鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

山吉孫五郎と永正7年長尾為景の関東派兵

2020-10-03 21:00:52 | 三条山吉氏
山吉孫五郎は永正7年の上越国境における紛争において活躍している。その詳細を整理して、孫五郎の動向を把握してみたい。

永正7年6月長森原の戦いにおいて山内上杉可諄が戦死し同憲房が上野国白井城へ退却したことにより一年にわたる長尾為景・上杉定実と山内上杉可諄・憲房との抗争が終結する。すると、抗争末期に為景と相模国において連携を取っていた長尾景春入道伊玄が上野国へ移動、援軍を要請し、為景は援軍を派遣した。7月28日には伊玄と為景派遣軍の福王寺彦八郎が宮野(みなかみ町、猿ヶ京)で山内上杉軍に勝利している(*1)。8月3日に上杉憲房が「長尾左衛門入道伊玄起逆意、彼同名六郎致一味、沼田之庄内ニ打入、号相俣地ニ令張陣候」(*2)と述べており、長尾伊玄と派遣軍が沼田庄内、相俣(みなかみ町)に着陣したことがわかる。[史料3]より沼田氏も味方しており、伊玄が沼田庄を拠点としたと理解される。


[史料1]『越後三条山吉家伝記写』
自伊玄之切紙委細披見、先以足軽於山中被置候者、可然候、其方之事者、諸軍打着之上、時宜調可被遣候哉、何様其庄江寄陣可申合候、其有無之切紙返申候、謹言
 八月十三日   定俊御判形
  山吉孫五郎殿へ

[史料2]『新潟県史』資料編5、2457号
御折□(御折紙カ)披読、則及披露候、仍小森沢弥二郎在所へ、近辺地下人等令乱入候処、□□制止被相静由、可然候、随而上田庄被成其御刷上、落居不可有程之由被仰越候、専一候、先書如申欠く各被差越候条、能々被遂御相談、御武略簡要候由、可得御意候、恐々謹言、
                     長尾
 九月廿五日                 為景
  兵部まいる人々御中

[史料1]は古志を拠点とし上杉定実の実父とされる上条定俊(*3)発給の孫五郎宛書状である。長尾伊玄からの書状が孫五郎を介して越後へ送られたこと、伊玄らが足軽を山中に配置したのは良いこと、孫五郎は援軍が着いた上で派遣される予定のこと、定俊も「其庄」へ出陣する予定であることが伝えられている。

この時点で孫五郎がいた「其庄」はどこだろうか。

[史料2]は[史料1]の翌月のものであるが、ここから長尾伊玄が戦う沼田庄だけでなく、越後国内上田庄においても紛争があったことがわかる。上田庄は山内上杉氏の影響が大きく、ここを本拠とする上田長尾氏も抗争中は山内上杉氏についていた。このように、上杉可諄の戦死後も山内上杉勢力の抵抗は残存していたと考えられ、為景はその鎮圧にあたる必要もあったのである。

山吉孫五郎に宛てられた8月20日付長尾伊玄書状(*4)に「先度以使申候処、十八・十九日両日ニ、可被打着由候間、待入候」と、本来なら8月18・19日頃着陣予定だった孫五郎が伊玄の元へ着いていないことがわかる。「中途ニ滞留如何」と伊玄が不満を表すように、孫五郎は出陣しながらも関東の手前に在陣していたのである。

よって、孫五郎は上田庄に在陣していたと考えられる。


[史料3]『越後三条山吉家伝記写』
自府中書状共、早速具委細披見、則及御報候、於其方皆々伊玄書状罰文有披見、□へ可被遣候、此上諸軍談合簡要候、謹言
自六郎殿之切紙返可給候
 八月十三日   定俊御判形
  山吉孫五郎殿へ

