長尾為景と上田長尾房長の抗争は多数の史料が残っていがらこれまで十分な検討がされていない。前回まで、両者の抗争を中心にその実態について考察してきた。それを踏まえて、さらに文書の内容についても網羅的に検討し、それらを編年的に総集することで同抗争の理解を深める一助としたい。各文書の年次比定等の考察は以前の記事を参照してほしい(長尾房長の乱について - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。今回は天文2年から同4年までの範囲をみていく。
天文2年
[史料1]『越佐史料』三巻、794頁
敬白願書、抑今度凶徒乱入、当社悉以放火、併不恐神罰悪行非一、依之当敵上条播磨守并同名越前守、叛逆之張本人中条越前守・新発田一類、速退治事、神慮無私可令守護事、不可有疑、然者今年三カ年之内ニ、味方得吉事、怨敵忽滅却国中静謐所希也、今般之弓箭、早速属本意之上、則社頭如元造営、可励信心者也、仍如件、
天文二年十月廿四日 信濃守為景
居多神主
・上条播磨守定兼、長尾越前守房長、中条越前守藤資らと長尾為景の抗争が開始。
[史料2]同上、795頁
敬白願書
抑今度凶徒乱入、当社悉以放火、併不思神罰悪行非一、依之当敵上条播磨守并同名越前守、叛逆之張本人中条越前守・新発田一類、速退治事、神慮無私可令守護事、不可有疑、然者今年三カ年之内ニ、味方得吉事、怨敵忽滅却国中静謐所希也、今般之弓箭、早速属本意候者、則社頭如元造営、可励信心者也、仍如件
天文二年十月廿六日 信濃守為景
鵜川八幡神主
・天文3年における房長の動向を示す文書は他に残っていない。
天文4年
[史料3]同上、807頁
宇佐美前々造意連続、至于近日は方々江色々計策共々候、愚老事も雑説等雖申廻候、断而嶋津入道方意見之旨、不可有同心旨被仰切候故失手候、於事切も不可有差儀候、従何其要害用心不可有油断候、仍上田・妻有衆・薮神衆・宇佐美駿河守・大熊以下悉上条江相集候、然者水旱候間、指越案内者河東可打散候、下平方へ申越候、令談合如何共可相挊候、謹言
五月廿九日 為景 御朱印
福王寺彦八郎殿
・房長が軍勢を率いて鵜川庄上条まで出陣。
・定兼方宇佐美氏の調略により信濃島津貞忠との関係も予断を許さない状況にあったようで、為景不利との雑説が巡っていたよう。貞忠は宇佐美氏に同心しなかった模様。ちなみに、島津貞忠は天文5年11月に死去する(*1)。
・為景は福王寺氏、下平氏へ「河東」地域=妻有庄・波多岐庄周辺地域への攻撃を指示。
[史料4]同上、807頁
自上田口其地へ可及行候哉、各致談合堅固可相抱事肝要候、万一敵陣取候は、自此口可成動候、謹言
六月廿日 為景 御朱印
福王寺彦八郎殿
・福王寺氏へ下倉城周辺の敵の動向を問い合わせ、同上の防衛を指示している。
・内容が具体的ではなく年次比定は難しいが、「為景」署名とされることから天文4年6月と推測した。
[史料5]同上、808頁
河東江及行、方々放火之由神妙至候、弥以可相挊候、然は其地用心事各申合不可有油断候、謹言
六月廿七日 為景 御朱印
福王寺彦八郎殿
・福王寺氏は指示通り河東地域への攻撃を成功さ、引き続き下倉城の防衛に努める。
[史料6]同上、813頁
向五十澤口相動之上、秋谷之者共取手之外見合、及一戦得勝利、為始下平次郎太郎、数百人討捕之由、自金子勘解由左衛門所注進到来、粉骨之至、誠無是非心地能候、永々其口為押張陣之由、爰元無手透故、以切紙不申越候、別而相加世具段其聞候、感入候、謹言
七月十七日 房長
古藤清雲軒
・波多岐庄下平氏ら為景方が上田庄を攻撃するも五十澤の戦いで房長家臣古藤氏らに敗れ、下平氏は戦死した。
・房長は「爰元」に出陣中で上田庄を留守にしていた。[史料7]にある琵琶嶋の戦いと思われ、下平氏らの攻撃は留守中を狙ったものと推測される。
[史料7]同上、816頁
新山落居之砌、次郎太郎走廻候、定可為満足候、謹言
七月廿ニ日 房長
清雲軒
・古藤氏が新山城を落とした際の活躍を房長が賞している。「新山」は詳細不明だが、アラヤマと読み現南魚沼市荒山を指している可能性がある。地理的には五十澤と下倉城の間にあり、五十澤の戦いに勝利した古藤氏が荒山の拠点を攻略し、[史料7]に見える下倉城攻撃へ向かったと推測される。
