戦国期越後国白川庄安田を拠点に活動した平姓大見安田氏について系譜関係を整理してみたい。安田氏の系譜については『安田町史』(中世編、以下『町史』)が『安田氏系譜』(以下『系譜』)を用いて詳解しているため、これらを参考にしながら進めていきたい。
応永31年(1424)10月27日加冠状(*1)には「元服 安田 平次太郎 平輔秀」とある。安田輔秀という人物がこの年元服し、以降当主として活動したことが推測される。
しばらく安田氏の所見はなく時代は下り、永正4年(1507)12月に「安田但馬守」が上杉定実から知行を宛行われている(*2)。青山弁氏(*3)には、輔秀と但馬守の間に二代があると推測している。
但馬守は上杉定実、長尾為景に味方し、永正5年には侵攻してきた蘆名氏の軍勢を草水にて打ち破っている(*4)。
しかし、永正10年に上杉定実と長尾為景の対立を含む抗争が勃発した頃、安田氏の動向は複雑になる。
まず、但馬守の動向から見ていく。永正10年9月の宇佐美房忠書状(*5)中に「今日向白川庄成働、今明日中に安田但馬守を可仕居候」とあり、安田但馬守が宇佐美氏らの軍勢に攻められていることがわかる。そして同年11月長尾為景書状(*6)において築地祥翼に対し中条藤資と共に安田城を落とし、早々に進軍するように要請している(「安田落居候者、早々御着陣簡要候」とある。)。安田但馬守の居城安田城を長尾為景に味方する中条藤資、築地祥翼ら揚北衆が攻め、その後藤資は上田庄に進軍していることから、安田城は落ちたと見られる。これ以後但馬守は所見されず、没落した可能性がある。
一方、同じ時安田実秀という人物の活動も見られる。永正10年8月に「安田弥太郎実秀」が中条藤資に別心が無いことを起請文で現わしている(*7)。『町史』などでは但馬守を実秀と比定するが、上述したように中条藤資は長尾為景に味方し安田但馬守を攻めていたわけだから、但馬守と弥太郎実秀は別人である。この時大見安田氏は分裂していたことがわかる。
大永7年10月に大熊政秀が段銭請取状(*8)を「安田弥太郎方」へ発給していることから、永正10年以降安田実秀が大見安田氏当主として活動したと考えられよう。
実秀の次代として見えるのが、長秀である。享禄4年1月越後衆連判軍陣壁書写(*9)に「安田治部少輔長秀」とある。天文13年に上杉玄清から知行を宛がわれている「安田治部少輔」もこの長秀であろう。長秀は『系譜』によれば弘治2年8月に死去したという。
また、『越後過去名簿』において天文10年に供養された人物として「徳厳 白川安田弥太良殿」という記述がある。既に長秀が官途名治部小輔を名乗り活動していることから、長秀の先代である弥太郎実秀ではなく、長秀嫡子の可能性が高いと思われる。
『越後平定以下祝儀太刀次第写』において永禄2年に太刀を献上した物の中に「安田新八郎」が見える。毛利安田氏の人物は別に見えるから、大見安田氏の人物である。天文10年に嫡子弥太郎が死去していたため、弘治2年長秀死去後に新八郎が家督を相続したと考えられる。
永禄4年川中島合戦の活躍による上杉政虎感状(*10)に「安田治部少輔」とみえるのは、新八郎の後身であろう。
新八郎/治部少輔にあたる人物を『系譜』は実名「有重」としている。ただ、一次史料では確認できない。『系譜』中には他にも「有」字を持つ当主らが記載されるが、同様に一次史料に見えない。そのためここでは、実名「有重」を参考程度に留めておきたい。
天正3年『上杉家軍役帳』に大見安田氏として見えるのは「安田新太郎」である。治部小輔「有重」の次代にあたる。天正5年12月『上杉家家中名字尽手本』にも安田新太郎が確認できる。
この人物は『系譜』に見える、「堅親」にあたる。『系譜』によれば、「堅親」は「筑前守 始新太郎 後輿親」とある。実名を文書で確認することはできないが、「新太郎」「筑前守」「堅親」という名乗りが他所伝類にも共通して伝えられ、その仮名、受領名は一次史料とも一致している。米沢藩による江戸初期の編纂物である『侍衆知行附』に「安田筑前守堅親」とあるから、その実名は確かであろう。また、『御家中諸氏略系譜』では「筑前守与親」とも伝わり、輿親/与親(輿は与の旧字)と改名した可能性もある。