上田庄に在陣していた孫五郎は[史料3]からもわかるように、越後国長尾為景と上野国長尾伊玄の間の外交交渉に奔走していたようである。


[史料4]『越佐史料』三巻、558頁
御注進状致披露上、被成御書候、可為御満足候、
一、兵部為御意見、福王寺ニ少々被相加人数山を可被越之由候哉、他国之儀候間、毎篇無越度之様可仰合事専一候、
一、御上使御公用以下、堅被仰付候故、近郷之方出陣延引之由候歟、是又兵部へ御申候て、御催促尤候、次自御上使如仰越候、今度御出陣之方取分、其方御同道衆濫妨狼藉以外之由候、雖無申説候、堅可被仰付事簡要候、
一、従沼田殿書状も、前之御返事恩田同名中も同前候間、不及御返事候、
一、自伊玄御一札、并罰文状事、此方ニをかせられ候、
一、夫丸事示給候、何様正盛談合申内候、可得御意候、
一、昼夜之御陣労奉察候、何様旁追而可申入候、恐々謹言
    九月七日                 長寿院 妙寿
     山吉孫五郎殿 御返報

[史料4]は[史料3]の翌月、孫五郎宛に府内長尾氏の奉行人長寿院妙寿から発給されたものである。条項に分けて検討していきたい。

1条と2条、6条は軍事活動に伴う注意である。1条より、福王寺氏の援軍として孫五郎がついに越山する予定とわかり、2条の「今度御出陣之方取分、其方御同道衆濫妨狼藉以外之由候」から孫五郎が兵の乱暴狼藉の取り締まりを命じられている。その範囲は孫五郎が率いる「御同道衆」が中心であるが、その他も含める「今度御出陣之方」に対しても影響力を持っているように捉えられ、孫五郎が派遣軍でも中心的存在であったことがわかる。また、6条にある「昼夜陣労」から孫五郎が上田庄において軍事活動を行っていたことが裏づけられる。

「兵部為御意見」や「兵部へ御申」など、兵部という人物が目立つ。この人物は上条氏であることから(*5)、[史料1]や[史料2]で孫五郎へ軍事活動について言及している上条定俊に比定できると考える(*6)。

3条、4条では孫五郎の外交交渉に関係するもので、長尾伊玄や沼田氏がその対象だったとわかる。この頃の沼田氏当主は伊玄の娘婿の顕泰と考えられている(*7)。

5条は、夫丸すなわち物資運搬の人足についてのやり取りである。孫五郎は正盛と談合するように求められており、この頃の山吉氏が正盛、能盛、孫五郎がそれぞれ活動している構造を示していると考えている。

この後、上野国において孫五郎、伊玄らの動向を伝えるものはない。実際に孫五郎ら追加の派遣軍が上野国へ向かったかは不明である。ただ、[史料4]において孫五郎側も為景側も越山への意思があったことから、越山した可能性は十分にある。ただ、長尾伊玄も翌年までには沼田庄から甲斐国都留郡へ後退しており(*7)、大規模な抗争に発展することはなかった。以後関東への軍事介入を行わなかったことからも、為景の主眼は関東への援助ではなく上田庄など国内の地固めであったのではないだろうか。

以上、山吉孫五郎の動向を中心に永正7年に行われた越後軍の関東派兵について検討した。永正6・7年の為景と山内上杉氏の抗争後、沼田庄における長尾伊玄の活動に加え上田庄においても抗争が行われていたことに留意すべきであろう。そして、それらおいて山吉孫五郎が活動していたことを確認した。当ブログでは山吉孫五郎が後年に見える孫右衛門尉景盛の前身と考えているわけだが、為景の派遣軍の主力として孫五郎が活動しているところに実名「景盛」を名乗った背景が見えてくるのではないだろうか。


*1)『越佐史料』三巻、558頁
*2)同上、555頁
*3)森田真一氏「上条上杉定憲と享禄天文の乱」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)
*4)『越後三条山吉家伝記写』
*5)『新潟県史』資料編3、171号
*6)森田氏は(*3)において兵部を上条定憲に比定する。個人的には、上条定憲はこの年6月時点で山内上杉氏方として「上条弥五郎」の名で見えているから、同年8月から為景方で山吉氏へ意見するような人物としては不適切に思える。『越後三条山吉家伝記写』は上条定俊を掃部頭とするが文書では確認できない。古志を拠点としていた定俊であれば、山吉氏とも地縁的繋がりがあったのではないか。
*7)黒田基樹氏「長尾景春論」(『長尾景春』戒光祥出版)、黒田氏はこの長尾伊玄の上野国北部における軍事行動は姻戚にあった沼田氏の存在に基づく、とする。

山吉景盛の動向3ー関連史料の紹介ー

2020-10-02 20:42:41 | 三条山吉氏
山吉景盛の史料類について紹介し、いくつか検討してみたい。


[史料1]『新潟県史』資料編3、535号
(端裏ウハ書)「              山吉孫右衛門尉
      和田山殿 御報              景盛」
御札具披見候、仍持地庵分配当之由承候、努々不存候、就中、御合宿中未配当不届之由候哉、何方ニも闕所候者、当人相当之義、被御覧合、可被仰越候、可申届候、随而下条入道方知行分事、承旨候キ、其分可被成配当之由、御返事事候キ、丹波守一札をも進候て、可然義候者、蒙仰可申届候、恐々謹言、
 十二月廿五日                 景盛

[史料1]は年次不詳の文書である。『長岡市史』は享禄初年と比定している。山吉政久が丹波守として見えるから、大永期以降であることは確実である。持地庵の所領の分配について和田山氏から異議が寄せられたため、景盛が所領の分配を調整している。「丹波守一札をも進候」より、山吉政久の対応もあったとわかる。山吉氏の郡司としての役割であろうか。

[史料2]『三条市史』資料編2、144号
於御神前、十七日間抽家一祈巻数頂戴願望候、勝者大槻正之内千苅令寄進状如件、
 天文十一年三月廿一日 景盛

[史料3]『三条市史』資料編2、162号
御社領役陳文之事、任詫言令宥免之、弥以可被抽惑祈事、可為肝秀者也、
 天文廿四日
   正月廿一日 景盛
 堀切
  八幡

[史料2]は景盛が三条八幡宮へ宛てた寄進状の写である。大槻荘の内千苅を寄進する、という内容である。

[史料3]も景盛が三条八幡宮へ宛てた安堵状の写しである。『三条市史』は語句に問題ありとするが、写しであることを考慮すると許容できる範囲ではないか。

『三条山吉家伝記写』によれば、三条八幡宮は山吉氏が「三条城二之丸」に建立したものであるという。

景盛発給文書は[史料1]から[史料3]、大永7年只見次郎左衛門尉宛山吉景盛書状(*1)、天文21年山吉政応等連署禁制(*2)の五通が残る。


続いて、『三条同名同心家風給分御帳』(以下『給分帳』)から景盛の所領を考えてみたい(*3)。
 
『給分帳』が記される天正5年時点で景盛が生存していたとは考えにくいが、「山吉孫右衛門尉」という名がみられる。孫右衛門尉は、名乗りは景盛に通じ、記載順も山吉玄蕃の次であり、その所領高も大きいことから一族中でも有力者と考えられ景盛の後継者である可能性が想定できる。ここでは、景盛の所領を推測するため孫右衛門尉の記載内容を検討する。

『給分帳』で孫右衛門尉の所領として、

福嶋村  現 新潟市西蒲区福島
灰潟村  現 燕市灰方
はり山  不明
筒井   不明
曲通   現 新潟市南区上曲通/下曲通
高木   現 燕市高木
こうや  現 三条市興野

が挙げられている。孫右衛門尉は全て合せて(本符見出し共に、以下も同じく)101貫700文という知行高である。これは『給分帳』の中で仁科孫太郎の138貫700文に次ぐ大きさである。また、孫右衛門尉は「当不作」として13,090苅があり、「当不作」を含めて考えると『給分帳』中最大級の規模となる。特に山吉氏一族と比べると山吉玄蕃允が42貫920文、掃部助が16貫569文、右衛門尉が12貫文、源衛門尉が53貫文、四郎右衛門尉が17貫文、兵部少輔が12貫530文とその差は歴然である。景盛と天正期孫右衛門尉の関係についての仮定を踏まえてではあるが、景盛が有力一門として大きな基盤を保持していたことが推測できる。


『上杉御年譜』においても景盛が登場する。天文12年に景虎が黒田和泉守、長尾平六と合戦に及ぶという内容が伝えられておりその中で、景虎が味方として招集したとされる武将として「中郡ニハ山吉丹波守、山吉孫右衛門、平子孫太郎、斉藤八郎、安田治部少輔、菅名神五郎、松本石見守、水原伊勢守、小中大蔵、和田山三郎等」が挙げられている。『上杉御年譜』における天文期の所伝は信頼に欠く部分が多く、黒田和泉守の反乱もこの年にあったとは思えないが、「山吉丹波守」が山吉政久、「山吉孫右衛門」が景盛を示していることは明らかである。山吉氏として政久と景盛が並んで記されているのも、景盛の影響力を示唆していよう。