・この文書については根拠に乏しく確定的な結論は難しいが、総合的に考えて上記推測が最も蓋然性が高いと判断した。
[史料8]同上、814頁
国分方へ之切紙披見、不始其口加せ儀、尤無是非候、上条之者共令同心下倉山へ相重候由、是又肝要ニ候、如何共各令談合、物裏之動、敵之往復、自由不致得之様に其刷専一ニ候、爰元備可御心安候、具自両人方可申届候、謹言
七月廿五日 房長
穴澤新右衛門尉殿
・房長方が為景方下倉城を攻撃。穴沢氏が出陣中の房長へ国分氏を通じて報告し、房長はそれを賞している。
[史料9]同上、817頁
河東江凶徒等相集、琵琶島へ及行候間、馬廻者共為助之候、然者其地人数相談、河東江為忍足軽可為放火候、将亦其地無油断可用心候、謹言
八月二日 為景 御朱印
福王寺彦八郎殿
・琵琶嶋の戦い。房長軍が河東地域を拠点に為景方の琵琶嶋上杉氏の拠点琵琶嶋を攻撃し、為景馬廻衆が救援へ向かった。
・[史料5、6]で房長の出陣が確認されており、琵琶嶋を攻撃した上田長尾軍は房長が率いていた可能性が高い。
・[史料3]に上条へ房長、宇佐美氏、大熊氏、薮神・妻有衆が集結していることが見え、上条定兼のもとに房長らが結集して琵琶嶋へ攻勢をかけたことが推測される。
[史料10]同上、820頁
於時宜者、始中終承旧申断候、然は如御望奥衆一筆相調進之候、至于上は任御兼約、早速可被顕其色候、以前之御思惟者彼書中存候歟、尤無拠存候、御動有御遅延者、弥愚拙可失面目候、委曲石勘可被申分候、恐々謹言
八月十四日 長尾越前守房長
平子弥三郎殿
・房長が平子氏へ味方に属するよう求める。
・軍事行動へ遅れないようにと念押ししており、定兼陣営への参陣を求めたと推測される。
[参考1]同上、820頁
以長尾越前守方、連々如承者、被属味方可被抽忠信由候哉、尤以簡要之至候、然者、西古志郡内皆以可被抱候事、不可有相違候、委細越前守方へ相断候、定可有伝語候、恐々謹言
八月十七日 定兼
平子弥三郎殿
・上条定兼も平子氏を味方へ誘う文書を発給しており、定兼-房長ラインともいうべき政治体制が構築されつつあったことが推測される。
[史料11]『歴代古案』第四、1323号
松苧山之事、各以談合忍取候由、神妙之至候、謹言
八月十九日 黄博
福王寺彦八郎殿
・「黄博」=為景は、福王寺氏らが「松苧山」=松之山を忍び取ったことを賞賛している。[史料8]において為景が福王寺氏へ指示した河東地域への攻撃が実行された結果と捉えられる。
・「黄博」の初見であり、為景が天文4年8月に入道したことがわかる。
・黄博の法名については以前の記事で検討している(長尾為景と「黄博」 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。
[史料12]『歴代古案』第四、1324号
於今度高柳口粉骨、殊被官人被疵候由、神妙無比類候、弥以相嗜可走廻候事肝要候、謹言
八月廿八日 黄博 御朱印
福王寺彦八郎殿
・松之山から柏崎方面へ進むと高柳という地名が現在も残る。松之山を攻撃した福王寺氏は琵琶嶋の戦いを援護するためそこから柏崎方面へ進軍していたことがわかる。
[史料13]『越佐史料』三巻、824頁
上田・薮上之人数、大熊彦次郎以下悉打振、蔵王堂口へ出張、其口事は可為留守中候、如何共令調法、妻有・河東を可焼候、為其急度申遣候、謹言
九月廿二日 黄博 御朱印
福王寺彦八殿
・蔵王堂の戦い。房長が軍勢を率い蔵王堂を攻撃した。詳しい経過は不明であるが、為景方が琵琶嶋の防衛に成功し房長らは後退、中郡への攻撃に転じたと推測できる。
・為景は福王寺氏へその間に敵が留守であるとして妻有・河東地域への攻撃を指示。
[史料14]同上、815頁
其地之傍輩共與同心、先衆に石坂口へ可相動候、少もらんほう狼藉致間敷候、堅可申付候、委細金子勘解由ニ申含遣候、今泉方をも指添候、能々可申合候、謹言
九月廿四日 房長
穴澤新右兵衛尉殿
・石坂口は現在の長岡市石坂地区を指すと推測され、蔵王堂の戦いに伴い房長が穴沢氏へも中郡への攻撃を指示したものと考えられる。
*1)『嶋津代々并庶子法号』(中村亮佑氏「米沢藩上杉家家中『嶋津家文書』について」文書館紀要第三十号)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます