を山中に配置したのは良いこと、孫五郎は援軍が着いた上で派遣される予定のこと、定俊も「其庄」へ出陣する予定であることが伝えられている。
この時点で孫五郎がいた「其庄」はどこだろうか。
[史料2]は[史料1]の翌月のものであるが、ここから長尾伊玄が戦う沼田庄だけでなく、越後国内上田庄においても紛争があったことがわかる。上田庄は山内上杉氏の影響が大きく、ここを本拠とする上田長尾氏も抗争中は山内上杉氏についていた。このように、上杉可諄の戦死後も山内上杉勢力の抵抗は残存していたと考えられ、為景はその鎮圧にあたる必要もあったのである。
山吉孫五郎に宛てられた8月20日付長尾伊玄書状(*4)に「先度以使申候処、十八・十九日両日ニ、可被打着由候間、待入候」と、本来なら8月18・19日頃着陣予定だった孫五郎が伊玄の元へ着いていないことがわかる。「中途ニ滞留如何」と伊玄が不満を表すように、孫五郎は出陣しながらも関東の手前に在陣していたのである。
よって、孫五郎は上田庄に在陣していたと考えられる。
[史料3]『越後三条山吉家伝記写』
自府中書状共、早速具委細披見、則及御報候、於其方皆々伊玄書状罰文有披見、□へ可被遣候、此上諸軍談合簡要候、謹言
自六郎殿之切紙返可給候
八月十三日 定俊御判形
山吉孫五郎殿へ
上田庄に在陣していた孫五郎は[史料3]からもわかるように、越後国長尾為景と上野国長尾伊玄の間の外交交渉に奔走していたようである。
[史料4]『越佐史料』三巻、558頁
御注進状致披露上、被成御書候、可為御満足候、
一、兵部為御意見、福王寺ニ少々被相加人数山を可被越之由候哉、他国之儀候間、毎篇無越度之様可仰合事専一候、
一、御上使御公用以下、堅被仰付候故、近郷之方出陣延引之由候歟、是又兵部へ御申候て、御催促尤候、次自御上使如仰越候、今度御出陣之方取分、其方御同道衆濫妨狼藉以外之由候、雖無申説候、堅可被仰付事簡要候、
一、従沼田殿書状も、前之御返事恩田同名中も同前候間、不及御返事候、
一、自伊玄御一札、并罰文状事、此方ニをかせられ候、
一、夫丸事示給候、何様正盛談合申内候、可得御意候、
一、昼夜之御陣労奉察候、何様旁追而可申入候、恐々謹言
九月七日 長寿院 妙寿
山吉孫五郎殿 御返報
[史料4]は[史料3]の翌月、孫五郎宛に府内長尾氏の奉行人長寿院妙寿から発給されたものである。条項に分けて検討していきたい。
1条と2条、6条は軍事活動に伴う注意である。1条より、福王寺氏の援軍として孫五郎がついに越山する予定とわかり、2条の「今度御出陣之方取分、其方御同道衆濫妨狼藉以外之由候」から孫五郎が兵の乱暴狼藉の取り締まりを命じられている。その範囲は孫五郎が率いる「御同道衆」が中心であるが、その他も含める「今度御出陣之方」に対しても影響力を持っているように捉えられ、孫五郎が派遣軍でも中心的存在であったことがわかる。また、6条にある「昼夜陣労」から孫五郎が上田庄において軍事活動を行っていたことが裏づけられる。
「兵部為御意見」や「兵部へ御申」など、兵部という人物が目立つ。この人物は上条氏であることから(*5)、[史料1]や[史料2]で孫五郎へ軍事活動について言及している上条定俊に比定できると考える(*6)。
3条、4条では孫五郎の外交交渉に関係するもので、長尾伊玄や沼田氏がその対象だったとわかる。この頃の沼田氏当主は伊玄の娘婿の顕泰と考えられている(*7)。
5条は、夫丸すなわち物資運搬の人足についてのやり取りである。孫五郎は正盛と談合するように求められており、この頃の山吉氏が正盛、能盛、孫五郎がそれぞれ活動している構造を示していると考えている。
この後、上野国において孫五郎、伊玄らの動向を伝えるものはない。実際に孫五郎ら追加の派遣軍が上野国へ向かったかは不明である。ただ、[史料4]において孫五郎側も為景側も越山への意思があったことから、越山した可能性は十分にある。ただ、長尾伊玄も翌年までには沼田庄から甲斐国都留郡へ後退しており(*7)、大規模な抗争に発展することはなかった。以後関東への軍事介入を行わなかったことからも、為景の主眼は関東への援助ではなく上田庄など国内の地固めであったのではないだろうか。
以上、山吉孫五郎の動向を中心に永正7年に行われた越後軍の関東派兵について検討した。永正6・7年の為景と山内上杉氏の抗争後、沼田庄における長尾伊玄の活動に加え上田庄においても抗争が行われていたことに留意すべきであろう。そして、それらおいて山吉孫五郎が活動していたことを確認した。当ブログでは山吉孫五郎が後年に見える孫右衛門尉景盛の前身と考えているわけだが、為景の派遣軍の主力として孫五郎が活動しているところに実名「景盛」を名乗った背景が見えてくるのではないだろうか。
*1)『越佐史料』三巻、558頁
*2)同上、555頁
*3)森田真一氏「上条上杉定憲と享禄天文の乱」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)
*4)『越後三条山吉家伝記写』
*5)『新潟県史』資料編3、171号
*6)森田氏は(*3)において兵部を上条定憲に比定する。個人的には、上条定憲はこの年6月時点で山内上杉氏方として「上条弥五郎」の名で見えているから、同年8月から為景方で山吉氏へ意見するような人物としては不適切に思える。『越後三条山吉家伝記写』は上条定俊を掃部頭とするが文書では確認できない。古志を拠点としていた定俊であれば、山吉氏とも地縁的繋がりがあったのではないか。
*7)黒田基樹氏「長尾景春論」(『長尾景春』戒光祥出版)、黒田氏はこの長尾伊玄の上野国北部における軍事行動は姻戚にあった沼田氏の存在に基づく、とする。