以上が景盛の活動に関する史料的な徴証である。史料集などにおいて「山吉氏の一族。」といった簡潔な説明がなされる場合の多い景盛であるが、その存在は山吉氏の領主支配を支えるものであった。府内長尾氏の有力被官である山吉氏の一門である景盛が、府内長尾氏にとっても見過ごせない存在であったことはその実名が示している。戦国期において、領主一族の活動を史料で確認できる例はそう多くなく、景盛はその好例であるといえるだろう。


*1)『新潟県史』資料編3、525号
*2)『新潟県史』資料編5、2678号
*3)金子達氏・米田恒雄氏「「三条闕所御帳・三条同名同心家風給分御帳」の紹介」(『上杉氏の研究』吉川弘文館)において、現在所蔵されるものが作成されたのは戦国末期から江戸初期であるが内容は天正期と考えられる、とされる。『給分帳』の表紙には天正5年とある。『給分帳』「同名同心家風」の記載中に後の景長である山吉玄蕃が記されていることは景長の山吉氏継承以前の内容を記していると考えられ、表紙に従い原本は天正5年の成立と考える。


山吉景盛の動向2-大永7年領主間交渉ー

2020-09-26 16:52:46 | 三条山吉氏
山吉景盛の活動の中で最も有名なものは大永期の領主間交渉である。今回は景盛についての検討を兼ねて、この事例について掘り下げてみたい。


[史料1]『新潟県史』資料編3、485号
於領中片軸雑務出来候歟、就之、彼地被入手之由、覚外候、其子細只見次郎左衛門尉雖申断候、未被聞分候哉、無心元存候、自幾も前々筋目速可有分別事簡要候、委曲彼使任口上候、恐々謹言、
 五月廿三日          (長尾房景 判)
 山吉丹波守殿

[史料2]『新潟県史』資料編3、452号
御懇書具令拝閲候、仍五十嵐保内ニ候御知行分、従前々不入由、被仰越候、先規之義、若輩故無存知候之条、郡司不入証跡、只見次郎左衛門尉方江尋申候処、御直札忝候、前々義者、貴殿様も御無案内之由候、所詮至于当御代、別而被懸御目候之上者、自今以後義者、雑務等出来候共、可任御索配候、弥以無御余義候者、忝可奉存知候、不粉義候者、乍恐可申上候、速可被仰付事尤候、巨細猶御使者へ申達候、此旨可得御意候、恐々謹言、
(当時 異筆)「大永七年五月廿六日辰刻到来」
 五月廿五日           山吉丹波守
                      政久
 大関殿

[史料3]『新潟県史』資料編3、525号
就御領中雑務義、預御懇札候、祝着存候、御近所之義候間、万端可申合覚悟候間、被仰越候趣、無違輩御返事被申上候、我々満足候、定可為御同意候、於以後、御領中へ或者人下人、或者罪人等逃候て走入義可有之候、郡内義候間、不紛義候者、可申入候、速可被仰付事専一候、左様之義、未熟候て者、不可有其曲候、巨細五十嵐主計助方へ具令申候、恐々謹言、
 五月廿五日          山吉孫右衛門尉
                      景盛
 只見次郎左衛門尉殿 御報

[史料1]から[史料3]は大永7年に栖吉長尾氏と三条山吉氏間で行われた、「雑務出来」についての交渉に関するものである。これは藤木久志氏の研究(*1)に詳しい。それによれば、「雑務」とは逃亡人・罪人の追捕を意味し、[史料3]の「御領中へ或者人下人、或者罪人等逃候て走入義可有之候、郡内義候間、不紛義候者、可申入候、速可被仰付事専一候」とあるのがその具体的趣旨である。要するに、領主間における下人・罪人の人返協定である。これは郡司の権限によるものではなく「近所之義」(*2)とよばれる在地法にあたる、とされる。

それを踏まえて[史料1]から[史料3]を考えてみる。

[史料1]において逃亡した下人もしくは罪人の追捕すなわち「領中雑務」のため山吉氏が栖吉長尾氏家臣大関氏の所領へ介入を図ったことに対し、栖吉長尾房景は「前々筋目」を以て抗議した。

[史料1]を受けた[史料2]において、山吉政久は「先規之義、若輩故無存知候」と弁明し、「自今以後義者、雑務等出来候共、可任御索配候」と人返協定に合意することを伝えた。交渉は蒲原郡五十嵐保の栖吉長尾氏被官大関氏知行が対象であり、大関氏側は「郡司不入」を主張していることがわかる。これは守護上杉房能の郡司不入廃止政策により不入権を失った大関氏が再びその認証を求めたと捉えられ、これに対して政久はそれを認めず代わりに「雑務」の「御索配」を認めた(*3)。このような点から、郡司による郡司権の行使と領主間の在地法が複雑に絡み合っている様子が窺えるのではないだろうか。

また、このケースでは見られないが永正5年頃の栖吉長尾氏・伊与部氏相論や永正16年古栖吉長尾氏・五十嵐氏相論など領主間での解決が見られない場合は守護権力の裁定が求められたように、領主・郡司・守護(または守護代)という重層的な構造がこの時代の特徴である。

[史料3]は[史料2]と同日に、景盛が栖吉長尾氏重臣只見助頼に対して人返協定の合意を伝えたものである。上述したように、この景盛の書状によって領主間協定の具体的内容が知ることができるのである。


[史料4]『新潟県史』資料編3、454号
就大関方刷、令啓上候処被聞召分、人頭雑物以下無相違可返給之由、被仰下候、忝候、就中、長谷川事、御成敗之由候哉、毎事如斯ニ、速被仰付、至于被懸御目者、可忝存候、此旨可得御意候、恐々謹言、
 二月廿七日          政久
 庄田内匠助殿

[史料4]は大永7年以降のものと思われる山吉政久から栖吉長尾氏重臣庄田氏へ宛てられたものである。「人頭雑物以下無相違可返給」、「長谷川事、御成敗」という二点について感謝する内容であり、藤木氏はこれを「『近所の義』の発動を具体的に示す注目すべき一例といえる」と指摘している(*1)。


このように、大永年間に山吉氏と栖吉長尾氏の間で人返協定の合意が見られ、当主山吉政久と共にその交渉にあったのが山吉景盛であった。景盛が当主政久を支える重臣の立場にあったことが理解され、また、当時の領主の存在形態も伺える貴重な事例であるといえよう。


*1) 藤木久志氏「戦国法の形成過程」(『戦国社会史論』東京大学出版会)
*2)『新潟県史』資料編3、166号 において下田長尾景行が「近所之義」を名目に栖吉長尾氏と五十嵐氏の相論に介入している。
*3) 中野豈任氏「越後上杉氏の郡司・郡司不入地について」(『上杉氏の研究』吉川弘文館)


※2021/1/10 「古志長尾氏」の表記を「栖吉長尾氏」に改めた。

山吉景盛の動向1ー孫五郎と景盛ー

2020-09-24 19:15:22 | 三条山吉氏
大永期から天文にかけて見られる戦国期三条山吉氏の有力一族として山吉景盛がいる。その実名「景盛」から推測されるのはその立場の重要性であるが、系譜中における位置づけや動向に関しては不明である。今回は、史料類から判明することを参考にその系譜関係を推測してみたい。


まず、景盛が山吉氏の系譜のどこに位置するかを考えたい。天文21年7月の山吉政応等連署禁制(*1)において、山吉恕称軒政応、豊守父子と共に景盛が署名していることから、嫡流と近親にあったことは確かである。景盛の史料上の初見は大永7年5月(*2)であり、終見は天文24年1月[史料2]である。(*2)書状は山吉政久書状(*3)と並んで出されたものであり、政久は「先規之義、若輩故無存知候」と述べるような若年であったから景盛は政久より年上と見る。この時点で政久が仮名孫四郎を名乗るのに対し、景盛が孫右衛門尉を名乗っていることも政久より景盛が年上であることを示している。すると、政久に兄は想定されないから景盛は政久の伯父あたると見られる。すなわち、能盛の弟にあたると考える。

これを踏まえると、永正7年に所見される山吉孫五郎が想起される。『三条山吉家伝記写』(以下『伝記』)より山吉景長が孫五郎を名乗ったとあるから、当主の兄弟が孫五郎を名乗ったとの推測が成り立つ。すなわち、永正期の孫五郎は能盛の弟ではないだろうか。『伝記』はこの孫五郎を「景政」とするが、「景政」の文書上の所見はなく、「政久」の項に「政久後庄応入道景政ト号」とあるように他の人物との混同も見られることから、誤りであろう。