『系譜』は、堅親が弘治3年に河田元親の三男として生まれながら天正年中に安田氏の養子へ入ったとする。また、それ以前一旦は和田中条氏の養子となりながらも「父子不合」という事態となり、実家へ戻ったという経緯を伝えている。また、『中条越前守藤資伝』においても、天正元年の中条氏当主の死去後上杉輝虎により河田元親三男「新太郎堅親」が名跡を継ぐよう命じられたが「中条ガ家臣一族心服セズ」という状況から養子入りは中止され、後に安田氏養子となり、「安田筑前守」と称した、としている。
天正3年には安田新太郎として堅親が見えることから、天正初めに安田治部少輔「有重」から家督を相続したことは間違いなく、その過程も概ね上記の通りとして矛盾はない。天正期の「安田治部少輔」は家督を継いだ堅親のことであろう。
ただ、『系譜』は堅親先代の治部少輔「有重」の没年を文禄2年4月としており家督相続後も約20年存命であったようである。そうだとすれば、『系譜』に「有重」の名乗りのひとつとして記載のある「伯耆守」は隠居後のものと考えられる。御館の乱を始め天正年間においても「有重」とされる人物はなお活動していたことが想定され、大見安田氏の動向を考える際に留意すべきであろう。早期隠居の理由は、堅親の養子入りに上杉謙信の意向を伴っていたことが挙げられようか。
天正6年9月20日には上杉景勝書状(*11)において「今度遂籠城、忠信不浅候」と述べられており、堅親らが御館の乱に際して景勝方に味方ことがわかる。同年6月跡部勝資書状の宛名の一人に「安田治部少輔殿」とあり、堅親である。ここから、堅親は新発田長敦、五十公野重家、竹俣慶綱らと同様に春日山城に在城していたとわかる。
この年、会津蘆名氏が混乱に乗じて3月末、と5月に越後国菅名などへ侵攻しているから、安田城に残っていた家臣団は蘆名氏への防戦に追われていたと考えられる。実際、同年9月14日に蘆名氏配下小田切孫七朗に宛てられた上杉景虎書状(*12)には「殊更安田地被乗捕、其上山浦衆引付、其元安田地金上内度々在城、堅固ニ被申付由、誠以大慶不過之候」とあり、9月の時点で安田城は金上氏ら蘆名軍によって落とされていたことがわかる。(*11)書状は居城を落とされた堅親の繋ぎ止めを目的とした景勝の行動であったかもしれない。天正7年6月には景勝が蘆名盛氏・盛隆父子から使者を遣わされ「当代懇意、可為祝着候」と述べているように景勝と蘆名氏の和睦が成立したと見られるから(*13)、このころまでには安田城は奪還、もしくは返還されたと考えられる。
ちなみに、天正後期以降に作成された『安田筑前守知行完納之覚写』によれば、安田筑前守すなわち堅親はその頃「安田館廻」の約406石の他、草水村、里村など計13カ所約1260石を領していた。
天正9年11月の上杉景勝朱印状(*14)まで治部少輔が所見され、天正11年1月上杉景勝過所(*15)からは「安田筑前守」が所見されるから、この間に名乗りを改めたと見ることができる。
『系譜』によれば堅親は慶長16年に83歳で死去し、嫡子「新太郎」「吉親」がそれ以前元和4年に死去していたため、新六郎、治部少輔を名乗ったという「家親」を養子としたという。
戦国期、大見安田氏の系譜は以下のように推定される。系図のみで見られる名乗り「」で表わした。
輔秀-某-某-(但馬守)-実秀(弥太郎)-長秀(治部少輔)-「有重」(新八郎、治部少輔、「伯耆守」)-堅親/与親(新太郎、治部少輔、筑前守)
*1)『新潟県史』資料編4、1490号
*2)同上、1491号
*3)青山弁氏「桓武平氏流越後城氏末裔系譜の研究」
*4)『越佐史料』三巻、503頁
*5)同上、595頁
*6)同上、603頁
*7)同上、595号
*8)『新潟県史』資料編4、1494号
*9)『新潟県史』資料編3、269号
*10)『新潟県史』資料編4、1497号
*11)同上、1498号
*12)同上、1675号
*13)『新潟県史』資料編5、3511号
*14)『新潟県史』資料編4、1499号
*15)同上、1500号
※20/12/12 『侍衆知行附』における安田堅親の記載について加筆した。
※21/3/29 安田弥太郎実秀、治部小輔長秀について安易に父子として位置づけていたが、その活動時期が近接し先代実秀が仮名でのみ所見されることなどから、父子関係とは限らないと判断し先代と次代といった表現に改めた。また、『越後過去名簿』に見られる安田弥太郎について長秀の嫡子ではないかと推測しているが、実秀と長秀の関係が不明である以上その血縁関係を推測することは安易であるかもしれない。今後の検討課題としたい。