ちなみに、永正期には山吉孫次郎という人物も存在し、政久の子息たちの名乗りを参考にすれば、長男孫四郎能盛、次男孫次郎、三男に孫五郎という関係が想定される。

また、『伝記』には山吉孫五郎宛の文書が数通収められているが、その伝来を考えると孫五郎と景盛の繋がりが見える。『伝記』は山吉景長三男の「景広」から分かれた森田氏に伝来しているのだが、「森田家系図」によると「景広」が「孫右衛門尉」を名乗ったというのである(*4)。すると、「景広」は景盛の孫右衛門尉家を継ぐ存在だと考えられ、受け継いだ文書は景盛関連のものと考えられないだろうか。

これらのことから、永正7年に所見される孫五郎は景盛の前身と推測できると考える。活動時期も被らず、孫五郎から孫右衛門尉という名乗りの変化も自然である。


景盛という実名は長尾為景からの偏諱「景」と山吉氏の通字「盛」から構成されるわけだが、その背景を考えてみたい。府内長尾氏からの一字を戴くその実名は当主としても遜色ないが、永正9年頃まで能盛が存在し(*4)、政久登場後に景盛が[史料3]「丹波守一札をも進候て」と述べるように、あくまで当主能盛、政久の元で活動していた有力一族と考えられる。一族でありながら為景に「景」字を与えられる立場にあったということになる。

山吉孫五郎の立場を見てみれば、孫五郎は永正7年に軍勢を率いて関東へ出陣し長尾伊玄との交渉も担当するなどその働きは重要なものであり、単なる庶子以上の役割を担っている。山吉孫五郎宛の山内上杉憲房書状(*5)も残っている。山吉孫五郎は国内外を問わずその存在を認められていたと推察され、その立場は「景」字をもらうにふさわしいのではないか。

能盛の生年推定や永正7年(1510)に孫五郎が所見されることから、生年は文明(1469~1487)後期から明応(1492~1501)であろうか。景盛の没年は終見である天文24年(1555)後であるから、孫五郎と景盛を同一人物だとすれば享年は60歳前後となる。二人を同一人物と見ることに矛盾はない。


最後に『山吉家家譜』における所伝を紹介したい。ただ、同家譜は内容について信用できる点は少なく、あくまで参考程度に用いるべきである。それを踏まえて、景盛に関連した部分を抜粋したものが以下である。第十七代当主「盛信」の弟に「景盛」の名が見られその仮名を「孫五郎」とする。また、「山吉丹波守政應入道景長」の五男「景政」が「孫五郎」、その後「源左衛門」を名乗り永禄11年に死去したという。

「景政」とは『伝記』において永正期孫五郎の実名とされる名である。すなわち、実際の名、所伝上の名、のどちらにおいても仮名孫五郎を伝えていることが確認できる。


以上より、永正期に山吉能盛の弟として山吉孫五郎、後の孫右衛門尉景盛が存在した、と推測できるであろう。



*1) 『新潟県史』資料編5、2678号
*2)『新潟県史』資料編3、525号
*3)同上、452号
*4)金子氏・米田氏「三条闕所御帳・三条同名同心家風給分御帳の紹介」(『上杉氏の研究』)
*5)『越佐史料』三巻、582頁

三条山吉氏の系譜3

2020-09-21 22:03:18 | 三条山吉氏
前回に引き続き山吉氏の系譜を辿っていきたい。山吉政久は永正16年に初見され(*1)、見附の給人や大関氏との折衝に当たっていたようであるからこの時既に山吉氏当主として活動していたと考えられる。

天文後期には政久は所見されず、代わりに恕称軒政応が見られる。花押型は異なるが、受領名丹波守が共通していることから同一人物と見る。

『越後過去名簿』に「月清政應 三条山吉但馬守立之 取次大串ヌイノ助 天文廿二 七月廿日」とあり、政応の死去は天文22年(1553)である。その生年を父と想定される能盛の活動が見られる永正(1504~1521)の初期とすると享年は50歳前後であろう。また、供養依頼者としてみえる山吉但馬守は有力な一族であろうか。

[史料1]『上越市史』別編1、99号
(前略)
年内云無余日、云遠路、巨砕山吉孫四郎所へ申遣候、雖若輩候、其口之儀候間、被加申御詞、急度御調可為本望候、恐々謹言、
 十二月五日     長尾弾正少弼
                景虎
 色部弥三郎殿 御宿所

[史料2]『新潟県史』資料編5、2678号
一、於当寺内狼藉人之事、被任前々御壁書之旨、可有打擲、万一違乱輩在之者、承而可加成敗事、
一、せつしやうきんたん(殺生禁断)の事、
一、とか人(科人)至于時走入候共、不可有御許容事、
一、同竹木きりとるへからさる事、
一、於御門前不可乗馬事、
右条々如前々御壁書、可守此旨、若違乱之族在之者、可在之者可処罪科之状、如件、
天文二十一年七月十六日      政応
                 景盛
                 豊守
本成寺

[史料3]『三条山吉家伝記之写』
再乱之砌、大渡之地下人悉退散之処、以其方荷責還住にて走廻り之段、神妙感之、雖然連々退屈之由尤無拠、然者其地之代官職申付之、無如在可致奉公者也、仍如件、
 正月廿八日     景久判
   西枝海右馬之助殿


[史料1]は黒川氏と中条氏の所領相論に関する天文21年の長尾景虎書状である。景虎が色部勝長に対し二氏の仲介を依頼している書状であり、奥郡と府中は遠いため三条の山吉氏と連絡を取るようにと伝えている。文中の山吉孫四郎はここで初見される人物であるが、山吉政久(入道政応)と同様に孫四郎を名乗る所から、その嫡子と推定できる。「若輩」とあることから、生年は発給者である景虎が誕生した享禄3年以降だと考えられよう。

『越後過去名簿』に「香雲宗清禅定門 越後三条山吉孫四郎殿御タメ直ニ立之 代六貫五百文取也 永禄元年九月廿二日戌午」とあり、これは上述した山吉孫四郎である。政久の嫡子孫四郎が早逝し、その後を孫次郎豊守が継いだと考えられる。

さて、これらを踏まえて『三条山吉家伝記』(以下『伝記』)を見ると「政久」の子として「政応」が挙げられ、「病身故若死ト云々」と記述されている。父子関係や死去についての点より、「政応」は史料に現れる孫四郎を指すと考えられる。「政応」の子として「豊守」がおり、その弟に「景長」がいる。「景長」ははじめ幼少で家督を継ぎ、「玄蕃入道」の後見を受けたとあるが、米房丸との混同があるように思える。「景長」を後見した「玄蕃入道」こそ後の景長にあたるだろう。要するに、系譜は米房丸の存在を把握せず「政久」と「政応」を別人としたため一代ずれが生じてしまっている。

こう考えると『伝記』中の「政応」の弟とされる「景久」の存在は示唆的である。「景久」の項には西海枝右馬助、又八郎に宛てられた書状が数通掲載されている。[史料3]はその一通である。代官職を与えていることから、景久は山吉家当主と見て然るべきである。『伝記』において、「政応」と「豊守」の中間に位置する人物であり、「景久」は政久の次代当主としてふさわしい実名である。正確性に欠く史料ではあるが『山吉家家譜』においても当主の一人に「景久」が挙げられるように、その存在は『伝記』以外にも見受けられる。ウェブ上においても孫四郎を景久に比定する考察があり、参考にさせていただいた(*2)。よって、孫四郎の実名は「景久」と推測しておきたい。


[史料2]は[史料1]と同年の連署制札である。ここで山吉豊守が初見される(*3)。豊守は政応と連署していること、花押型が類似していること、そして諸系図が一貫して父子関係を伝えることなどに従い政応の子として良いと考える。孫四郎の弟であろう。

さて、山吉豊守は永禄9年頃から本格的な活動が見られる。そして、豊守の嫡子と想定される山吉米房丸が天正4年12月に現れるから(*4)、この頃に死去したと考えられる。『伝記』が没年とする天正5年6月9日は米房丸の存在を把握していないためあまり信用できないが、享年36という記述を参考にすれば没年を天正4年とした豊守の生年は天文9年となる。

そして、豊守の後継者である米房丸も天正5年9月の『三条領闕所帳』(*5)作成までに死去した。天正5年6月9日は米房丸の没した日付かもしれない。

その後は天正5年12月の「上杉家家中名字尽手本」(*6)に「山吉」とだけ見える。

[史料4]『上越市史』別編2、1586号
急度染一筆候、仍当国惑乱、景虎・景勝辜負歎敷候間、為和親媒介与風出馬、越府在陣、因茲、弥次郎方へ及鴻鯉之音門候、自先代入魂之事候条、弥無疎略無様諫言可為喜悦候、委曲大熊可申候、恐々謹言、
  七月廿三日           勝頼
   山吉掃部助殿
   同 玄蕃允殿
   同 四郎右衛門尉殿
   仁科中務丞殿

[史料5]『上越市史』別編2、1967号
今度抽諸人忠信、神妙之至候、因茲、本領并木場之地、同河中嶋之内浄蓮寺分宛行候、弥奉公可致之者也、仍後日之状、如件、
天正八
  五月二十六日     景勝御朱印
       山吉玄蕃允殿

[史料4]は天正6年に武田勝頼が山吉氏関係者四名に宛てて本庄繁長への「諫言」を依頼したものである。この中で山吉玄蕃允は米房丸の次の当主山吉景長にあたる。しかし、この宛名をみると玄蕃允と他三名に全く差が無い。一方、[史料5]を見ると景勝から玄蕃允のみを宛名として本領、木場その他の土地を安堵されている。よって、景長の家督相続は、米房丸死去から数年経た御館の乱終結と共に景勝に認められたものであろう。それまで数年の間、正式な当主が不在という状況が推察できる。上述の天正5年12月の「名字尽」における「山吉」という表記は個人というより山吉家中を表している可能性があろう。『伝記』は景長が「天正八年ニ元服して玄蕃ト改ル」としているが、天正8年の家督相続を表していると考えられる。

本来庶子であった景長のその実名は、この時景勝から与えられたと見るべきだろう。景長の実名は、天正13年山吉景長判物(*7)における署名「景長」から史料的に裏づけられている。

景長については、『伝記』に詳しい。それによると、豊守の弟で、仮名は孫五郎を名乗ったとある。慶長16年に66歳で病死したという。逆算すると生年は天文14年となる。先に見た豊守の推定生年と合わせても弟と考えることは妥当である。天正8年時は、景長35歳であった。

この頃の山吉氏の一族は『三条衆給分御帳』に詳しく、[史料4]でみられる掃部助、四郎右衛門尉に加え、孫右衛門尉、右衛門尉、源衛門尉、兵部少輔が確認できる。

また、一族として『上越市史』が天正11年に比定する甘糟長重書状(*8)に「木場之儀者、山吉一悠斎証人御当地ニ差置申候」と山吉一悠斎という人物が見られる。一悠斎は山吉景長の混同が見られることがあるが、以降も玄蕃や景長の名が見られることから別人だろう(*9)。上述の6名の誰かかもしれない。

以上、今回は政久(入道政応)の子として孫四郎、豊守、景長の三者を推定しそれぞれ家督を継承したと考える。また、政久の頃に庶家として但馬守が、豊守、景長の頃には庶家として孫右衛門尉、掃部助、右衛門尉、源衛門尉、四郎右衛門尉、兵部少輔、らがいた。


よって、これまでの考察より山吉氏当主の系譜を推定すると以下の通りである。数字は文書上山吉氏初見の行盛を一代目とした時の代数である。

行盛¹-久盛²-正盛³-能盛⁴-政久/政応⁵-景久⁶
                    -豊守⁷-米房丸⁸
                  -景長⁹


*1) 『新潟県史』資料編3、451号
*2) gooブログ『越後長尾・上杉氏雑考』様を参考にさせていただいた。
*3)嫡子である孫四郎を差し置いてこの年10歳程度の庶子豊守が署名しているのは不自然にも思われる。本成寺文書は永禄年間に焼亡したと伝わりこれが複製である可能性もあり、注意は必要である。ただ、個人的には能盛の代にも正盛や孫五郎の活動が見られたように一族としての役割があったかもしれない。
*4)『上越市史』別編1、1315号
*5)同上、1351号
*6)同上、1369号
*7)『上越市史』別編2、3070号
*8) 『上越市史』別編2、2733号、『越佐史料』『三条山吉家伝記写』は「一悠斎」、『上越市史』は「一応斎」とする。